第五章・牡丹(1)
「うわあ……」
感嘆の声を上げる榛名をよそに、碧は眉間に皺を深々と刻み付けていた。
原因は榛名の手の中にあった。両手いっぱいに広げられた布地。あれから一晩明け、今朝に届けられた代物だ。身一つでは女物の服に困っているだろうと、翠が手配してくれたのである。しかし。
「……どうしようか、これ……」
榛名が苦笑いでそう言ってしまうほど、ものは大量だった。
碧の部屋は見たところ十畳か十二畳程度と、王族のわりにこじんまりしているのだが、それが今や桐箱の山で足の踏み場もないような有様だった。とにかく手近の箱を開けてみたのだが、下着に帯、装飾品や靴と、何から何まで手当たり次第送りつけたようである。届けに来た女官ですら、口にはしなかったが何事かと首を捻り帰っていった。
「凄いね、こんなにたくさん。……すごく気を遣ってもらったみたい」
「こういうのは余計なお世話というんだ」
ぴしゃりと跳ねつける。碧は今朝からひどく気が立っていて、この状態が鬱陶しくて仕方ないようだった。乱雑な手つきで衣服を寝台に投げると、苛立ち紛れに溜め息をつく。
「……俺は今日仕事が立て込んでいるからもう出かける。この服は……」
苦々しげに一瞥すると、碧は言った。
「何枚か選んでおけ。残りは引き取らせる……」
榛名は困ったように笑った。
「確かに……これは一生かかっても」
――着られそうにない。
はっと口を噤んで碧を見上げたが、時既に遅く、碧は目を見張ると、みるみる表情を翳らせた。
榛名はうまく言い訳も出来ず、碧から視線を逸らした。
……ここでの一生は、一体いつまでのことなのだろう。榛名は一体いつ帰れるのだろうか。
翠に聞いて、はっきりしたことはただ一つ。待つしかない――つまり、これ以上あてがないということだった。
今まで、難しいとは分かっていても、どこかで何とかなるような気がしていた。それが元気でいられる拠りどころだった。そんな暢気な榛名に叩きつけられた現実は、非常に厳しかった。普段は前向きな榛名とて、どうしても落ち込んでしまう。
碧もそれを察しているのだろうが、今日の彼はとてもカリカリしていた。いつもなら励ましの言葉ひとつくらいかけるのだろうが、唇を引き結ぶときりと眉を逆立てて、すげない態度で上衣を翻した。
「……出かける。片付けておけ」
素っ気無い声を背中で受け流して、榛名はぼんやりと箱の山を見渡しながら、はあ、と深く嘆息した。
結局翠から貰った服は半分以上返却することにした。あまり沢山あっても収納しておけるスペースもないので、榛名に与えられた小さな箪笥一つにおさまる量を選ぶ。それも自分の好みより、出来るだけ色んな色や柄を揃えるようにしておいた。この世界でのスタンダードが未だによく分からない――榛名が女性に会う機会は少なかった――ので、とにかく選びやすそうなものを念頭に厳選した。
部屋を掃除し空箱をまとめてしまうと、榛名は寝台に腰を下ろして貰い受ける服を畳んだ。何か作業をしているほうが考え込まなくて済む。今はあまり先のことを考えたくなくて、無心に手を動かした。帰るとか帰れないとか、どうしたらなんて、考えても答えなんて出やしない。悩むだけ無駄だ。
指先に力が入る。ぱたぱたと折り畳む、その手に影がさした。
「何してんの?」
声を追いかけると、目前に見慣れた青年が立っていた。珍しく髪は高く結い上げず、首元でまとめている。普段のど派手な格好はぐっと落ち着いた色調でまとめられ、そうしていると立派に王族の一員らしく高貴さが感じられ、まるで別人のようだった。
ぐるりと一周視線を巡らせて、影虎は眉を顰めた。
「……なーに、この部屋。ひっどいことなってるけど」
「翠から貰ったの。女の子の服が足りなくて困っているだろうからって」
