第三章・天の印(5)
影虎が戻ってきたのは、二人が落ち着いてから半刻ほど過ぎた頃だった。
取り留めもない話をしている中、降って湧いたように現れた影虎は、巴の前の殺伐としていた雰囲気は嘘のように、榛名たちの姿を見つけて明るく手を振った。
「お話は無事に済んだー? 榛名ちゃん」
「うん、ありがとう。わざわざ時間作ってくれて」
少しはにかむと、影虎は目線を合わせるように腰を折った。
「いえいえ、どういたしまして。こっちこそごめんね? 透がびびらせちゃって」
「……話すって、宰相にだよね」
声を低めると、影虎は僅かに顔を強張らせた。
「そうなるかな。透はさー、仕事に関してはほんと融通利かないから。ちょっと無愛想だし、結構嫌味だし、かなり性格悪いんだけど、でも多分悪い奴じゃないから。榛名ちゃん、嫌わないであげてね」
「嫌ったりは」榛名は眉尻を下げた。「嫌ったりはしないよ。悪い人じゃないってことは分かってるから」
実際、彼は決して興味本位で騒ぎ立てたわけではない。榛名にとって不利ではあるが、仕方ないことだ。何よりほんの少しの間だったけれど、榛名に話しかけてきた透の物腰は柔らかくて、悪い人だとは思えなかったのだ。
「おい」
碧が溜め息混じりに睨んだ。
「本人のいないところで勝手に偏見を植え付けるなよ」
影虎は軽い口調で言った。
「だって事実じゃん。それに榛名ちゃん、これから透に会う機会増えると思うんだよね」
「そうなの?」
「っていうか、今まで会わなかったのは碧の努力の賜物じゃない? 透って宰相付きのくせに碧たちの仕事にもかなり関わってて、宮中駆け回ってるんだよねぇ。そのせいか本当に神出鬼没で、その上耳聡いし。多分榛名ちゃんの様子見に来ることもあると思うよ」
「その努力をぶち壊したのはお前だろう」
「それを言っちゃだめでしょーが」
開き直って茶化す影虎に、碧はほんのりと苦笑した。少し遠くを眺める碧のかんばせは灯火で照らされ、夜を透かしているようだった。
いつになく大人しい碧に影虎は不審を感じたのか、唇を引きつらせた。
「……どしたの碧。変だよ? そこはいつもみたいにガーガーと家鴨そっくりに怒鳴るとこじゃないの?」
頬杖をついていた指先をぴくりと動かし、碧はゆっくり間をためて振り返った。
「……死ね」
「……簡潔ぅ……」
影虎が思わず声を漏らすと、碧は勢い付いて畳み掛けた。
「じゃあはっきり言ってやる。死ね。消え失せろ。今すぐ海の藻屑になって来い。やっぱりお前なんか大嫌いだ」
「やっぱりって何よ。何の話?」
「知るか。とっとと行くぞ」
「えぇ?! ほんと何?!」
やりとりを見ていた榛名は笑いを堪えるのに必死だった。肩をいからせて闊歩する碧は今頃、こいつのどこが心配しているんだと思っているだろう。
(自分のことは分からないものなのかなあ)
影虎が心配しているということ。碧を助けてくれる手がたくさんあるということ。碧は決して一人ではない。たくさんの人に恵まれている。
二人の背中を見つめながら、榛名はふっと呼び戻されるように意識が離れていくのを感じた。
――けれど、巴は。
巴は違う。
ぼんやりしている榛名に気付かず、影虎は笑いながら碧と会話していた。部屋に入って、木枠で出来た携帯できる灯篭を持ち出してくる。明るい声を耳にしながら、榛名は考えた。
巴はあの火だ。不安定で、一瞬のうちに形を変える。そうして檻の中、ただ絶望を訴え続ける、そういう存在。
彼女の悲嘆はいつか、碧のものになるのだろうか。
それを思うと背筋を恐怖が駆け巡った。巴は同じ場所にいながらにして、全く別次元に生きている。触れることは出来ても、何一つ通わない。それがどれだけ恐ろしいことか、目にした榛名には実感として身に染みている。碧が極端に恐れ、弱気になるのも当然のことだ。乞うように、恋うように、ひたすら求め続けられる。
あれは毒だ。ゆっくりと、だが着実に、身を侵す毒。
(あんな風に心を壊すなんてこと、あるんだろうか……碧に?)
