第三章・天の印(6)
囃すように唸っていた木々は、ぴたりとその身を震わせるのを止めていた。
耳を打つ静寂は一段と重く圧し掛かってくる。力のこもった手だけが榛名を繋ぎ止めていた。
真空のように澄んだ空気が、肺を冷やしていく。
怒られる、だろうか。それとも頬を叩いて罵倒するだろうか。激しく詰られて、そのまま見捨てられるかもしれない。或いは、一笑に付して、信じてすらくれないかも。
けれどその中のどれでも、受け入れなければならないのだと思う。
碧は秘密を告げたとき、決して逃げなかった。潔く榛名の非難を受け入れ、それでも決して譲らないと決めていた。そんな彼のように、強くなりたい。
明滅する星の下、榛名はきつく瞼を閉じた。――平気だ。怖くなんて、ない。
「……榛名、ちゃん」
影虎が声を漏らした。
「それって……これから先の未来を、知ってるって、こと?」
心臓が大きく揺れた。全身が鳴動する、そのあまりの激しさに酸素を求めて喘ぐ。榛名は僅かに首を縦に振った。
再びしんと静まり返って、影虎が緩慢に体を起こした。
「……榛名ちゃんは……ずっとそれを隠してたんだ?」
静かな声だったが、確かめる圧力があった。
――逃げてはいけないと、追い立てるように己を叱咤する。
「……うん」
答えながら、胸が締め付けられるような痛みを感じた。ああ、やはり軽蔑されてしまうのだろうか。あの夢と同じように。碧の侮蔑の眼差しを思い出すと、小さく唇が震える。
目頭をきつく寄せる榛名の額を、こつんと指先が弾いた。
打たれたように顔を上げると、影虎は眉を八の字にして笑っていた。
「怒ってないから、そんな顔しないで」
そう言って、青い顔をした榛名の、冷や汗の浮かぶ額をそっと撫でる。優しい指先が緊張をそっと拭っていって、広がる安堵に息をついた。
それを見てにこりと笑うと、影虎は躊躇いがちに視線を泳がした。
「……あのね。分かってたんだ」
「え……?」
「翠がそう長くないってこと」
問いかけるような榛名の目に、影虎は否定を返した。
「はっきりいつなのか、どうやってとかは分かんないよ。でも、本人もとっくに知ってる。あまり先のない人生だってこと」
「ほんとなの?」
碧を振り返ると、何の感慨もなくあっさりと肯定した。
「翠は生まれつき体が弱いと言っただろう。正直、今もあまりいい状況にはない。……つい先日も倒れたばかりだ。医師にはもういつ終わりが来てもおかしくない体だと言われている」
「あ……もしかして、この前の」
「ああ。……それは久々だったんだがな。以来体調を崩している」
碧は嘆息して髪を掻きあげた。
どこか上の空だったのは、だからだったのかと榛名は納得した。大切な兄の危機にあっては、榛名のことなど考える余裕はなかっただろう。
碧は思案顔で、指をとんとんと上下させた。
「だが、今まで暗殺なんてものはひっきりなしに起こっていた。それが今更……」
「ひ、ひっきりなしって……」
顔を引きつらせると、碧は何を今更と言わんばかりに鼻を鳴らした。
「以前よりは減ったが、なくなったわけではない。お前も知っているだろう。お前、誰と勘違いされて殺されかかったのか忘れたのか」
「あ……」
そうだ、榛名は翠王の暗殺を企んだ人物だと勘違いされて刃を向けられたのだった。その上直後に碧の居室でも刺客に襲われた。
「そういえば、あの時翠王陛下が主犯だって碧を襲ってきた」
「あれは嘘だと言っただろう。俺が陛下側だとは周知の事実だから、単なる嫌味だ」
思い出すと今でも腹立たしいようで、碧はむすっとした。
影虎はやり取りを聞いていて、はーっと溜め息を落とした。
「碧……どうやって知り合ったのかとは思ってたんだけど……」
言わずとも察せたのか、呆れたように頭を振った。
「まあそんなことだろうとは思ってたけど。ほんと女子供だろうと容赦ないんだから」
「煩い」
耳を閉じた碧を放って、影虎は榛名に向き直った。
「まあとにかく、そんなんだからさ。信じていないわけじゃなくて、今更っていうの? 何度も失敗してきた今でもそういうことが起こるのかというと、難しい気がするんだよね。俺たちはまだしも翠は厳重に警護されているし、本人が何せ動けないからね。そういう隙はないよ」
