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碧の瞳  作者: 古瀬ヒイロ
本編・胡蝶の夢
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第五章・牡丹(2)

 惟の夏は、明るい。全てが陽光のもとに引き出され、きらきらと輝いている。

 照りつける日差しは苛烈で、けれど青々と手を伸ばした木によって肌を焼く熱さはない。葉の隙間から漏れた日が水面に下りて、回廊から眺める榛名の目に眩しく光った。

 宮殿はその大半を森に囲まれている。元々ここは切り立った山の上に聳えていて、殆ど崖といってもよく、通用門や正門以外から入ることは容易ではない。その高さと風がよく通る造りもあり、回廊にいる限りは宮は水を撒いたような涼しさだった。熱風に煽られたような暑さが続く榛名の時代とはその点、大きく異なっている。

 惟の服もまた、季節に関わらず袖が長いため見た目には暑そうにも思えるのだが、たっぷりとした着丈のため格別の暑さを感じることはなかった。

 そもそも、惟の服は着物というには緩い。夏には下着代わりの内着、これは多くの場合淡い色合いをしていて柄も薄い――その上から上衣を着る。こちらは時には色糸の縫い取りもあって華やかだ。基本はその二枚。宮殿に仕える官などはその上から更に上衣を羽織るし、人によって腰布を巻いたり変わった帯を締めたりと着方は多彩であるが、十二単のように着込むことはまずなかった。その着方が多彩、というところに榛名は難儀しているのだが。

 それでも、惟の人はお洒落だな、と思う。影虎などは特にそうで、帯の締め方ひとつ取ってもそれが窺える。――榛名もいつか、こんな風にとはいかずとも、きちんと着こなせるようになるのだろうか。現時点ではまだまだだな、と思うが。

「ところで影虎、碧がどこにいるか知ってるの?」

 先導する足取りに迷いはなかったが、榛名は碧の居場所を聞いたことがない。影虎にもわざわざ言い置いたりはしていないだろう。

「仕事してんでしょ? なら多分」

「翠のところ?」

 問いかけに、影虎は一瞬暗い表情になった。

「いーや。碧は……清殿にはあんまり入らないから」

 そう言って不明瞭に言葉を濁す。少しひっかかったが、ふうん、と軽く相槌を打った。確かに、あまり近くにいてはいつ二人の秘密がばれるともしれない。予防策なのだろう。

 周囲を見渡して影虎は言った。

「榛名ちゃんて、こっち側には来たことないんだっけ?」

「ない、と思う。ここって宰相の……」

「そう。宰相派の住む東側」

 やはり、と榛名は得心した。通り抜けたことは一度もないが、居住区を抜け中央、諸官の職場となると随分雰囲気が変わる。それが宰相側ともなれば、当然のごとく空気はまるで違っていた。一歩『こちら』に踏み込んだその瞬間、榛名は冷や水を浴びせられたように背筋が冷えていくのを感じた。

 目、である。いくつもの目がこちらを追いかけている。明らかな敵意を持って向けられる視線に、榛名は当初自分が怪しまれているのではないかと思った。碧の住む西でもそういうことはあって、怪訝に睨めつけられたことは幾度もある。

 けれど、そうではないとすぐに分かった。

 西の人間は、総じて無視する。それは影虎に限らず、碧でさえ時にはその対象となる。忌避、なのだと思う。榛名を怪しみ、碧を恐れ、そういう一切を無関心を装うことで避けているのだ。厄介事には関わりたくないから。

 東は、違う。影虎であれ誰であれ、ここに立ち入った時点で排除すべき敵なのだ。自分たちの領域に踏み込んだ余所者として。

 そのうち榛名は気付いた。下仕えの女官でさえ、あちらとこちらでは様子が違う。あちらは出来る限り簡素な格好をしていて、飾りも少なく、髪もまとめ、見た目より仕事のしやすさを重視していた。こちらはとにかく華やかで、それぞれが姫君のように飾り立てている。

「……全く雰囲気違うでしょ」

 空気に潜めるように影虎が囁く。

「あっちとは全然違うね。格好も空気も」

「そう。あちらはね、大抵平民出身なの。ということはどういうことかというと、あちらはみんな実力で身を立てている人ってことなんだよ。後ろ盾なんて何もない。仕事が出来るか出来ないか、それで将来の全てが決まる。特に女性は優秀でないと推挙でしか出世できないからね。切実だよ」