「ああ……そういえば榛名ちゃん、いつも翠の服着てるね。それ、元々ここに置いてあるやつでしょ」
「うん、そうみたい。わたしは知らなかったんだけど」
出会った当初、何故碧が女物の服を常備しているのか不思議だったのだが、どうやらこれは翠のものだったらしい。まさかそんな大事なものを渡されていたとは思わなかったのだが。
影虎は壁に背を預けると、淡く笑った。
「この寝台も翠のなんだよね。昔はしょっちゅうここに来てたんだよ。眠れないからって枕を持ってさ。その名残みたいなものだね」
「……そうなんだ」
小さな翠と碧が、二人並んで眠っている姿を想像して、榛名は何故か胸が痛くなった。
机と、箪笥と、寝台が二つ。大きな家具はたったそれっきり、無駄なものは一切排除されたこの空間に、何故寝台だけ二つもあるのだろうと思っていたのだが、翠のために置いていたのか。彼らしい理由だ。
ふいに手を止めて見上げると、影虎は何だかぼんやりとしていた。ここではない、どこか遠くを見ているような。
「……どうかしたの?」
「え?」
吃驚した様子で榛名を振り返る。
「元気ないみたいだから」
そう言うと、影虎は打たれたように目を見張った。そんなにおかしなことを言っただろうかと思っていたら、彼は落とすようにぽつりと呟いた。
「……そう見える?」
「うん」
「……そっか。俺、元気、なかったんだ」
榛名の横にどかりと腰を落とすと、影虎は無理に笑おうと顔を歪めた。その横顔は何だか泣き出しそうな子供のようで、榛名は急に可哀相に思えてきた。
「俺さ」
「うん」
「けっこー、きついかも……」
小さく自嘲する、その顔はやるせなさそうだった。
(こういうとき、影虎は笑うんだ)
こんなときまで、かもしれない。影虎はいつも笑う。笑うところしか見せてくれない。苦しいときは心のままに泣いてもいいと思うのに、そうできないのは碧と同じだった。
影虎は声を震わせて囁いた。
「……ごめんね。ちょっとだけこのままにして」
くたりと頭が榛名の肩に圧し掛かってきて、深い吐息がこぼれた。
一瞬意表をつかれたが、悄然とした姿があまりに弱々しくて、榛名は何も言わず肩をかした。
どうしたのだろう。昨日影虎は用事があると言っていたけれど、何かあったのだろうか。
そっと頭に触れてみる。影虎は抵抗することもなくただされるがままになっていたので、戸惑いながらも髪を撫でた。金色の毛並みは艶やかで、温かい息遣いが伝わってくる。落ち込む影虎を前にどうしたの、何があったのと問い質すのは憚られて、元気が出るようにと撫で続けた。普段から飄々としている影虎が落ち込んでいる様子は、こちらまで切なくなるものだった。
影虎はふっ、と小さく声を漏らして笑った。
「……榛名ちゃんはいいこだねぇ」
「そうかな。大したことしてないよ」
笑って返すと、影虎は低い声で言った。
「あのさ」
「うん?」
「榛名ちゃんさ、翠に会ったんだよね?」
問いに目を丸くして、榛名は穏やかに頷いた。
「うん。すごく優しくて、綺麗なひとだった。みんなが好きになるのも分かるよ」
「そか。よかった」
目を閉じてそっと笑む。感傷が詰まった、切ない微笑みだった。
影虎は首を持ち上げると、榛名の頭にぽんと手を載せた。
「ありがと。元気出たよ」
「本当?」
影虎はにっこりした。
「ほんと。で、榛名ちゃんは? どうだった?」
「え? ああ――ううん、駄目だった。翠の力のせいだってことは分かるけど、それ以上はって……」
「……そっか。残念だったね」
同情の滲んだ瞳に、どうなったのかずっと心配してくれていたのだと気付いて、榛名は苦笑を返した。今はそれが精一杯で、空元気しか出せそうになかった。
「でもさ、碧には他にあてがないわけ? 聞いてない?」
突然の問いに、榛名はつと時間を止めた。
「……聞いてない」
