第四章・兄弟(2)
彼女は風にも耐えぬように儚げだった。この世のものとも思えない美しさは妖精のようにも見え、体の稜線はあまりにか細く、それでも女性らしいたおやかさはしっかりと残っていて、彼女が男性でないことを証明していた。だが。
「どういう……こと? だって……王は、男じゃないといけない、はずじゃ」
うろたえる榛名に、彼女は大きな目を瞬かせた。
「……お客さまが来るとは聞いていたのだけれど……碧?」
「ああ。お前のことは知らない」
「まあ、そう、だからなのね。いたいけな女の子をこんなに驚かせてしまって、可哀相じゃないの。もう、しかたのない子」
ほうと溜め息をついて、丁寧な仕草で榛名に向き直る。宝石のような瞳に見つめられて、思わず榛名は身を縮めた。
「……初めまして。惟国王、翠……一応、肩書きはそうなっているのだけれど、どうぞ翠と呼んでちょうだいね」
ふわりとした微笑みは優しい。緊張に硬くなっていた榛名は肩の力が抜けていくのを感じた。彼女の微笑は、碧と違って身の竦むところがない。ただただ小春日のように、相手をまるごと包み込んでしまう。
随分間が空いたことに気付いて、榛名は慌てて頭を下げた。
「は、初めまして。佐川榛名です」
「榛名、さん?」
きょとんとした翠は思い出したように手を打った。
「……ああ! 碧から何度かお話を聞いているわ。碧と一緒にいるのよね? それならそうと言ってくれたらよかったのに。碧ったら、お客さまを連れてくるとしか言わないから驚いたわ。でもよかった。嬉しいわ、会えて」
無邪気な笑顔が光る。榛名は思わず見蕩れた。――こんなに美しい人がこの世にいるなんて。まるで天使のようだ。碧が執心するのも分かる。こんな人を好きにならないなんて不可能だ。
呆けていると、翠ははっとしたように口を押さえた。
「まあいけない、わたくしばかりお話していたわね。ごめんなさい、お喋りで。久しぶりに女の子と話が出来たものだから、ついはしゃいでしまったわ。あまり人とお話しする機会がないのよ。言葉が過ぎること、どうぞ許してね」
「い、いいえ! そんなっ」
頬を朱に染めて榛名はぶんぶんと頭を振った。翠は可愛らしいかたね、とにっこりする。その嫌味のなさ。
碧は薄く笑むと、寝台の隣に椅子を据えた。
「今日は加減がいいようだな」
「ええ、随分。碧は心配性ね」
そう言って目尻を下げる。そして再び手をぱちんと合わせて、
「そう、忘れてしまうところだったわ。説明をしなくてはいけないわね」
翠は半身を起こして寝台に腰深く座した。碧がすかさず手を伸べて翠を支える。
二人の面が重なると、似通った顔立ちもあって翠の顔色の悪さが一層際立って見えた。まるで陶磁器のように赤みのない肌をしている。殆どを床に伏して過ごしているというのは本当のようだ。
だが、見れば見るほど謎だった。彼女には確かに碧の瞳がある。それは王の証明に他ならない。だが、女性は王にはなれないはず――。
「……不思議そうね」
「あっ、ごめんなさい」
「いいえ、いいのよ。当然のことだわ。碧からは兄だと聞いていたかしら」
躊躇しながら肯定すると、翠はやんわり微笑んだ。
「対外的にはそういうことになっているのだけど、見ての通り、本当は姉なのよ」
胸に手をあてて、翠は長い睫毛を伏せた。
「……わたしは、碧の瞳であっても本来王にはなれなかった。それが古くからの慣習だったから、なりたいとも考えたことがなかったわ。順当に行けばそうね、碧が王になるはずだったのかもしれないわ。……けれどね、遺言があったの。先王、つまりわたくしたちの父が残した」
「……遺言?」
翠は静かに頷いた。
「ええ。……次の王は碧ではなく、翠にする、と」
悲しげに細められた瞳が、空を掴む。ふいに言葉を切って翠は小さく咳き込んだ。それまで黙っていた碧が即座に割り入る。
「顔色がよくないぞ、翠。代わって説明できる部分は俺が話す。無理をするな」