「じゃあ間違い……?」
「かもね」
軽く肩を竦めた影虎に、碧が強く断言した。
「それでも油断はすべきじゃない。……この国に翠は失えないんだ。今でも翠がいてこそ何とか宰相と拮抗できている。翠がいなくなればどうなるか」
榛名は口を噤んだ。実際に翠を失った国はそのまま瓦解している。碧もそれを予想できているのか、眼差しは暗かった。
碧にとって翠は特別な存在だ。欠かすことの出来ない生きる意味であり、拠り所。けれどそれ以上に、翠は王なのだ。碧だけではなく、この国に生きる全ての民に必要とされている。王という大樹を失えば、憩う木陰を失った民は苛烈な日差しに晒され、いとも容易く迷うだろう。
憂う榛名に気付いたのか、碧は眉間に添えた手を外した。
「……お前が気に病むことじゃない。言っただろう」
「そうそう。榛名ちゃんのせいじゃないでしょ? 原因は俺の親父なんだから。あんまその可能性を否定できないのが身内としては情けないところなんだけど」
二人はやんわりと慰めてくれる。元気を出そうと、ぐしゃぐしゃの情けない顔で笑ってみせると、碧は無邪気な一面を覗かせた。
「……変な顔だ」
くつくつと笑いを漏らす碧を影虎が小突く。
「こら碧。女の子に変な顔はないでしょー。悩ませてるのはこういうややこしい事情に巻き込んだ俺らのせいなんだかんね」
「……それはそうだが」
「ついでだからはっきり言っとくけど碧。ちゃんと考えてる? 榛名ちゃんのこと。どうやって未来に帰ればいいのかっていうのは一朝一夕で解決できるものじゃないから分かるけどさ、今日も言ったでしょ? このまま榛名ちゃんのこと軟禁しとくわけ?」
別に軟禁されているわけでは、と間の抜けたことを榛名が考えていると、碧は厳格な響きで言った。
「俺もこのままずっととは思っていない」
「そりゃよかった。で? 透にばれたのはどうすんの」
「仕方ないだろう。そもそも、このまま隠し続けること自体無理があったんだ。俺の部屋に女官すら近寄らせないのも長期となると怪しすぎる。早いとは思うが、宰相の考えすら掴めないまま影で動かれているよりは守りやすいだろう。……それに」
碧は悪戯っぽくにやりとした。
「お前がいるんだろう?」
ぽかんとした影虎は目を皿のようにしていたが、突然破顔した。
「それ、榛名ちゃんに影響されてない?」
「本人が頼りにしているんだから何が悪い」
「はいはい。わぁったよ、俺が何とかすりゃいいんでしょ」
根負けしたようで、影虎は諸手を挙げた。
「全く、いい性格になったよほんと」
「それはお前のほうだろう?」
「どこが」
言い合う二人の間を縫うように、榛名はおずおずと手を上げた。
「……あの」
気付いた影虎が首を捻る。
「どしたの、榛名ちゃん」
榛名は晴れない表情のまま尋ねた。
「やっぱり……王様に言うんだよね。あと一年の命かもしれないって」
一瞬苦い色が浮かんだが、碧は落ち着いた声で説いた。
「隠したところで何もならないだろう。あいつは王だ。あいつの命は自分一人で完結するものじゃない。それが事実だろうがそうでなかろうが、知っておくべきだ」
端的な答えに、榛名は視線を落とした。
先程からずっと考えていた。王様だなんて、榛名には雲の上の存在だ。何を考え、どうやって生きているのか、空想ですら重なることがない。けれど碧たちを見ているうちに分かったことは、王もまた一人の人間で、些細なことで傷つきもするし迷いもする、普通の人だということだった。
「あの」
榛名は意を決して面を上げた。
「王様に、会わせてくれないかな」
意志の強い眼差しに、二人はちらりと見交わす。あまり色好い反応でないことに不安になって、榛名は言葉を重ねた。
「あのね、いくら王様でも、こういうことをわたしの顔も見ないうちに人伝いに聞かされるのって、すっごく嫌なことだと思うんだ。前向きに未来を考えるために伝えるなら尚更、こんな形じゃこれからのことを考えるよりも先に、不安だけ募っちゃうんじゃないかな。……それに、わたしには責任があるんだよ。どんな理由でも、人を傷つけるんだから」
影虎は真剣に榛名の話に耳を傾けて、ふっと笑った。そしていつの間にかほどけていた、榛名の手を再び握り締める。その手は驚くほど温かかったが、それは影虎がそうなのではなく、榛名が冷えていたからなのだった。気が付けば緊張のために手には薄く汗が滲んでいた。