「だから格好が違うの?」

「まあ貧しいっていう理由も含めて、そうかな。対してこちらは殆どが宮に何らかの好がある。貴族と遠い親戚関係だとか、王を輩出した名家だとか、ピンからキリまでって感じだけどね。中には平民と大差ない連中もいるよ。貧乏貴族ってやつ。親戚中をあたって何とか推薦状を得たようなね」

 宮に出仕するには推薦状がいる。これは東も西も変わらない。その人物の人となりや経歴を検めるもので、各々提出しなければならない。だが、東に振り分けられるためにはそれに貴族や官の捺印がいる。これが即ち推挙を示すのだ。推挙するということは、その人物の一切を保証し、生じた不利益を請け負うということであるので、滅多なことでは請合ってもらえない。伝手のない場合は親戚や知人を虱潰しにあたっていくか、そうでなければなけなしの金を掻き集めて頼み込むしかなかった。

「……そうまでして来なくちゃいけないの? 西に来たいなら分かるけど」

 あからさまに眉を顰めた榛名に、影虎は大口を開けて笑った。

「いくら貧乏貴族だからといって、宮に来たいのは出世したりお金を稼ぎたいからじゃないよ。勿論貴族でも、敢えて西を選ぶ人もいるけどね。――東ではね、女官の中でも階級が出来ているんだよ。有名貴族の子供や名家の出身だと上位、下位はその付き人や、さっき言ったみたいに推薦状を貰うのもやっとの奴。そうしてここで宮の常識――ひいては貴族社会の常識を学ぶんだ。そういう時、自分ひとりだけがあぶれていたらどうなるか分かる?」

 榛名は少し言葉を詰まらせて、

「……えぇと。要するにこういう場所で知り合って、繋がりを作るってこと?」

「そう。ここでの位はそのまま大人になっても続くんだ。だから何としても加わっておきたいんだよ。連中にとっては宮の仕事っつーのは片手間。言っちゃえば下位の奴らがやることなんだよ。実際上位の奴らは貴族の暮らしと何ら変わらず優雅なまま、時期が来たら去ってく。そういう事情もあって、派閥抜きにしても東と西は折り合いが悪い」

「ああ、だから――影虎が睨まれてるんだ」

 そもそも、影虎が黙認されているのは宰相が彼を無視しているからだ。努力を積み重ねて出世を目指す西の人間からしてみれば、不用意に関わりたくない存在だろう。何せ一歩間違えば今までの実績が全て台無しになるのだから。

 しかし、東の人間にはあまりそれが関係しない。時期が来ればいずれ去るし、ここで出世する意味もないのだから。

 勿論今後のためにも不用意に宰相に刃向かうことはしないだろうが、だから邪魔者を睨みつけている。榛名は深く息を落とした。

 宮は閉鎖的だ。見慣れぬ他者を排除したがる。その点ではどちらも変わらない。人の息づく麓鳴と違い、ここは冷え切っていた。形ない刃は榛名を射竦める。……はやく、碧の部屋に帰りたい。

 気落ちするのを察したのか、影虎はことさら明るく声を上げた。

「ここ曲がったらすぐだよ」

 そう言って、押し出すようにして榛名を自分の影に隠す。不躾な視線に晒すまいと気遣ってくれる、その行為にほっとした。

 すれ違う人がいなくなり、ふと気付いた。

 曲がり角の向こう、きゃらきゃらと甲高く、鈴を転がしたような華やいだ声が聞こえる。

 不可解に思って立ち止まった榛名を押し退けるようにして、影虎は笑い声が響く部屋に乗り込んだ。

 そして眉間に大きく皺を寄せる。

「……何してんの、碧」

 覗き込もうと首を伸ばす榛名の目に入ったのは、机に向かう碧と、その背に絡みつく少女の姿だった。

 ぴしりと凍てついたように動けなくなる。影虎の声に顔を上げた碧と視線が通って、尚更何も言えなくなった。

 碧は突然のことに言葉を失っていた。榛名もまた棒を呑んだように立ち尽くす。胸が詰まって、考えがまとまらなかった。

 ただ一人、頬を寄せて抱きついていた少女は、榛名の姿を見てきゅっと目をつりあがらせた。

「何……その女」

「えっ」

 思わず間抜けな声が出る。

 少女は鼻を鳴らして愛らしい唇で吐き捨てた。

「薄汚い子。どこから入り込んだの?」

 榛名は真実ぽかんとしていた。そうするよりほかなかった。

 目の前の少女は、どう見繕っても榛名より年下だった。少しつり目がちなところがきつい印象を与えるが、小柄な体躯のため、それよりも可愛らしさのほうが勝っている。その彼女に罵倒されたという事実が、今ひとつ榛名には飲み込めなかった。