「……ありがとう、碧」
気遣う二人の間には、何の隔たりもない。ただ姉を心配し、弟を可愛がる、仲の良い姉弟でしかなかった。しかし、それは本来あってはならないことなのだ。
「でも遺言って、そんなに効力を持つの? 禁忌をひっくり返せるくらい」
榛名が尋ねると、碧は渋面になった。
「いや。そもそも王が遺言を残すなんて、前例がなかった。次の王はその時の情勢によって臣下で話し合い決めるのが慣例で、王が口を挟めるものではなかったんだ。だが、今回は先王が亡くなる前からかなり揉めていた。翠は論外だったが、影虎は出奔していて、俺も直系ではあるが血筋として相応しいとは言えない。それにその当時俺たちは十歳だ。勿論歴代に幼年の王がいなかったわけではないが」
「血筋……」
「まあ、色々とな。だが、幼いが故に大人たちの策謀とは無関係でいられた。……当時から理解はしていたんだがな。影虎たちと付き合うことを快く思っていないことも、翠が軽んじられていることも」
碧が生まれるまで、次代の王は影虎だと思われていた。宰相正妃の実子、何ら劣るところのない立派な継承者だ。だが、一年後に碧が生まれた。王の色を名に背負う彼が。
宮は緊張下にあった。誰を王とするのか、誰が最も相応しいのか。鬩ぎあう空気を、子供でも肌で感じていた。
それでも親しくなったのは、至極子供らしい理由からで、ただ遊び相手がほしかったからだった。碧たちにとって、同年で気兼ねなく遊べる子供というのは中々いないものだ。身分が違えば、どうしても対等にとはいかない。遊び相手を欲していたのは影虎も同じで、出会ってしまえば引き離そうとする大人たちに反抗したい思いもあって、却って仲は深まってしまった。宰相にとっても王にとっても、歓迎したいことではなかっただろう。
とにかく、と碧は息を吐いた。
「父がどういう理由で翠を選んだのかは知らない。全員が寝耳に水だった。だが考え方次第では、宰相にとっても翠が王になるというのは有難い条件なんだよ」
「ありがたい? でも、自分の子の影虎のほうがいいんじゃ」
「真っ当に行けばそうなるだろうな。だが、分かるだろう? あいつは父親を嫌って反抗した挙句家を出たんだ。今更大人しく王におさまるような奴じゃない。叔父上も影虎には手を焼いていたし、それが長年の懸念でもあった。……どちらにせよ、俺だろうが影虎だろうが幼年の王だ。実権を握るのは宰相になるのは分かりきっていた」
「宰相にとっては王は誰でもよかったってこと?」
「ああ。それでも俺や影虎が王であれば、宰相にとっても一筋縄ではいかなかっただろうな。……それなりに教育を受けてきたからな。宰相に対し反抗心もあるとなれば、成長して後、宮中は荒れただろうよ。翠はその点、形骸の王として打ってつけだった。教育も受けていない上、体が弱く、あまり立場を公に出来ないし、味方する人間がいようはずもない……」
榛名は青い顔で拳を握り締めた。
翠が王になれば、彼女は正真正銘、孤立無援となる。たった十歳の子供を巡り、そんな卑怯なことを考えた。――なんて、汚い。
「宰相が賛成すれば話は早かった。王として顔を出さねばならない時は俺が代理をして、実権を握るのは翠。――女であったことはもみ消され、王の実子は兄と弟の二人だったということになっている。真実を知っているのはごく僅かだ。宰相と御家方の一部といったところだろうか。元来王の血脈など、隠し子だの遠い血縁だの、そういう話は山のようにあるからな」
「でも仕事のときは……」
「翠は殆どこの寝殿でやっている。顔を合わせるのは事情を知ったごく少数の官のみで、執務室には殆ど出ない。俺のことは、翠王陛下と双子のように瓜二つの弟、碧殿下だと、皆そう思っている。子供の頃は特によく似ていたし、翠が病がちであまり顔を出さなくなっていったからな。あまり疑問には思わないんだろう」
確かに、碧は見る限りいつも『殿下』と呼ばれていた。
だが――榛名は疑念に首を捻った。