足が止まる。
――そんなことが。あるなら。
何気なく振り返った碧が、首を傾げた。
「……何をしている? ぼうっとして」
「あ……ううん」
榛名は慌てて取り繕った。気取られてはならない。今一番恐れているのは、榛名ではない。
「何か見ていたのか?」
珍しいものでもあったのかと、碧は辺りを見渡す。
「え? あ、えぇと、ここどこかなって」
「ここか? ここは後宮だな」
そう言う碧の背から影虎がひょっこりと首を出す。
「榛名ちゃん、後宮って分かる?」
「王様に仕える女の人がいるところ?」
ありのままに答えると、
「ん? んー……何か榛名ちゃんの言い方だとすんごい平和そうだね」
可笑しそうに笑うので、榛名は『すんごい物騒』な場所なのかとぎょっとした。
「ま、間違っちゃないけどね。今はここには誰もいないよ。我が君は女嫌いでね」
「え」
思わず腰を引くと、
「嘘。びっくりした?」
「……」
あっけらかんと答えられて、榛名は気恥ずかしさと曖昧な怒りな湧き上がってきて頭を抱えた。
「……陛下は即位が十の時だったからな。年もそうだが、あまり丈夫な体ではないからそのまま先々に伸ばされて、今も妃は誰一人として不在だ。ここには数えるほどの人間しかいない」
「ま、そゆわけで俺も大手を振って歩けるってわけだ」
「いつものことだろう」
「そりゃそうだけどさあ。あ、ここ降りるよ」
影虎が立ち止まったのは後宮の終わりだった。背の低い欄干の向こうには先が見渡せないほど広い草原が広がっている。
「……降りるのか? あちらに」
訝る碧に、影虎は平然と答えた。
「うん。御託はいいから、ほら碧とっとと榛名ちゃんを支えてよ。俺は荷物があるんだから」
「いちいち煩い……」
碧はうざったそうに黒髪をかき上げた。常は胸元で緩く結んでいる髪を、今日は珍しく括っておらず、長い髪を無造作に遊ばせている。碧は先にひらりと柵を飛び越えると、こちらに向かって手を伸べた。
「榛名」
漆黒の中青白く光る碧を見て、思わず榛名はどきりとした。
(……そうだ、実は彼、とっても美しい人なんだった)
今更再認識したのは、余裕が出来たからだろうか。
「どうした」
「ううん、何でもない」
高鳴る心臓を抑えながら手を取ると、風で冷えたのかその指は驚くほど冷たくなっていた。引き寄せられて草に足を下ろすと、青臭い匂いが広がる。
広大なる草原は端を縁取るように林に囲われていた。とはいっても、林は視界の端となり、木々の群れというより濃緑の線にしか見えない。
「す、ご……」
「馬鹿みたいに広いでしょ?」
影虎は胸を反らして笑った。
「ここはさ、普通の民間人は入れないの。宮でも限られた人間だけ。当たり前だよね、後宮の背後なんだし。さ、いこっか」
明かりを持てば道行きは三人が歩くのに不便なく済んだ。しっとりとした夜の中、不思議と周囲は音に溢れている。風が草を切る音、虫の音、鳥の羽ばたき。夜闇とは決して空虚ではないのだ。まして地獄でもない。覆い隠されているだけで、昼間と変わらず賑やかなままだった。それもそのはず、生きているものが存在するということは、音がするということなのだ。
「前ちょっと話したよね? ここ、小さい頃定番の遊び場だったんだよね。こういうあんまり大人の目につかなくて広い場所って、子供にとっては格好の遊び場だったし」
「あ、秘密基地?」
「そうそれ。誰も知らないってわけにはいかなかったけど、よく皆で遊んだよ」
碧は眉を寄せて尋ねた。
「それより影虎。思い出話をしに来たわけじゃないだろう。お前、一体どこに行くつもりなんだ」
「んん? もちょっとだから黙ってついてきてよ」
あっさりとした返答に、碧は不機嫌そうに目頭に力をこめた。それでも黙ってついていく。しばらく土を踏みしめるさくさくとした音が響いて、影虎はきょろきょろと周囲を見渡すと、平原のど真ん中で立ち止まった。
「このへんでいいかな、ほら碧これ敷いて」
「……これは何だ」
「透から借りてきたの。はいちゃっちゃと手伝う!」
影虎は背に抱えていた巻物を下ろして碧に押し付けた。戻ってきた時から気にはなっていたのだが、成る程こうやって使うためだったらしい。ぱんと強く張って埃を落とすと、ふわりと宙を泳がせる。大地に置かれた敷物の前に立ち呆けて、榛名は探るように問いかけた。