 立ち尽くす榛名に彼女は畳み掛けるように続ける。

「あなた、馬鹿なの?」

 これにも榛名は黙りこくるしかない。

「平民がどうしてここにいるの? いやだわ、はやく出て行ってよ」

 不快そうに口をおさえる彼女に、言い返そうなどという意地は出てこなかった。いや、思考が停止していたというのが正しい。空っぽの頭の中、暴言がぐるぐると回っている。こんな風に真っ向から悪意を浴びせられたことのない榛名は、反応の仕方さえ分からなかった。

「茜音(あかね)、うっさい」

 影虎が顔を歪めて耳を塞ぐ。しかし少女、茜音はめげるどころか更にいきり立った。

「ここを出たお兄様には関係のない話だわ」

「……それとこれは別問題でしょ。いいから黙れって言ってんのが分かんない? キーキーと耳障りだっつの」

「だってどう見たって平民じゃない。本当のことを言ってあげて何が悪いわけ? 見てよこのみすぼらしいの。しょぼくれた顔しちゃって、見てるだけで不愉快だわ」

 豊かに波打つ赤銅の髪を掻きあげ、つんと胸を反らす。今更のようにじくじくと胸が底から痛み出した。

「だから、黙れっつってんだろ? くどい」

 いらいらした口調で影虎は言った。

「ごめん榛名ちゃん。前言ったっけ? これ、俺の妹。茜音っていうの」

 榛名は軽く目を見開いて、茜音を振り返った。派手な顔立ちは似ているが、あまり兄妹らしくはない。

「……茜音、さん?」

 つい口に出すと、茜音はぴくりと柳眉を動かした。

「茜音様と呼びなさい。あなたなんかに軽々しく呼ばれるほど、わたくし、気安くないわ」

 ぴしゃりと締め出されて、榛名は一層困惑した。

(――碧様と呼べと、そういえば碧にも言われた)

 思い返す。睨み据える瞳は今の茜音ほどの嫌悪はなかったけれど、警戒と敵意に満ちていた。あのときの榛名は何も知らなくて、碧が本当に『様』なんかじゃ足りないくらいに高い身分の人間だということも、そういう社会があるのだということも何一つ知らなかった。

 でも――。

 針でこまかに刺されたような微かな痛みを感じ、榛名は面を伏せた。顔を上げていられる自信がなかった。

 真横ではあ、と深い溜め息が聞こえる。

「茜音さあ……何でここにいるの」

 影虎はいっそ嫌気がさすといった風だった。実の妹に対する態度とは思えないほど冷ややかだったが、茜音にも擦り寄るようなところは見られない。燃えるような深紅の瞳を翻してせせら笑った。

「あら。お兄様こそ。どうしてこんなところにいらっしゃるわけ?」

「俺はこの子の付き添い」

「……ふうん」

 胡乱な目だった。ありありとこんな平民のためにか、と書いてある。それは榛名だけでなく影虎までも馬鹿にしたものだったので、さぁっと怒りが耳に朱を上らせた。

 茜音はそのまま無遠慮に榛名を上から下まで眺める。そしてふっと馬鹿にしたような冷笑を漏らした。

「随分平凡な子ねえ。お兄様、趣味悪ぅい」

 榛名は体が煮え立つように熱くなるのを感じた。確かに茜音と比べると見劣りがするのは明らかだが、その言い様はあまりにひどい。屈辱で口唇が震える。

 影虎は潮が引いたように表情を失くした。

「……お前さあ……一発殴られないと分かんない?」

「何? か弱い婦女子に暴力振るおうっての?」

「じゃあ何か。お前は自分が殴られるのはゴメンだけど、人を言葉で叩きつけるのは許されるんだ? 随分お偉いことで。んじゃ、も一つ。……偉い奴ってのはさあ、いつか必ず見下してた側の人間にしっぺ返しを喰うもんだろう? 反乱なり何なり、永久にその天下は続かないもんだよな。だったらその不穏分子代表格の俺が、お前を殴ったって構わないよな?」