「……碧、言ってたよね。宰相が今姿を見せないって」
「言ったな」
「こうなったのが宰相の望みどおりの形なら、どうして出てこないの……」
寧ろ宰相は現在、宮廷を牛耳っていてもおかしくないはずだ。その彼が身を隠し、政治に無関心でいる理由が分からない。それは碧も同じ考えのようで、深く息をついた。
「はっきりとした理由までは分からないが、宰相の予想以上に王としてうまくいったのは確かだ。尚を更迭したのが大きいだろうな」
「え? でも影虎は、宰相にとって尚が邪魔だって言ってたけど」
目を丸くした榛名に、碧は小さく肯定を示す。
「それは一面正しい。それまで実際、尚は王に与していた。だが、侮られたのだろうな。二人揃って宰相へと鞍替えした」
碧は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「あのまま捨て置けば残った僅かな味方すら宰相へ持っていかれるところだった。俺たちにとっても最良の策だったわけではないが、己の孤立と引き換えに、尚を廃したんだ。現在まで盛り返したのは、宰相も予想外だっただろうが。翠の努力の結果だ」
「碧とわたしの、よ」
細い声で翠が付け足した。そしてきゅっと眉を歪める。
「……きっと、普通なら蟠りが残るものなのでしょうね。見方を変えたら、碧は手にしかけた王座をわたしのせいで逃したんだもの……」
「馬鹿なことを言うな」碧は吐き捨てるように言った。「俺は一度たりとて王座を望んだことはない。どうしてお前を恨むことがあるんだ。俺は王には向いていないし、なりたくもない」
「そう怖い顔しないで」翠が困ったように眉を下げた。「分かっているわ。碧が王にはなりたくなかったってことも、そう思う理由も。押し付けられたとも思っていない。これはわたしが自分で選んだ道だもの」
そう言う翠の顔は蒼白を過ぎて土気色だった。碧は焦って背に腕を回した。
「……そう思うなら元気でいてくれ」
苦渋を滲ませた呟きに、翠は弱々しく応えた。
「頑張るわ」
碧が労わるように翠の頬を撫ぜる。髪に挿した花飾りが小さく揺れて、くすぐったそうに目を細めると、翠は優しく碧の手を取った。
「……碧。ねぇ、どういった用事だったの? こんな時に慌てて約束を取り付けるのだもの。大事な話があったんでしょう?」
「……ああ」
碧はぐしゃりと顔を歪ませた。臣下ではなく、弟として翠の行く末を心配する顔だった。言葉が続かず、髪を掻き毟って、力なく頭を垂れる。
翠は小首を傾げて碧を覗き込むが、頑なな様子に榛名に目を向けた。先を促す眼差しに、榛名は頷いた。ぴしりと居住まいを正して、背筋を伸ばす。――きちんと言うと、決めてきたのだ。
「わたしのことを、どれくらい聞いていますか?」
問いかけに翠は目を和めた。
「可愛い女の子を預かっているというくらいよ。家が分からない子に申し訳ないことをしたから、預かることにしたと」
ということは、本当に名前程度しか知らないのだ。気を引き締めて、榛名は唾を飲み込んだ。
「……信じられないと思います。でも、信じてほしいんです」
慎重に話し始める。翠は真摯に傾聴していた。何も知らない彼女のことを思うと胸が痛んで、一瞬喉を詰まらせたが、腹の底から勇気を振り絞った。
「わたしは、未来から来ました。……だから、わたし……わたしは、この国の未来を知っています。わたしの知る歴史では、あなたが十九で……宰相に暗殺されると、あるんです」
唇が震える。それでも動揺していいのは自分じゃないと言い聞かせ、戦慄く唇を噛み締めた。
怖々翠を見る。彼女は一切変化なくただ榛名を真っ直ぐに見つめていた。その瞳には何の責めもない。恐れも驚きもなく、しんと澄み切っていた。
「……そう」
微かな返事のあと、翠は突然、綻ぶように微笑んだ。
「ありがとう。お話してくれて」
そう言うと、翠は榛名の手を包みこんだ。はっとして目が通う。