「何するの?」
「簡単。こんな夜にすることと言ったら一つでしょ? 星の鑑賞会です!」
にこやかに手を打つ影虎に、榛名は目を皿にした。驚いているのは榛名だけではなく、当然碧も唖然としていた。ぽかんとしている二人に構わず、影虎は絨毯に飛び込んで、ごろんと大の字になる。広々とした絨毯にはまだ充分なゆとりがあった。
どうしたものかと戸惑っていると、影虎の誘うような笑顔にかち合ってしまう。結局、少し考えてから、お邪魔しますと一声かけて、榛名は影虎の隣に並んだ。背を預けると、土の軟らかさが伝わってくる。日中の熱を溜め込んで、大地はほっこりと温かかった。
「ほら、碧。碧も」
立ち尽くしていた碧は、榛名までも従ったのを見て、憮然とした表情のまま隣に腰を落ち着けた。それを見た影虎が半眼で睨みつける。
「……碧。空気読んでよ。格好つけないで寝転んで」
文句たらたらの様子に、渋々碧は寝転がった。流石に三人並ぶと少し窮屈で、互いの肩と肩がぶつかる。何だかくすぐったく感じて思わず笑いを漏らすと、碧と見合った。声をたてずに少しだけ笑う、穏やかな表情に、一瞬どきりとして慌てて空を見上げる。
視線を向けた空は、途方もなく高かった。
「……うわあ……」
思わず息を呑む。真砂を散りばめたような空が、見渡す限り一面に広がっていた。数え切れぬ億千万の星。それらが連なって、もはや点ではなく帯として広がっている。はっきりと目視できない星で乳色がかったそれは天の川だった。光を受けて僅かに変じる色彩はあまりに清涼、川というよりはまるで滝の坩堝のようだ。
感嘆している間にも、閃くように流星が線を描いて消えていった。本当に落ちてくるのではないかと思うほどたくさん。
眺めていると、何故か染み出るように切なさがこみ上げてきた。
「綺麗でしょ」
うん、と榛名は頷いて、
「何だか……このまま落っこちちゃいそうだね」
ぽつりと呟く吐息は柔らかく融解して、空に消えた。腕で目元を覆い隠す。
「……吸い込まれそうならさ。ほら、こっち」
影虎は手を伸ばしてきて、榛名の左手を掴んだ。
「手を繋いでれば、落っこちないよ」
きょとんとして影虎を見つめると、少年のような無邪気な笑顔を浮かべている。
「ほら碧も。減るもんじゃないんだから別にいいでしょ」
影虎が促すと、碧は渋面を貼り付けた。榛名も碧が影虎と同じようにしてくれると期待してはいなかったのだが、彼は眉を下げて手を伸ばしてきた。
どくんと心臓が飛び跳ねた。恐る恐る指を伸ばすと、しっかりと包み込まれる。
手を繋いだまま目を瞑ると、二人の温度が伝わってきて、激しく波打っていた心臓は呼吸の速さで落ち着いていった。細めだけれど固い碧の手と、大きくてがっしりとした影虎の手。どちらも榛名を安堵させるには充分だった。もう一度目を開けても、今度は怖くなかった。
「……わたしね、ほんとの天の川、初めて見た」
「え? 榛名ちゃんのとこって天の川ないの?」
影虎が驚くので、榛名は首を振った。
「ううん、あるんだけど、見たことない」
まるで歌うように星は煌く。濃紺の天幕に散る光は、さながら夏の極光だ。
きっとあっちの世界にだって、こんな星空はあったのだろう。なのに見たことがない。改めて夜空を見上げたこともなかった。
「織姫星ってどれかなあ」
「……織女星のことか? それなら白い、一番明るいやつだが……今はあまり見えないな」
「そっか。大三角形見えるかと思ったのに、残念」
こと座のベガ、わし座のアルタイル――織姫と彦星に、はくちょう座のデネブを足して夏の大三角形。星に詳しいわけではないが、この程度なら覚えている。
「……だいさんかっけい?」
影虎が声を捻らせた。そうか、ここでは大三角形はないのか。説明しようと、榛名は宙に線を描いた。
「えっと、ベガとアルタイルとデネブを線で繋いだら、三角になるでしょ? ……あ、そっか。ええと、織姫星の下にある星と繋げると三角になるんだけど、それを夏の大三角形っていうの。……わたしも詳しくないからわかんないよね」
話すそばから自信を喪失し、言葉尻をすぼめる。案の定さっぱりだったらしく、間の抜けた声が聞こえた。