「な……」

 一瞬怯んだ茜音は、すぐに立て直した。

「なあによそれっ! まだ年端もいかない十二の子供を年の離れた兄が殴っていい言い訳になるわけ?! 大体私はさっきから間違ったことなんてひとつも言ってないわっ! ここはこんな人が来ていい場所じゃないの! 分かったらとっとと出て行ってよ!!」

「平民平民ってうっせえなあ。大体、この子はお前の大好きな碧の預かりものだよ。権利だのはこの子じゃなくて碧に聞けよ」

「え?」

 茜音は一瞬眉を顰めた。そしてキッと怒り顕わに榛名を睨みつけると、びしりと指を向ける。

「あなた!!」

「……は、はい」

 思わず神妙に返答する榛名に、茜音はやや満足げに目を細めて言った。

「どうしてこんなところに潜り込んだかは知らないけれど、そのぼやっとした間抜けな頭でもきちんと分別がつけられるように言っておくわ。私は碧の婚約者なの。将来結婚する約束をしているの。分かる、あなたと私たちじゃ立場がまるで違うのよ。碧のどういった人かは知らないけれど、関係ないわ。身分を弁えてさっさと立ち去りなさい。そして二度と軽々しく話しかけたりしないで。碧はあなたなんかが気安く話しかけられるような人じゃないのよ。お分かり?」

 叩きつけられた言葉に、榛名は呆然としていた。

 目を震わせて視線を上げる。碧は何故か少し悲しそうに見えた。けれどそれは一瞬で冷え切って、さっと伏せられてしまった。

 驚きに目を見張った時には、碧はもう情の浮かばない瞳で遠くを見ていた。決して振り向くことのない、冷たい表情。

 何故、という言葉とともに、茜音に受けた衝撃より重い一打がしかと胸を打つ。

 答えは明らかだ。碧だって同じ。関わらないでくれと、そう言っている。

 不思議と笑みがこみ上げてきた。

(わたし、もしかして、勘違いしてた……?)

 何をどう勘違いしていたのかは分からない。今まで一緒にいた碧は不器用ながらも優しくて、それは幻ではないはずだった。榛名が迷うとき、いつも戸惑いがちに伸ばされるその手があったのだから。

 なのに、どうして。

(多分、何か……間違ったんだ)

 今まで信じてきたものの中に、何か。きっと、嘘があった。

 どれだろう。一体何が間違っていたのだろう。

 榛名を信じてくれた碧。話をしろと言ってくれた碧。忘れないと約束してくれた碧。嘘はつかないと誓った碧。どれが本当で、どれが嘘だったのだろう。

 涙がせりあがってきて、堪らず榛名は笑顔を作ってみせた。溺れそうな胸をおさえて。

「……そ、そっか」

「榛名ちゃ」

「わ、わたし、邪魔だったね。ごめん、あの……か、帰る」

 それが精一杯だった。影虎を置いて一目散に引き返す。来た道順など全く覚えていないが、顧みることもなく走り出した。

 嘘。嘘。何もかも――嘘だった。

 まるで体が水樽になったように重い。ちゃぷちゃぷと音がする。

『二度と軽々しく話しかけたりしないで』

 頭の中でがんがん鳴り響く声に追いつかれないように、榛名は唇を噛み締めて必死で走った。




 慌しい足音は次第に遠のいていって、次に訪れたのは零下に届きそうなほど冷え切った空気だった。

 その発生源である碧と影虎は口を開けば今にも喧嘩が勃発しそうな様子で黙りきっている。強気の茜音でさえあまりの険悪さに碧のもとにも戻れず、決まり悪そうに視線を泳がせた。