「そんな顔をしないで。あなたのせいじゃないわ」
「でも」
「……本当に。勇気を出してくれて、ありがとう」
丁寧に尽くされる言葉に、榛名は目頭が熱くなった。潤む目に、泣かないで、と翠の声が囁く。
「平気よ。わたしね、もうずっと長いこと、死を覚悟して生きてきたの。恐れがないわけじゃないけれど、自分でも驚くほど傷ついてはいないのよ。今日明日のことも分からないと思っていたけれど、でも、思ったより先は長かったみたい。そう思うくらいなの」
きゅっと胸の水晶を握って、榛名はかぶりを振った。長くなったとか、はっきりして清々したとか、そんな問題ではない。自分は翠に、確かな死を与えたのだ。傷つかないはずがない。
翠は困った顔で笑った。あまりに美しい、けれど儚い微笑み。
「……ねえ、榛名さん。わたしね、王になってよかったと思っているわ。本当よ。そのお陰でこうして碧と一緒にいられた。だから、どんなことが起きたって……この決断を後悔することはないのよ」
それは分かる。分かるけれど。榛名は泣き出しそうになるのを堪えて目をぎゅっと瞑った。
翠は眉を八の字にして、碧を覗き込んだ。
「碧も。そんなに落ち込まないで」
「……無茶を言う」
「どうして? 分かっていたことよ」
碧は震える声で唸った。
「……俺は宰相を殺してでも、お前を生かしておきたい」
翠は面食らって口を噤む。落ち込む弟を扱いかねたのか、指先を泳がせて、ちょんちょんと肩をつついた。
「ねえ、碧。わたしが幽玄に行くことは決まっているのよ」
碧はキッと顔を上げ、噛み付く勢いで言った。
「……何故。お前が本当は女だったと榛名は知らなかった。歴史の外で起きる出来事などたくさんあるだろう。やろうと思えばここから逃げることだって出来るかもしれない」
「いいえ。この瞳を持つ以上、それだけは出来ないわ」
翠は厳かに告げた。嘆くように顔を歪める碧を、優しく説き伏せる。
「どうか悲しまないで。いつか終わりが来ても、きっとまた会える日が来るわ」
「……幽玄で、だろう」碧は力なく首を振った。「死後の世界など興味ない。……俺は、お前に生きていてほしいんだ。どんなことをしても」
「そうできたらいいと、わたしだって思っているのよ、碧」
翠は少し悲しげに視線を落とした。
「ねえ、笑って。わたしは笑っている碧が好きなの。悲しい顔は見たくないわ」
憂いを秘めた面差しはけれど凛として、一切の迷いを感じさせなかった。翠の強さに触れて、碧はとうとう根負けした。
「……ああ。悪かった」
ほっとしたように肩を落とした翠は、碧が右手で強く手首を握り込んでいるのを見て噴き出した。
「その癖、子供の頃から変わらないのね。自分の気持ちを押さえ込もうとするときはいつもそう」
「煩い」
碧は軽く額を小突く。翠はいつまでもくすくすと笑っていた。
それから翠は碧に頼んで茶道具を用意し、和気藹々と三人で雑談に興じた。
他愛のない話ばかりだったが、話せば話すほど、榛名は翠の偉大さを思い知った。
彼女の強みはその美貌ではない。接するうちにいつの間にか長年の友人のように感じられる、その人柄だった。碧でさえいつものしかめっ面はどこへやら、屈託なく笑っている。王の御前だと気後れしていた榛名も、彼女が王であることなど気が付けば忘れ去っていた。
彼女が微笑めば空気が変わる。歌うような声は心を溶かしていく。まるで魔法のように、彼女は人を虜にしてしてしまう人だった。
翠はころころとよく笑う。楽しげに榛名に説明してくれた。
「わたくしと碧はね、本当の兄弟のように育ったのよ。碧のお母様は早くに亡くなってしまったから、わたくしのお母様が碧を一緒に育ててくださったの。少しだけ生まれがはやいから、わたしが姉」
「そうなの? だから幼馴染の中でも特別仲がいいんだ」
「影虎たちと知り合ったのは少し経ってからだったからな。それまでは親たちが会わせないようにしていた。……翠の母は別だったが」
「特別?」
