第三章・天の印(4)
記憶にある中で、女は常に泣いていたように思う。
初めて女に出会った頃、自分はどれほど人に疎まれる存在なのか既に知り得ていたから、彼女の存在はなおさら心を冷やしていくものでしかなかった。
自分が赤子の時、彼女は既に病を患いはじめていた。理解が及ぶ頃には大分症状も重くなっていて、そうと知っていても気にかけぬわけにはいかないと懇意にして会いに行けば、最初こそ機嫌よくころころと笑っているもののすぐに顔色を変える。泣きながら行かないでと懇願して縋って、碧が踵を返せばたちまちひどく罵る。相手を傷つけられるならばとにかく何でもいいと言いたげに、思いつく限りの罵倒を浴びせた。その姿を見るたび、やはりそうなのだと腑に落ちる。臓腑に、肉の隅々に刻み込む。自分は結局、他者に望まれぬ存在だったのだと。
まるで吹雪の中に閉じ込められたかのようだ。轟音で何も聞こえない。埋まるように白い檻に囲まれて、何も見えない。
女はいつも、言う。擦り切れた本をひたすら繰るように。――わたしとねえさまのたからもの。あいしているわ。あなたは王になるひとなの。高貴なひとなの、そうあるに相応しいひとなの。だってそんなにも美しい碧を持っているもの。ああなのに。どうして?
どうして、裏切ったの。
*
碧は空を振り仰いでいた。引き絞るようなその眼差しは、これからの話があまり気持ちのよいものではないと告げていた。
榛名は、握り締めた拳を何度も開いては閉じた。じっとりと汗ばんだそれは、粘りつくような感触がつきまとって不快さを掻き立てる。湿度の高い空気も相俟って、煙が立ちそうなほど一呼吸が重い。吸い込んだ肺も爽快感がなく、密度の濃い酸素でかえって息苦しさを増したように思えた。
二人が今いる場所は、黄古の間と呼ばれている八角形の離宮だった。廊下から突き出るようにして作られたそれは、高貴な人々の憩いの場である。それに相応しく、玉砂利を敷き詰めた庭は見事な造作だった。黄古の間は宮殿の中でも後宮の入り口、立ち並ぶ姫君たちに仕える官の住まいにある。現在後宮には誰一人として妃がいないため、ここに住むのはほんの数人だ。そのため、辺りには耳を打つ静寂が突き抜けていた。むろん、王宮内の事情に疎い榛名にそれを知る由はなかったが。
高い屋根も斜陽を防ぎきれず、黒髪が白く光って焼ける。碧は欄干に手を伸ばし、吐息を落とした。ただ腰を落ち着けているその姿も、まるで一枚の絵画のようだ。身体全てが一つの水の流れのように秀麗で、射抜く眼差しは涼やかだった。
碧は緩慢にけぶるような長い睫毛を伏せる。
「……榛名。透はきっと、お前のことを本当に隠しはしないだろう」
「うん」
「それでよかったのか」
一瞬照り返しで碧の顔が消える。
「お前を閉じ込めたままにするつもりは毛頭なかったが、余りに早すぎるのも事実だ。正直に言えばこれからどうなるか、俺にも見当がつかない。お前を守れるかどうかも、ありのままに言えば自信がない」
榛名は眉尻を下げ、唇を歪めた。
「分かってるよ。でもね、わたし、今少しずつ色々なことが分かるようになってきて、思ったんだ。最初に碧に会わなかったら、とっくに死んでたかもしれないんだなって」
影虎と街に繰り出したとき、麓鳴は決して綺麗なだけではないのだと知った。大通りこそ華やかだが、宮殿から離れるにつれ町並みは質素になり、治安も悪くなる。裏路地にでも落ちていれば賊に襲われたかもしれないし、冬であれば身包み剥がされ、行き倒れて凍死することもあっただろう。榛名にはお金も知識もない。宿にも入れない時どこに身を寄せればいいのか、どうやってお金を稼げばいいのかすら分からないのだ。最初にやって来た場所が宮殿の内部で、怖い思いはしたものの碧に庇護された。それだけでも随分と幸運だったのだ。
「だから、碧には負担をかけちゃうかもしれないけど、わたしは大丈夫。影虎もいてくれるからきっと何とかなるよ」