「……榛名ちゃんはいい子だねぇ」
それを聞いて、榛名は慌ててかぶりを振った。
自分は決していい子などではない。自分の保身のために兄弟である碧にすら黙っていた、ずるい人間だ。
「んー。まあ大体何考えてるかは分かるよ」
そう言って、影虎は視線を宙に浮かばせた。
「……そんなことないよ。榛名ちゃんはほんと、いい子だよ」
「ちが、わたし」榛名は必死で言い募った。「わたしが隠してたのは、自分のためなの。教えたら未来が書き換わるんじゃないかって、どうなるのか、こ、怖かったし、……嫌われたりするのも、怖くて……。分かってて、全部黙ってた。そういうの、全部全部、自分のためなの……」
顔を覆って、ずるいんだよ、わたし、とか細く指の間から漏らした。
――榛名は卑怯だ。怖くて、弱くて、碧たちの助けになることだと分かっていながら、保身のために黙っていた。そういう自分を、誰より自分が許せない。
痛みに表情を歪ませる。細い体を抱え込むようにして閉じこもる榛名の手を、そっと取るものがあった。白くしなやかな指先に、言葉を失くす。
「どうしてそう……」碧は苦々しく吐いた。「自分を責めるんだ」
泣き出しそうな顔で碧を見つめる。
ぽんと優しく背を叩かれて、榛名は反対側を向いた。
「そうだよ、碧の言う通り。言ったでしょ? 怒ってないって。怖いのなんて当たり前じゃん。まあさ、俺たちは榛名ちゃんと同じ体験をしたわけじゃないから、不安も何も想像でしかないけど、誰だって怖いことはあるものだよ。それは当たり前のことで、責めることじゃない。――ねえ、そういうのはさ、それでも勇気を出したなら、偉いね頑張ったね、いい子だねって褒めてあげたらいいんだよ。頑張れなくたって、卑怯でも弱虫でもない。そういうやり方で自分を痛めつけるのは、自分のことを嫌いになってくだけだよ」
「……嫌いに」
「そう。自分が大好きなのが偉いってわけじゃないから、別に好きになれなくたっていいけど、それでも自分で自分を粗末にしちゃだめだよ。たった一つしかない体と心なんだから、大事にしてあげなね。これは碧にも言って聞かせたいけど」
「……何で俺の話になるんだ」
「お前はすーぐ自分を粗末にしたがるから」
影虎は口を緩ませた。
「ま、それは置いといて。碧、やっぱり榛名ちゃんは翠に会う必要があるよ」
碧は重々しく息を吐いた。
「……分かっている、それは」
「何。会わせたくなかったの?」
「いや。翠には榛名に会うべき理由が出来たし、榛名には翠に会って確かめるべきことがある。……そうした方がいいんだろうとはずっと思っていた」
影虎はああ、と得心したように首肯した。
「何だ。じゃあ碧も翠に聞くつもりだったわけ?」
「ああ」
「え? ちょ、ちょっと待って。聞くって?」
成り行きが分からなくなって慌てて割り入る榛名の胸を、留めるように指が突く。視線を下げるその先には、あの水晶があった。
「それ。榛名ちゃん言ってたでしょ、こっちに来ちゃったきっかけのこと。俺らじゃあさっぱりだけどさ、翠なら分かるかもしれない。あの子ちょっと特殊で、俺らにはない力があるんだよね。翠の力のこともよく知ってるから、何か分かるかも」
「え……ほ、ほんと?!」
目を輝かせた榛名に、碧が釘を刺した。
「言っておくが過大な期待をするなよ。あいつ本人にお前を帰す力があるわけじゃない。手がかり程度なら何か分かるかもしれないというだけだ」
「それでもいいよ!」
榛名は目を潤ませてぎゅっと期待に高鳴る胸を抱き寄せた。舞い上がるのも当然のこと、こちらに来て初めて可能性が見えたのである。それがほんの僅かな光点でも、見えただけで心持は随分と変わるものだった。
あまりの喜びように、碧は申し訳なさそうに肩を落とした。
「……前々から会わせるべきだとは思っていたんだ。だが人目もあったし、何より翠の体調がよくなかった。ここ数日は徐々に快方に向かってきていると聞いているから、問題がなければ明日には何とかしよう」
「ほんとに?」