 先に動いたのは影虎だった。怒りを引き連れて進み出ると、力任せに碧の机を叩く。

「碧!!」

 目の前に突き出た腕に、碧は気だるげに視線を上げた。

「……何だ」

「何だじゃないでしょ、何あの態度」

「さあ」

「碧、何を怒ってるわけ?」

「別に」

「一言以外で答えろよ。それより追いかけないわけ?」

 まあ、と茜音が声を上げる。

「お兄様ってば馬鹿じゃないの。何で碧があの子を追いかけなくちゃいけないのよ」

 影虎は辟易したように睨めつけた。

「お前には関係ない」

「何でよ、説明しなさいよっ」

「あーもううるさいんだよさっきからピーチクパーチク、南国に放ってやろうか?! ったく、碧っ!」

 顎をしゃくって暗に茜音を追い出すよう示唆する。碧は頬杖を僅かに動かして苦笑した。観念したように息を吐くと、

「……茜音。悪いが席を外してくれ」

「でも」

「影虎と話があるんだ」

 真摯にそう言われ、茜音もしおしおと萎えてしまった。碧にそこまで言われて逆らえる茜音ではなく、結局膨れっ面ながらもすごすごと退散する。

 影虎は茜音に見向きもせず、勝手に茜音が使っていた椅子を碧の対面に置くと、乱暴に腰を落とした。

「……碧、何考えてんの。あの態度はないでしょ。連れてきたのがまずかったわけ? にしても俺じゃなくて榛名ちゃんに八つ当たりするなんてさ」

「いや。……そうじゃない」

 筆を置くと大きく溜め息をついて、碧は眉間に指を添えた。

「影虎。一生とは、いつのことを言うんだ」

「一生? って……何のこと」

 低い声で碧は呟いた。

「……聞いたか? 翠のこと」

「ん? ああ、手がかりなかったってこと? それなら榛名ちゃんから聞いたけど」

 碧は僅かに目を伏せた。

「あれは、……あの水晶は、碧の瞳と同じだそうだ」

「同じ?」

 神経質に指を動かして、碧はぎゅっと手首を握った。

「あれには強い翠の力が込められている。それが何かのきっかけで、榛名を運んだそうだ」

 それを聞いて、影虎の目に明るい色が差した。

「じゃあ俺たちが何とかしてやれるってこと?」

「俺も聞いた。それはないそうだ。意思を持たない物質と俺たちでは違う。偶発的なものだったからこそこんな大掛かりなことが出来たんだそうだ。もし願って榛名を元の世界に帰すことが出来たとして、生きてはいられないだろうと」

「それじゃあ」

 影虎は愕然として言った。

「方法なんて、ないってことじゃないか……」

 碧はゆるゆると首を振る。

「可能性は、ないわけじゃない。あの水晶がどうして榛名を運んだのか、その条件さえ分かれば――」

「あれがこの時代のものなのかさえ分からないのにか」

 落胆に満ちたその言葉は、碧のものでもあった。杭のように深く突き刺さる。

 ずっとそれを考えていた。あの水晶がもし榛名の時代に存在したものなら、本当にお手上げだ。手がかりすら調べようがない。ここに未来はないのだから。

「……遠いな」

 僅かに笑みが漏れる。

「遠い……」

 希望を捨てるのには、まだ早い。そんなことは分かっている。落ち込みたいのは榛名のはずで、彼女のためにも前を向いているべきだ。

 けれど、と反駁する。けれど――。

「影虎。今一度問うてもいいか」

 引き攣った笑みで、碧は言った。

「一生とは、いつのことだ」

 影虎は息を呑む。碧の気持ちが、痛いほど分かった。――影虎とて、同じだったから。

「……俺は、今までずっと、榛名を俺たちの事情に巻き込むことに対して、いつか帰ることを言い訳にしていた。無意識に。……そう、気付かされた」

 油断、といえば、そうなのだと思う。実際、甘かった。

 彼女は当初、弱くて何も知らない、ちっぽけな存在だった。警戒するのが馬鹿らしくなるほど隙だらけで、騙されやすく、服一つまともに着ることが出来ない、危なっかしい少女だった。そのまま放っておけば野垂れ死にしてしまうのを分かっていて、まさか捨て置くわけにもいかず、渋々世話することを決めた。