励ますようにそう言うと、碧は少し目を見張って、頬を緩めた。
「……そう信じよう」
碧にしては珍しい言い方だった。小さな変化を感じて胸が温かくなる。気が大きくなって、榛名は少しおどけて見せた。
「わたしね、結構ついてるほうだと思うんだ。だからこれからもきっと何とかなるんじゃないかな」
碧は可笑しそうに喉を鳴らした。
「幸運な人間はこんな世界に紛れ込んだりしない」
「……そうかも」
少し照れると、碧はまたくつくつと笑う。こんな小さなことでも、今までの碧からは考えられないことだった。出会った当初の冷たい碧は、決して消えたわけではない。向ける面が違うというだけだ。けれど優しくすることを許してくれた、それが榛名には本当に嬉しかった。
碧はしばらく笑っていたが、ふいに問いかけてきた。
「榛名。……榛名に家族はいたか?」
榛名は少し驚いた。彼は今まで、榛名に立ち入った話を持ちかけてきたことがなかった。きっと彼なりに気を遣ったのだろう。最初に大泣きしてしまったので、思い出すのも辛かろうと判断したのかもしれない。
そして自身も、あまり無闇に記憶の蓋を開けないようにしていた。郷愁が胸を突くのは分かりきっていたからだ。今たどたどしく記憶を辿ると、何だか懐かしいような感覚がした。昔のアルバムを開くような、温かい気持ち。あれだけ身を焼いた感情は、時が過ぎ、気がつけば「いつかきっと帰る」と柔らかに受け止められるようになっていた。
「うん。両親と、お姉ちゃんと弟がいたよ」
「……そうか」
少し目を伏せると、碧は滑るように話し出した。
「一度、俺の生まれの話をしただろう」
「……うん。王になれない血筋だって」
碧は頷いた。
「だが、王になれぬ血筋は本来ない。言っただろう? 孤児だろうが、碧の瞳を持つということは王の落胤であるということだ。他に候補がいなければ王になれる」
ぎゅっと手首を絞り上げて、碧は続けた。
「――俺の母は惟を裏切った、敵国の人間だった。そこを父が強いて妾にしたんだ。本来なら牢獄行きの人間だった。そういう出自だったから、周囲は当然母に辛く当たった。俺は実際のところを知らないが、相当苛め抜かれたそうだ。だが、事態を更に悪化させる出来事が起きた」
「それって」
「ああ。俺のことだ。母のもとに生まれた男児は碧の瞳、しかも名は碧というのだから、皆が次代の王に据えるつもりだと踏んだのは当然だったんだろうな。最初は疎ましさでしかなかった感情は、転げ落ちるように憎しみに変わっていった。俺と母と――唯一母に仕えていた女官の巴にも」
一言一言、踏みしめるような重みで鼓膜を打つ。ざわつく胸を押さえて、榛名は静かに傾聴した。
「巴は……母を慕っていたんだ。姉のような存在だったらしい。母も他に仕えてくれる女官すらいなかったから、妹のように可愛がっていたそうだ。だが間もなく心酔していた母が亡くなって、巴は少しずつおかしくなった。周囲が気がついたときにはもう遅かったそうだ。それだけ無関心だったということだろうな。……今ではまともに会話も出来ない。俺のことも、母と混同しているときもあれば王だと勘違いしているときもある。何度現実を諭しても無駄だ。最後にはいつも、殻に閉じこもって泣き伏せるばかりで」
「……もう、治らないの?」
「ああ。見ただろう? まるで子供だ。……辛く当たる人間には徹底して拒絶を示して、俺には母の影を求めて甘える。それを繰り返す。影虎には特にそうだな。巴は宰相を異様に嫌っていたから、影虎にもかなり敵意を持っている。影虎本人もかなり嫌っているようだが」
「……碧は?」
搾り出すような声に、碧は顔を上げた。
「碧は平気なの?」
自嘲に似た微笑が返ってくる。問いかけた榛名も答えを知っていた。碧は決して巴の前で平静ではない。