ほんの一間静まり返ったのを、影虎は不自然に高い声で励ました。
「まあまあ。とりあえず天の印が見れただけでも、上出来でしょ」
「あめの……何?」
すっと影虎の指が空を差した。
「天の川のこと。ほら、空を二分してるみたいでしょ。あれは境界。越えてはならない一線なんだってさ」
「……越えてはならない、境界」
「まあ御璽のことも指すけどね。特にこの国では御璽は王の証明だから」
「えっと……御璽、を知らない。ごめん」
申し訳なさげに言うと、碧が嘆息を漏らして講釈口調で続けた。
「碧の瞳は、王の印だと言ったな。では何故碧の瞳は王になるのだと思う? 一介に紛れ普通に暮らしていれば、物珍しい目の色をしているというだけだが」
「……綺麗な色で、重宝されたとか?」
「違う」
「……ううんと、そうだなあ……」
「じゃあ榛名ちゃん。榛名ちゃんの国の王は? どういう選び方?」
問われて、榛名はううんと唸った。
「王様っていうのはいなかったよ。血筋とかでもなくて、みんなに選ばれた、みんなの代表の人が政治をやって、それがうまく行かなかったり大きな問題があったりしたら別の誰かに交代するの」
「……へええ。多分そこだな。榛名ちゃんと俺らが、考え方の土壌がまるっきり違うとこ」
影虎は痛快そうに目を丸くした。
「惟では――というより、殆どの国が、かな。自分たちが直接王を選ぶという意識がない。選ぶのは神だ。天意は民意、民意は天意。天意に選ばれた王は最良であり決して過たず、善良なる魂を持ち、民草を哀れみ繁栄をもたらす王となる」
「……えっと?」
「つまりね。神様は民を哀れみ、大事にしてくれる。だから、その神様が選んだ王は同じく民を哀れみ大事にすると信じているんだよね。だから王に不平不満を言う人間はいない。勿論逝去以外での交代なんて有り得ない。それは配剤した神に対する冒涜だからね。じゃあ碧の瞳を何故王にするのかっていうと、碧の瞳は翠の力が生み出した産物だからなんだよ。翠の力は神の力そのものなんだ。碧の瞳を持つ人間は王に足る資質を持つと神が示してくれているんだって信じている。――まあそれを言っちゃうとじゃあ何で血筋の人間にしか出ないのかって話なんだけど、それは置いておいて」
影虎はふと真剣な眼差しになった。
「榛名ちゃんには分かんないかも知れないけどね、人はとても弱くて、何か心に据えておかなくちゃ生きていけないんだ。この国では、王は信仰のよすがだ」
「よすが……」
ああ、だからなのか――と不思議と腑に落ちた。
ただ治める側の人だというわけではない。民にとって王は神に等しい。王の決定は神の決定となる。それほどに重い立場だからこそ、影虎は逃げ出したくなったのかもしれない。
それに、と碧が続けた。
「信仰心という以外に、もう一つ大きな理由がある。この国では、何故か碧の瞳しか御璽を触れないんだ。御璽とは要するに印章で、国事の際に用いられ、常は翠の間という場に封じられている。そこにも何故か碧の瞳しか立ち入ることができない。力を持つものしか御璽に触れられず、国の至宝が納められた間に立ち入ることもできない。必然、王は碧の瞳を持つものと定まった」
難解な言葉たちを咀嚼するのに、随分とかかった。
「つまり、取って代わりたくても碧の瞳じゃないと王としての行為が何一つ出来ないってことだよね」
「その通り。かくしてこの国は風変わりな王の選び方をすることになったと」
左隣の青年が、金色の髪を揺らして大笑いした。
「……どちらが先か、はっきりしてはいないがな。単に珍しい色を重宝しているうちにそう定まったのかもしれないし、御璽のことがきっかけだったのかもしれない。碧の瞳でない人間が王になった場合は国に重大な不吉が起こるという話もあるし、実際にそういったことがあったのか……。どちらにせよ昔のことだ。今の惟は、碧以外を王に認めていない」
「……碧の瞳、かあ」
かみさまのいろ。
それに相応しく、美しい色。
けれど、それを巡ってたくさんの人が血を、涙を流してきた。
繋がれば繋がるほど呪縛は濃くなっていく。呪われていく。巴のように、濁流に飲み込まれながら。