 なのに。

 彼女の強さを知った。何度叩き伏せられても立ち上がる健やかさを、碧たちの持たないものを、彼女は持っていた。きっと、だからなのだ。

 深入りさせるつもりなどなかった。それがいつの間にか、彼女は懐深くに潜り込んで、笑っていた。それでも、それを拒絶しなかったのは、彼女がいつか去る人間だからで。

「だが、一生ここにいることになったら、どうしてやればいい」

「って言っても、知っちゃったことはもうどうにもならないでしょ。記憶は消せないんだから」

「ああ。……それで? 俺の近くに一生置いておくのか? 俺と一緒に冷遇され続けるのがあいつのためになるのか。俺はいつかいなくなるというのに」

 碧と一緒にいるということは、浴びせられる怨嗟をもともにするということだ。

 今まで、碧に近しい味方はいなかった。碧自身がそれを望んで冷酷な態度を取っていた。だが、今後ずっと傍にいるというのなら、榛名も同じ仕打ちを受けることになる。血筋も、巴も、因縁の何もかもを抱えていくのだ。それは一生変わらない。

 ずっと守ってやれるのならば、それでもよかったのかもしれない。けれど碧はいつか傍にいてやれなくなる。政略として誰かを妻にすることもあるだろうし、違う国に行くのかもしれない。その時一人放り出される榛名に、何の罪もないというのに。

「……榛名にそれを説明しても、本当の意味でその重みを理解できるとは思えない」

「んなことは」

「ない、と言い切れないだろう。榛名は今まで恐れもなく決断してきた。俺たちとともに行く、と。榛名が悪いわけじゃない。ただ……何が起こるか、口で説明すれば納得するものじゃないだろう。人は」

 人は愚かだ。自らの体でぶつかってみないと、その恐ろしさが分からない。どれほど説かれても、痛い目を見ないと分からない生き物なのだ。

「後悔してるって、言いたいわけ」

「……そうだ。一生を背負う覚悟がないのに、巻き込むべきじゃなかった……」

 巻き込むべきじゃなかった。榛名のためにはならなかった。彼女が望もうと、断固として突き放すべきだった。

 碧の弱さを掬い上げて、優しく包み込む。それがあまりに温かくて、つい――隣に、いてほしくなった。


 すう、と吐息が肺深く落ちていく音が聞こえた。

 つられて顔を上げたとき、雷が落ちた。

「馬鹿だろお前!」

 まさしく雷鳴の如く机に鉄拳が落ちる。ぽかんとした碧の手を無理矢理影虎は鷲掴んだ。

「そりゃあさ、俺だって分かってるよそんくらい! 碧がどう考えてんのかだって分かるよ! でもなあ、榛名ちゃんがどんな覚悟を持ってこの手に誓ったかってことまで、勝手に貶めるなよ!」

 碧は僅かにはっとした。

 左手は、誓いが宿っている。

 ――決して後悔しない。そう、誓った。

「碧は榛名ちゃんがここに来て何を思ったのか、これからどうしたいのか、何で翠のことを打ち明けたのか、その意味を分かってない。最初こそ何も知らないから突っ走れただけだったかもしんないけど、榛名ちゃんはそんな馬鹿じゃないよ。お前なんかよりよっぽどお前のことを、みんなのことを考えてる。自分で起こしたことを自分で引き受けるって、その覚悟を決めて誓った。見くびるなよ。考えた上で決めた榛名ちゃんが可哀相だ」

 左手が熱い。痛切に歪む顔を見て、はっとした影虎は手を離す。力が抜けて、すり抜けた腕は情けなく垂れ下がった。やりきれなくて、唇を噛む。

「あいつは俺よりずっと強い。……それでも変わらない保証はない」

 多分、碧が一番恐れているのは、それだった。

 この柵に囚われて、変わっていった自分。それが分かっているから、同じ場所まで榛名に堕ちてほしくない。彼女が変わってしまえば、きっと碧は碧でいられなくなる。

「馬鹿だなあ、碧は」

 影虎は軽く笑った。

「それこそお前の頭の中だけじゃ解決しない話だろ。榛名ちゃんの気持ち次第だよ」

「……気持ち次第……」

「今更突き放してどうなるよ。あの子はもう当事者になっちゃんだし、まだ手がかりを探さなくちゃなんない。そんな中途半端なことする前に聞いてみたらいいじゃん。どうしたらいいか」