「言っただろう。巴のことは、俺の責だ。……俺は、気付くべきだった。俺が救ってやるべきだったんだ。他の誰でもない俺にしか出来ないことだった。巴は俺や母とともに宮の人間から憎まれ排除されていたのだから。何かかけるべき言葉があったはずだし、何かしてやれることがあったはずだ。それにそもそも」
突然碧が言葉を切った。
悲嘆に暮れた顔で、その言葉の先は言わずとも知れた。色を深めた空が差し込んで、碧の瞳は揺らいで赤く燃えているように見えた。
呪われている。この血は。この瞳は。
「……影虎の、言う通りだ。俺は何も出来なかった。無力で、誰一人救えもしない。碧の瞳でありながら、その力すら何も授かってはいない」
「碧」
「……俺はどうすればよかった。何を間違った? 生来こうまでも人を傷つけ憎まれる存在であって、生まれてきたこと自体が間違いだったのなら、誰を恨めばいい。父か、母か? もう既にこの世にいない誰かか。それとも皮肉な運命ばかり作り上げる神か? ……今更この身を投げ打ってもどうにもならないというのに、陛下にも巴にも、どう償えばいい……」
言葉が押し潰され、気付いた時には、榛名は碧を抱きしめていた。
泣き出しそうになるのを堪えて、広い背中をぎゅうっと掻き寄せる。
どうして――どうして碧は、簡単に自分を引き裂くのだろう。そんな言葉は、自分を傷つけるだけだ。なのに。
碧は息を呑んで、榛名を見上げた。
「榛名?」
「……なん、で」
涙混じりになった声に気付いて、喉を詰まらせる。
「どうしてそんなこと、言うの」
「どうして……?」
碧は皮肉っぽく笑った。
「事実だ。俺さえいなければ、きっと巴は今もまともでいられた。……或いは、母も」
その言葉に、榛名は何も言えなかった。悪意に取り巻かれ、憎悪の目に晒され、そうして生きてきた碧を、榛名は知らない。何一つ。
自嘲気味に碧は言った。
「それでも俺は恵まれていたんだ。兄上がいた。一人ではなかったから。……巴は最後まで一人きりで、狂っていった」
「でも、それじゃあ」
碧は今も、一人怨嗟の輪に耐えているということではないか。そう言い募ろうとした榛名を、
「哀れむな」
碧は強い口調で差し止めた。
「俺は自分を哀れむつもりはないんだ。哀れなのは、俺たち親子に巻き込まれた巴のほうだ」
「……」
違う。哀れみじゃない。碧が可哀相でならないと、同情しているわけじゃない。うまく言えなくて、榛名は言葉を探した。
巴が狂ったのは自分のせいだと言う、榛名にはそんな碧が硝子のように見えた。触れるのを躊躇われるほどに脆く繊細で、ひとたび手を離せば簡単に壊れてしまう。
一人じゃないなんて、嘘だ。碧は未だに一人苦しみ続けている。
――そう生きるしかない碧の、力になりたい。助けになってあげたいのだ。
おこがましいだろうか。本来、碧と榛名は違う時間を生きている人間だ。すれ違うことすらあり得ない。いずれ榛名は元の時間に戻るだろうし、そうでなくてはいけない。そんな儚い身で、碧のために何が出来るというのだろう。
例えば魔法が使えれば、例えば何か特別な能力を持っていたなら、彼を救ってやれたかもしれない。――自分が生まれてこなければ彼女は狂うことはなかったはずだと、そう考えずにはいられない彼を、少しでも癒すことが出来たのかもしれない。
けれど現実の榛名には何の力もなかった。この運命に翻弄されながら、碧に守られ何とか立っている、ちっぽけな存在に過ぎない。
声が出ない。涙が零れたが、止めることはしなかった。きっとこれは榛名の涙ではないから耐えられないのだろう。彼が抱え込んだ深い孤独や悲しみが、ほんの少し、伝播しているだけ。
「……榛名?」
少し面食らった様子の碧は榛名が泣いているのを見て、眉を下げた。
「嫌な思いをさせたなら、謝る。自分の話はあまり得意じゃないんだ」