「ええ、そう。顔を合わせたことを知って他のかたは無理に引き離そうとしていたのだけれど、お母様は子供は子供同士で遊ぶのが一番いいのよって、そう仰っていつも味方してくださったわ。鷹揚なかただったの」
へえ、と榛名は相槌を打った。
「お母さん、翠に似てた?」
「見た目は全く似ていないな。……そうだな、派手な人だった。血縁関係はないが、どちらかといえば影虎に似ている。平然とした顔でとんでもないことを仕出かす辺りは、翠にそっくりだったが」
碧の揶揄に、翠はまああ、と大仰に驚いてみせた。
「わたくし、こんなにお利口にしているのに」
「今だけだろう?」
口元を覆い隠してくつくつと喉を鳴らす碧に、翠は「あら、どうかしら」と唇と尖らせた。見た目のたおやかさと違い、中身は無鉄砲な性質らしい。
「そうだ、透に聞いたのよ。碧、影虎に会ったんですってね。元気にしていた?」
明るく問いかける翠に、碧は苦りきった顔で答えた。
「煩いくらい元気だ」
それを聞いて翠はぷっと笑う。
「相変わらずね、二人は」
「あいつの話はどうでもいい。それより、榛名。聞かなくていいのか」
水を向けられ、榛名もはっと思い出した。そうだった。話が盛り上がってしまい、ついうっかりしていた。
「あの、翠。碧から聞いたんだけど……翠はこの国の『翠の力』に詳しいんだよね?」
「? ええ。碧よりは分かると思うわ」
「……聞きたいことがあるの。わたし、未来から来たって言ったよね。今碧に協力してもらって、帰る方法を探してるんだ。翠にも何か分かることない? 小さなことでもいいんだけど」
翠は顎に手を添えて考え込んだ。
「……そうね。未来から来たなんて話は聞いたことがないけれど、翠の力が影響したという可能性はあると思うわ。何かここに来ることになったきっかけはあった? 何でもいいわ。思いつくことを話してみて」
「えっと……わたし、学校の課題で惟の遺跡にやって来て……」
榛名は言葉を切った。
(……遺跡?)
確かに榛名は惟の宮殿に入った。長い石階段を上って、鳥居をくぐって。少し風が冷たかったことを、よく覚えている。だが――それはどこだっただろうか? 不思議なことに、いつ家を出たのか、どうやってそこまで行ったのかが、ぽかりと抜け落ちていた。町のはずれ、ということは何となく思い出せるのだが。
その時後頭部に激痛が走って、榛名は咄嗟にこめかみを押さえた。バットで殴られたような強烈な痛みに顔を顰めていると、碧が怪訝そうに眉を顰める。
「頭が痛いのか?」
榛名は苦笑した。
「大丈夫。あ、そう、それで……宮殿の中の小さな部屋に入ったんです。碧と最初に出会った部屋。そこに水晶が落ちていて、拾い上げた瞬間、気が付いたらここにいたの」
「水晶?」
深く頷いて、榛名は首から皮紐を外した。そこに下がっている大きな水晶は以前より一層輝き、揺れると僅かに紫に瞬いた。
「拾ったときはもっと古ぼけていたんだけど」
手渡した水晶を、翠は日に透かすかのように高く掲げた。何の変哲もない、ただの水晶だ。
それを手のひらの上に乗せると、翠は両手を重ねて瞑目した。
心なしか、部屋の雰囲気が入れ替わったように感じる。重さを持った空気が翠を中心に爆風のように広がっていって、頬をなぶった。気圧されるような風に、芯が竦む。それは時間をかけてゆっくりと収束していって、再び目を開けた翠は何事もなかったかのように榛名に水晶を返してきた。
「ど、どう……?」
恐る恐る尋ねると、翠は難しい顔をした。
「……確かなことは言えないけれど、これに翠の力が込められていることは確かよ」
えっ、と榛名は声を上げた。
「どういうこと?」
「多分、この現象の原因はこれなの。この中にある翠の力が何かのきっかけで働いて、あなたは運ばれてきた。ああ、でも安心して。これのせいで、またまるで違う世界に行くということはないと思う。これはこの時代にあるのが相応しいものだから」