 そう言って影虎は碧の胸をとん、と押した。

「そんで、自分にも聞いてみろよ。どうしたい、って」

「……どうしたいか」

「自分のしたいことの通りやってたら大体は後悔しないで済む。惑わされなきゃな」

 快活に言う影虎に、苦いものを滲ませると、碧は暗い表情のまま影虎、と呼びかけた。

「ならば、たまには本音を聞かせろ。何故急に俺たちに関わることにしたんだ。……避けていただろう、ずっと」

「いいや? 言ったでしょ、お前たちのことは心配してたよ」

「どうだか」

 猜疑に満ちた声に、にやりと笑う。

「そうだな、確かに避けてたよ。当たり前でしょ? 家を捨てた碧の瞳と、王と、隠蔽された碧の瞳。関わりあっても揉め事しか起きないのは分かりきってるじゃん。そうでなくても家を捨てた身なんだし、宮には今後一切顔を出さない。お前らにも会いたくなかった」

「その割には榛名のことに首を突っ込むじゃないか」

 じとりと睨みつけられて、影虎は声を上げて笑った。

「ああ、簡単だよ。見るからに榛名ちゃんはワケアリだったからね、巻き込まれてあげたらその理由が分かると思って」

 碧が絶句する。

「榛名のためじゃないのか」

「当たり前でしょ? 出会ったばっかだよ、特別な感情なんてないって。ああ、心配しなくても今は別だよ。榛名ちゃん面白いしほんといい子だし、誓いに嘘はない。ちゃんと守ってあげるつもりだよ」

「……信用ならない」

 碧が頭を抱えるので、影虎はからからと笑った。

「何。榛名ちゃんが可愛くてたまんないから守ってあげたくなっちゃったーって言ってほしいわけ?」

「心にもないことを」

「嘘はついてないじゃん」

 ふざけて笑っていたが、影虎はふいに真面目な顔をして目を細めた。

「――碧のことが心配だった。これは本当。雲行きも悪くなってきたことだし、しばらくは協力するつもりだよ」

「協力といっても、分かっているだろうが、お前、俺たちに味方するということは父親と争うことになるんだぞ。いいのか」

 これにも影虎は動じず鼻で笑ってみせた。

「今更だよ。俺が家を出た時点で親父にとっては敵と変わらない。それを気にするんだったら最初からここに残ってたって」

「……お前は、俺の味方か?」

 確かめるような響きに、影虎は深く微笑む。

「ああ。今はな」

 碧は小さく舌打ちして、目にかかる髪をかきあげた。

「……本当に胡散臭い……」

「ま、信じるかは碧次第だよ」

 肩を竦める影虎に碧は、

「俺はお前を信用していない」

 断言して、更に続けた。

「だが、お前の腕は買っている。お前は叶えられない、叶える気のない約定はしない」

「ああ、わかってんじゃん」

 皮肉るように口の端を上げて、影虎は言った。

「で? 俺が榛名ちゃん探しに行くけどそれでいいわけ?」

「……仕事がまだ残っている。見たら分かるだろう」

「了解。まあ仕事は仕事、私情は挟めないからな。ああ、でもうだうだ悩んでないで、ちゃんと後で本人と真っ向から話せよ。お前のせいで榛名ちゃんのこと傷つけたことに変わりはないんだからな」

「ああ」

 殊勝に呟く碧に、影虎は少し気を削がれてやんわり笑った。

「まあ、気持ちは分かるよ。……あんなに真っ直ぐ信じてくれる、そういう子が自分のせいで傷つくのも変わっていくのも怖い。碧の立場なら尚更」

 俺はここを捨てた身だから、と自嘲する。同じ碧の瞳であれど、未だに苛まれ続けている碧とは重みが違う。かつて同じ立場にあった影虎だからこそ分かる。碧の抱える全て、それを抱えたままではたった一人の少女を守ることさえ難しい。自分の身ひとつでも耐え切れぬほどの重圧だから。

 だが、と影虎は心中で反駁した。碧には恐らく、あの子が必要だ。翠がいなくなるその時、たった一人でも心にかける人がいなくては壊れてしまう。

 影虎はニッと笑うと、悠然と笑った。

「だから協力してやるよ。お前の抱えてるもの、俺が請け負ってやる。その代わり榛名ちゃんのこと、こんなところで見捨てたりするなよ。あの子にはお前以外頼るやつなんていないんだからな」

 碧は影虎をじっと見つめて、ふいに相好を崩した。

「……お前はお節介だな」

「うっせ。お前のせいだ」

 次第に、部屋には二人の笑い声が穏やかに広がった。

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