榛名は首を振る。そうではなかった。哀れみでも同情でもなく、ただ出来るなら、一人痛みに耐える幼い碧を、昔に舞い戻って温かく包んであげたかった。
「……碧。わたし」
伝わるだろうか。
――彼に、この気持ちが。
「碧の味方になりたい……」
瞠目する碧と、視線が通う。
美しき至高の瞳。それは孤独に縁取られている。その孤独を、痛みを、少しでも払うことが出来るだろうか。
榛名には何の力もない。それでも。
――もしも吹雪の中一人きりでいるというのなら、隣に寄り添ってあげたい。ずっと一緒にはいられなくても。
ゆっくりと体を離して、碧は眉根を寄せた。
「……味方?」
「そう」
「……変なことを言う」
気が抜けたように碧は呟いた。
「変なこと?」
「ああ。……おかしいだろう。そんなことを言う奴は今までいなかった」
榛名は目をくるくるさせると、すう、と息を吸い込んだ。
「碧。何で影虎が怒ったと思うの?」
「……何故急に」
「答えて」
困惑している碧は逡巡しながらも率直に答えた。
「さあ。……俺にはあいつのことはよく分からない。離れている間に随分変わったのは事実だ。今更関わろうとしてくる神経もよく分からん」
「……。あのね、碧。影虎はわたしの護衛になってくれるってそう言ったけど、それはわたしのことじゃなくて碧のことを心配しているからなんだよ。影虎はいい加減なことばっかり言うけど、それくらいわたしにも見てて分かる」
「……そうは見えないが」
胡乱な碧に榛名は強弁を続けた。
「そうなの。それでね、巴さんのことをあんなに怒るのは、きっと寂しいんだと思う」
「寂しい?」
「だって、碧は全部一人で抱え込むでしょ? すっごく辛くても、助けてほしいって言わない。きっと国王様もそうだと思うんだけど、影虎は碧を見てると心配でたまんなくて、助けてあげたいんだよ。だから巴さんに突っかかっていくし、碧を遠ざけようとしてる」
「……あいつが」
「簡単だよ。見てたら分かるもん。味方になってあげたいのは、わたしだけじゃないよ」
榛名は笑った。
いつか真ん中から折れてしまうのではないかと心配していた影虎の言葉が、今になってよく分かる気がした。巴と碧は表裏一体、光と闇だ。碧だって兄や影虎がいなければどうなっていたのか分からない。救いがあったかどうか――それが二人を別ったのだ。
この瞬間、榛名は覚悟を決めた。
この人のために、罪を犯す。その覚悟を。
そっと指を伸ばす。拒まれることなく触れる手は、どれくらいの時を経て繋がっているのだろう。じんわりと伝わる熱は、確かに今生きている証だ。
たくさんの顔を見てきた。碧の苦しみも、ほんの少しの無防備な笑顔も、意志の強い眼差しも。
榛名は間違いなく、碧に救われた。守られたというだけではない。彼の揺るぎない強さが、榛名にとってどれだけ心強かったか。今度はきっと、榛名の番だ。彼の弱さを掬い取って、少しでも助けになりたい。
「碧、わたしね、碧が落ち込んでたらいつでも飛んでいく。世界中が敵になっちゃっても、味方になる。いつでも傍にいる。だから――ひとりぼっちじゃ、ないよ」
そう言って、涙で汚れた顔で無理矢理笑った。
碧はふっと表情を崩して、こつんと額を重ね合わせた。その王の証が、優しく揺れる。
「……本当に、お前は理解しがたいな」
*
影虎たちが巴を抱え歩くこと数刻、幸い、巴を探していた女官たちはすぐ近くにいた。それも結構な人数で、本来は送り届けるはずだったのが引き渡すだけで済んでしまった。
これでは流石に碧たちもまだ話が終わっていないだろうと、透と影虎は連れ立って空いた部屋に入った。
長椅子にどかりと腰を落ち着けると、影虎の高く括り上げた髪がしなやかに流れる。ふう、と息をつく音が空気に溶けていった。
「透もいいよー座って」
明るく促されたが、透は「遠慮します」と固辞し、脇に立った。