言われてみれば、他に何か方法があるかもしれないということを、榛名は全く考えていなかった。翠ほど可能性の高い話でなくともいい。小さなことでも何か掴んでいるかもしれない。彼は確証の薄い話を問われぬまま安易に口にはしないだろうから、それは充分有り得ることだった。だが。
「何か……碧には聞けなくて」
俯いて榛名はそう零した。何となくだが、碧にしつこく聞くのは勇気がいるものだった。そうしていても解決はしないと、分かっているのだが。
項垂れた榛名に、影虎は声を大にした。
「榛名ちゃんは遠慮し過ぎだって。帰る方法以外でもそうだけど、自分のことなんだから、もっと色々聞いていいと思うよ? 何考えてんのかとか、これからどうするつもりなのかとか。分かんないと不安なこと、たくさんあるでしょ?」
「不安なこと、かあ……」
不安はたくさんある。けれど、易々と口にしてはそれが形となってしまう気がして、心のうちで留めていた。
少し悩んで、榛名はぽつりと呟いた。
「わたしね」
「ん?」
「……本当は、翠に凄く期待してた。帰る方法、どこかで簡単に分かる気がしてて……。でも、そんなはずないんだよね。そんなに甘くなかった」
「榛名ちゃん」
榛名は眉を下げた。
「だめだね。勇気も覚悟も、全然足りなかった」
影虎は首を振った。
「……そんなこと、ないよ」
「ううん。わたし、弱虫なんだ。碧や影虎に嫌われたりするのが怖くて、これから先のことを知るのも怖くて。でも一番怖いのは……わたし自身の気持ち。寂しいって言葉にするだけで、もっと寂しくなって、自分が駄目になりそうな……。そういう、情けない自分が怖い。臆病なの、わたし」
声を上ずらせると、ぱしっと手首を掴む感触があって、榛名は驚いた。
力強い眼差しで、影虎は言った。
「臆病なんかじゃない。榛名ちゃんは弱いかもしれないけど、情けなくないよ。きちんと自分を知ってる。弱い自分を奮い立たせることが出来る。榛名ちゃんが翠のことを教えてくれたのは、勇気がいることだってちゃんと分かってるよ。強い人っていうのはね、榛名ちゃん。弱い自分を律することが出来る人のことを言うんだよ」
息を詰めて榛名は影虎を見つめる。
影虎はぐしゃぐしゃと髪を掻いて、ああもうと唸った。
「榛名ちゃん、行こ! 碧のとこ!」
「え? でも今、碧……」
「仕事中だってんでしょ? いいじゃん、一度くらい押しかけてみたら。もちょっと強引になってみなよ」
「でも迷惑かけちゃう……あたっ」
影虎の指が榛名の額を弾いた。
「でもじゃないの。女の子はわがままも花だよ。あいつ鈍感なんだからさ、ちょっとくらい図々しくて丁度いいんだよ。迷惑になるんならその前に帰ればいいんだし、人に会わないように行くから、顔見るだけでも」
榛名は額を撫で摩りながら、考えあぐねた。碧に迷惑はかけたくない。けれど――
不機嫌極まりない様子で去っていった碧の後姿が過ぎって、榛名は少しばかり気が変わるのを感じた。
「……うん、行ってみよっかな」
予想外の答えに、影虎の顔色が明るくなる。
「おっ。乗り気だ」
「影虎がいるなら大きな問題は起きないだろうし、わたしもちょっと碧のお仕事してる姿見てみたい。……なんて、好奇心」
へへっと頬を緩める。
そうだ。影虎もいるし、顔を出すだけ。たまにはほんの少しくらい碧を驚かせたって、罰は当たらないだろう。
「よし、そうと決まれば早速いこっか。準備は?」
「オッケー」
「……? 何それ」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたので、榛名はああ、と指でサインを作った。
「分かったとか、大丈夫だよってこと」
「ふうん? おっけー」
おどけて真似る影虎に、榛名は思わず笑ってしまった。
気が付けば落ち込んでいたのはどこへ行ったのやら、二人とも明るさを取り戻していた。