「この時代にあるのが相応しい……? じゃあこれって、元々ここにあったものなの?」
「……それはよく分からないわ。何だかうまく掴めなくて」
「戻る方法はないのか?」
「可能性はあるわ。これにはそれだけの力がある。碧の瞳と同じ。ただ、どうやってその力が発動するかが分からないの」
「……碧の瞳と同じ?」
碧が探るような声で尋ねると、翠は力強く頷いた。
「ええ。碧の瞳というのは、器なのだから」
「器?」
「そう。この碧が現れるのは、体内の力がそうさせるの。何も力があるのはわたしたちだけじゃなくて、この惟に住む人みんなそうなのよ。量の問題なの。器がどれだけの力を蓄えられるかという。例えば、影虎のお兄様なんかは純粋な碧ではないけれど、瞳に僅かな碧を宿しているわ。碧の瞳の中には数えられないけれど、そういう人もいるのよ」
「……これにもそれと同じ力があるってこと……?」
翠は頷いた。思わず手の中の水晶を二度見するが、どこを見ても変わったところはみられなかった。
「この水晶が碧の瞳と同じだというのなら、俺や翠にもそういう力があるのか? 例えば俺が榛名を元の時代に帰すことが出来るとか」
翠は暗い顔で首を振った。
「……無理でしょうね。力があるのと、それを行使できるかは別よ。あくまでわたしたちは器。もし仮に出来たとしても、わたしたちはもう既に器として生まれついているの。体の一部である力を使い果たしたら、生きてはいられないでしょうね」
「意思を持たない物体だからこそ可能だと?」
「ええ。それも偶発的だったからこそなの」
それでは、と榛名は呻いた。――結局、待つしかないのだ。いつかこの水晶が再び瞬く日まで、あてもなく調べ続けるしかない。期待するなと忠告されてはいたが、翠の答えに榛名は打ちのめされた。出来るでも、出来ないでもなく、ただ待てと。何十年かかるかも分からない空を切るような答えは、到底受け止められるものではなかった。
落ち込む榛名に、翠は労わりをもって慰めた。
「……大丈夫よ。わたしも何とか探してみるわ」
それは気休めにしか過ぎなかったが、榛名はこくんと頷いた。これは翠の優しさだ。彼女まで気落ちさせたくない。
「……そろそろ帰る。長居したな、翠」
碧はさっと腰を浮かせた。これ以上ここにいても、傷を舐めあうばかりで、より落胆を深めるだけだと判断したのだろう。その気遣いに榛名は胸を撫で下ろした。翠にも榛名にも、一人ショックから回復する時間が必要だった。
翠は名残惜しそうだったが、榛名の口数が減ったのを見てあっさりと引き下がった。
「楽しかったわ。可愛いお客様で」
「だろうな」
「よければまた来てね、榛名さん」
「はい」
榛名が笑みを作ると、少し寂しそうに翠は微笑んだ。
「覚えていて。きっとあなたは、答えを見つけられる」
瞬く榛名に、翠は深く頭を下げた。
「……碧のこと、よろしくお願いします」
――わたしじゃ、そばにいられないから。その声にならない声が、聞こえた気がした。
誰より辛いのは翠なのだと知って、榛名は翠の細い手を取った。
「……また来るね、翠。絶対。それまで元気でいてね。約束」
ふふっと笑って、彼女は密やかに囁いた。
「ありがとう。……楽しみにしているわ」
*
ぽすんと枕に頭を落として、翠は天井を見上げた。
日の入らないこの部屋は、暗い。病がちになってから、翠は日差しが苦手になった。以前は野山を駆け回り、鳥を追いかけ、一日中遊びまわるのが好きだったというのに――それも、とうに思い出と成り果ててしまった。苦い吐息を落として目を閉じる。
思えば随分長いこと走り続けてきた。王になり八年。この牢獄のような部屋の中、閉鎖された世界でがむしゃらにやっていくうちに、いつの間にか過ぎ去っていた。
碧はこの世界を呪う。彼には彼の事情があるから仕方のないことだけれど、それでも翠にはこの世界が呪わしいとは思えなかった。幸せに思うこともあったし、人の優しさに触れたこともあった。閉じた世界を哀れむ人もいるかもしれないが、本当に楽しかった。