榛名は重たい瞼を上下させた。碧の瞳によく似た、移り変わる色が広がっている。
「……私の国では天の川って、恋の話が有名なんだ。一年に一回しか叶わない恋なの」
「ああ、織女と牽牛だろう」
碧が請合うと、影虎は面を横に向けた。
「何それ。知らない」
「あまり有名ではないな。……そういう悲恋譚が人気なのか」
「人気っていうか、よく知られているの。七夕は織姫と彦星に願い事をするんだよ」
「願い事かあ。じゃあついでに、何か願掛けしよっか。星見に来ただけで終了っていうのも寂しいもんだし。俺はそうだなー、商売繁盛」
「本気の願いじゃないか……」
気の抜けた呟きに、榛名は思わず笑ってしまった。
「碧は? お願い事」
促すと碧は面倒くさそうに答える。
「……健康祈願」
「爺かよ」
「四字熟語じゃなくてもいいんだけど……」
「煩い。お前の番だぞ」
碧が虫を払うように鬱陶しそうに手を振って、榛名は悩んだ。そうだ、自分の番だった。
「……えっと。わたしの願い、は……」
榛名は言葉を詰まらせた。
――元の世界に帰りたい。そう言おうと思ったのに、胸がつかえて唇が動かなくなった。どうして。
帰りたくないわけじゃない。今すぐにだって、方法さえあれば帰りたい。けれどそんな当たり前のことを口にしようとするたび、舌は必ず縺れた。
「榛名ちゃん?」
影虎は首を傾げてこちらを覗き込んで来る。当然だ。榛名の願いなど、言わずとも二人とも分かっている。
耳を打つ草のざわめきが、まるで巴の咽ぶ声のようだ。喉がひくりと鳴る。
「わたしの、願いは……」
空に浮かぶ境界は、決して越えてはいけない。戻れなくなるから。
(……でも、わたしは――)
「碧、影虎」
手に力を込めると、やんわりと返って来る。声のない返事に、安堵が広がって、我知らず声を漏らしてしまった。
「何だ、一体」
訝しげな碧の声。
榛名は優しく目尻を下げた。
「……わたし、二人に会えてよかった」
本心から榛名はそう言った。
こんな世界で、辛く思ったときもあったけれど、今、榛名は本当に毎日が楽しかった。眩しいほど輝いていて、小さな発見一つ一つが宝物になっていく。それは榛名の心持ちだけではなくて、二人が傍にいてくれたからだ。二人がいてくれたから、そう思えるようになった。
「わたしのお願いは一つだけだよ。……碧と影虎が、いつまでも元気でいてくれること」
胸を突く寂寞が、いつの間にか喜びに入れ替わっていった。そうしてくれた二人が、いつまでも明るくいてほしい。
――そう遠くない未来、絶望に行き会っても変わらず。
「……榛名?」
奇異そうな碧に、榛名は応えるように微笑みかける。
その時、視界の端に映ったものを見て、榛名ははっと声を飲み込んだ。
目頭が熱くなって、目を逸らす。
(……どうして、碧はいつも……)
いつだってそうだった。いつも、いつも、碧は榛名を助けてくれた。不器用で、冷たく思えるときもあるけれど、求めれば必ず手を差し伸べてくれた。傍にいてくれた。それがどれだけ心強かったか。
碧の優しさが、勇気をくれた。だから怖くなんてない。消えたりなんてしない。この手が繋ぎとめていてくれる。
榛名は碧に、返せるだろうか。
この罪で、助けてあげられるだろうか。
痺れるように痛む胸を鎮めて、榛名はキッと空を見据えた。
責任を負う、だなんてことをはっきり考えたことはなかった。社会人ならばいざ知らず、中学生だった榛名にそんな機会はなかった。けれど榛名は今、自分の選択が未来を大きく変える責任を負わなくてはならない。口を滑らしたとか、ついうっかりだなんてことは許されないのだ。
――自分で感じて、判断した。その結果を受け止めなければならない。
それがもし榛名の消失だったとしても。
受け止める、覚悟を。
榛名は肺の奥深くまで浸透するように、大きく息を吸い込んだ。
「ねえ、碧。影虎。嘘だと思う?」
目を閉じた。顔は見ない。見ては言えなくなる。
けれど、唇は恐れで戦慄いた。
瞼の裏に、碧の腕に垣間見た、揃いのブレスレットが浮かぶ。
それが、榛名に最後の勇気を与えてくれた。
「翠王が、十九で寧の宰相に暗殺されるって言ったら」
両の手のひらに力がこもるのを、榛名はただ黙って感じていた。