張り詰めていた不安はどこへやら、解放感に力が抜けて頬が緩んだ。もしかしたら、何か分かるのかもしれない。どんな小さなことでもいい、状況が少しでも変わるのなら構わない。希望がちらつくと、そのことで頭がいっぱいになった。
「碧、翠さん明日予定ないの?」
「ここ最近は政務は任せていない。寝床に根を生やした状態だからな」
「……へえ。大丈夫なの、それ」
言葉尻は軽いが不安が滲んで、ぴりとした電流を帯びた。
「会話くらいなら平気だろう。無理をしないようにはさせる。心配ならお前も付いてきたらどうだ。翠はお前に会いたがってるぞ」
「透も言ってたよ、それ。心配してんのかって。でも残念だけど、遠慮しとく。明日はちょっと用事があるもんで」
その言葉に碧はあっさりと引き下がった。
「そうか。ならせめて近々顔を見せるんだな。長いこと会っていないものだから、元気にしているのかと心配していた」
影虎は物憂げに、ああ、と答えた。
普段は陽気で賑やかな影虎が遠い眼差しをしている姿に、榛名は驚く。ただ従兄弟のことを心配しているのとは微妙に違うその面差しは、あまりに繊細で燃えるように美しかった。どうしたのかと気軽に尋ねることもできずにいると、榛名に気付いて影虎は笑顔を取り戻した。
「榛名ちゃん、俺の代わりに翠によろしくって言っといて」
「あ、うん……」
「でもその前に、聞いておこうかな」
影虎は身を乗り出すと、優しい声音で言った。
「……榛名ちゃんさ。これから先碧と一緒にいたら、すんごい嫌な思いもするかもしれないし、後悔するかもしれないよ」
「……お、脅してる?」
少し怯えて顎を引くと、影虎はニッと頬を吊り上げる。
「うん。でも事実だよ。宰相に発覚したっていうのはそーゆーこと。ここにいてどんな危険な目に合うか分かんないよ? 碧に出会わなきゃよかった、首突っ込まなきゃよかったって思うかもしんない。……そうなる前に、俺がここから出してあげることも出来るよ。今ならまだ何とかしてあげられる」
「でもそれは」
「多分、帰るのも諦めることになると思う」
穏やかに影虎は言った。
王に会えば、本当の不帰路を行くことになる。今ならば、すぐに王宮を離れて、知らぬ存ぜぬで逃げ通せば何とかなる。榛名はゆっくりと考えた。これが最後のチャンスだ。どれだけ考えたって、惜しいことはなかった。
榛名はそっと首を横に振った。
「……それは、出来ないや。わたしね、やっぱり、帰ること諦めたりしたくない。危険なのかもしれないけど、それでもやっぱり自分の世界に帰りたいんだ。……それにね」
困ったような顔で、榛名は笑った。
「わたし、逃げたくないんだ。王様に酷い予言だけ残して、一人で逃げるなんて、そんなずるい自分になりたくない。胸を張っていたい。そうやって生きるって、決めたから」
惟で生きる、全ての人のように。胸を張って、自分の力で生きると。そう、決めた。
「後悔しない?」
問いかけに、榛名は凛と前を見据えた。
見返す二人の深海のような碧は、どこまでも澄んで美しかった。
「……わたし、後悔しないよ。自分で選んだ道だから、苦しくても辛くても、後悔は絶対にしない。誓う」
「誓う?」
碧は確かめるように聞いた。
「……うん」
「榛名ちゃん、そういう時は、こうやんの」
影虎は手を差し出した。榛名と手の平をくっつけて、重ね合わせる。
「これで、誓います」
「互いの手でこういう風に重ねるってこと?」
「そう。誓う?」
影虎が右手を突き出すと、碧も同じく左手を差し出してきた。両手を重ねて、榛名はそれぞれに誓いを立てた。
「……誓います。絶対にこの先、後悔しない」
「じゃあ俺も、……誓います。榛名ちゃんを危ない目には合わせない」
「……俺もか」
「言わずとも」
「……誓う。お前に嘘はつかない」
言わないことは、あるかもしれないが。と付け加えたのを聞いて、影虎が「誓いになってない」と横槍を入れた。わあわあと言い合う二人に、榛名は思わず噴き出してしまった。
「二人らしい」
榛名は笑いながら、空を見上げた。
(……これで、よかったんだよね)
不思議と怖くはなかった。きっとこれから先も、この選択を後悔したりしないだろう。
奇妙な安心感に身を委ねて、瞑目する。降るような星空が三人を包んで、どこまでも永久にこの時間が続くような気がした。