(……わたし、本当に幸せなのよ。碧)
宰相のことでさえ、翠は恨んでいない。彼がいたから幼馴染である影虎とその兄妹や透に出会えた。
同じ十八の、普通の娘と比べたら、恵まれない人生だと人は言うだろうか。だがこうして生まれなければ、恐らく翠はもっと早くに亡くなっていただろうし、父や母、碧に出会うこともなかった。
――恵まれていたのだ。確かに、翠は。だから後悔はしていない。立ち止まる気もない。偽王だと知りながら助力してくれる幾許かの人々と、何も知らず王を信じる幾万もの民が翠にはついている。何より最もその身を犠牲にした碧のため、翠はその命の限り走り続けなくてはならないのだ。
そっと目を開けた。
碧が連れてきた、小さな客人。踊るような瞳が可愛い女の子。碧が人を連れてくるだなんて、初めてのことだった。
(……あの子)
「まるで、泣いているみたい……」
水晶を手にしたとき、本当は――翠には、全てが見えていた。あれは御璽と同じ。碧の瞳しか触れられない、運命の象徴。
もし最初に榛名が翠と出会っていたのなら、運命はまた少し違ったのかもしれない。御璽に触れたことのない碧は、何故彼女が碧の瞳しか触れられないはずの秘宝にいとも容易く触れられるのか――決して知ることはないだろう。
だが、もう既に出会ってしまった。運命に書き換えはきかない。
あの子にもまた、天命が待っている。
その時、部屋の隅でかたりと小さく何かが動く音がした。
翠は驚いて身を起こした。何か、いる。
「……誰?」
誰何の声に、いらえはない。
思わず身じろぎしたが、疲れが祟って逃げることは出来なかった。
恐怖より先に、これからのことが頭を駆け巡る。まだ駄目だ。この国はまだ王を失えない。完全に宰相の実権にあったものを何とか取り戻したばかりで、王がいなくなれば簡単に瓦解してしまう。それだけは駄目だ。
父や母が暮らした国を、碧や大切な人々が生きるこの国を守りたい。それだけが今の翠にとっての為すべきことなのだ。この身で出来る、最後のこと。
暗い影がゆらりと動いて、足音が一歩一歩、鮮明に響く。息を呑んで、紗幕の向こうに影が落ちたとき、翠は覚悟を決めて布団を引き掴んで目を瞑った。
「……何してんの」
とす、と覆いかぶさった温い肌の感触に、翠は恐る恐る目を開けた。
「……かげ、とら?」
顔は抱きしめられて見えなかったが、確かにそれは影虎だった。太陽のような明るい金色の髪、聞きなれた優しい声。どうして、ここに。翠の声を聞いて、一層力がこもる。
「抵抗くらいしてよ。死ぬ気?」
「……わたし、抵抗しているうちに死んでしまうかもしれないもの……」
そう零すと、影虎は小さく笑った。
「本当に、ばかだね……翠は」
静かな碧い瞳がこちらを見つめている。暗い、紫の濃い碧。
「……それを言いに来たの? 影虎」
口の端を引っ掛けたように皮肉げに微笑む影虎は、少年の頃の面差しを残していた。よくそんな風に笑っていた。辛いことがあるたび、斜に構えて見せるのは影虎の習慣のようなものだった。
頬にひたりと手が添えられる。
「たまにはいいよ」
藪から棒にそう言うので、翠は大きな目をぱちくりさせた。影虎は苦笑すると掠れる声で囁く。
「愚痴言ってみたり、怒ってみたり、もうやだって喚いてみたりしてもいいよ。俺の前では、泣いてもいいから」
「それを言いに来たの? 影虎」
同じ言葉を投げかけると、そっとうべなう。
じんと温もりが広がって、二人は寄り添いあった。
影虎は黙って翠の背を優しく支えてくれていて、その手がいつの間にか翠の体などゆうに包み込めるほど大きくなっていたことを知った。
「ありがとう、影虎」
大丈夫。わたしは、しあわせ。
――だって、こんなにも温かいものを知っている。
そう呟きながら、翠には既に分かっていた。おそらく、もう二度とこの温もりに包まれることもないだろうと。