影虎に会うのは久しぶりのことだった。出奔してから顔を合わせたのはほんの数度、その間外で好き勝手に醜聞を撒き散らしたり盗賊稼業も派手にやっていたというのは伝え聞いているが。
「しっかし、ほんと久々だねえ透。全然変わってなくて安心したよ」
「あなたは随分と丸くなりましたね、影虎」
「えぇ? ほんと?」
「まあ昔よりは」
適当に相槌を打つ透は、以前の影虎に思い馳せていた。幼い頃の彼はもっと眼光炯々としていた。反抗心が剥き出しで、まるで手負いの獣のようだった。それが尚のこと宰相の勘に触ったようだったが。
影虎は腕を組んで考え込んだ。
「……うーん。俺変わったかな? あんま自覚なし」
「昔の影虎は女性に冷たかったですよ」
「ええ? んなことないよー。俺女の子だあいすきだから。みんなふわふわやーらかくて気持ちいいし」
「あなたの優しさは特別に興味がないことと同じですよ」
「じゃあやっぱ変わってないって。俺は相変わらず、打算で行動する狡いやつのまんまですよ。ほんと、嫌んなるくらい」
己を嘲笑って、きらりと意地悪く碧の瞳が光る。人を魅了し狂わせるだけの美しさを孕むこの碧は、一体いままでの歴史の中、どれだけの血を流してきたのだろうか。
事実、影虎にとってこの宮殿での生活は這い蹲り、汚水をすすり、泥にまみれて生きることと同義だった。それが碧の瞳を持って生まれた定めだ。その命を親類縁者、友人知人に至るまで関わる人間全ての血で贖う。しかし歴代の中でも、影虎に対する宰相の教育は常軌を逸していた。――逃げ出すのも、仕方のないことだった。そう思う。
透は影虎の隣に腰を下ろすと、足を組んだ。
「相変わらず、そういうところは悪趣味ですね。優しくしておいて内心で舌を出して」
「やっだなぁ人聞き悪い。俺は榛名ちゃん、面白い子だと思ってるし、ひどいことするつもりなんてないって」
からからと笑う影虎に、透は内心溜め息をついた。確かに、あの少女が誰かに害なすことがなければ優しい顔を見せたままだろう。けれどひとたび何かあれば、あっさりと影虎は翻る。人を惹き付けて利用する、それを悪いことだとすら思っていない。
だが、今回ばかりはそれだけでは説明しきれないものをどことなく感じた。自慢ではないが、透はこういった直感は鋭いほうだ。探るように注視するが、影虎は奇怪さに眉を寄せただけだった。
気付いていない、のか。それならばと透は口を噤んだ。若者同士のいざこざに首を突っ込むほど自分は若くないし、興味もない。
「何。どしたの」
「何も。本当にあなたは好き勝手やっているなあと」
「嫌味かよ」
げしっと蹴りが入るのを、やんわり受け止めた。
「……碧がどう動くのか、興味はありますけどね」
呟きを耳聡く捕まえて、影虎は覗き込んできた。
「そうそう、俺よかよっぽど碧のほうが変わったよねぇ。俺がいない間に何かあったの? あれ」
「いえ。相変わらずですけど」
「何だ。じゃあ単にあれ? 年頃の事情ってやつ?」
「……そういう意味で女性を連れて回るほど下世話ではないと思いますが」
淡白に返事をしながら、恐らくこの場に碧がいたらとっくに激昂しているだろうと透は思った。
浅く息をついて肩を落とす。
「どちらにせよ、もう変わるべき時期だということではないですか。翠のためにしか駆けることが出来ないというのは碧にとって不幸なことです」
碧は、翠のために生きている。言葉通り、碧にはそれ以上懸けられるものがないのだ。己のことでさえ、生きる意味として見出せていない。
影虎は猫のように目を細めて哂った。
「そっかな。たった一人でも命を懸けられる相手がいることって、存外幸せかもしれないよ。懸けられたほうの迷惑とかは置いといて、碧はそれでもきっと満足なんじゃないの?」
「……それは、相手がずっと無事でいられたら、という前提の話です。現実はそうではない。人には寿命があるし、自分のほうが先に幽玄に行ける保証はない」
「そして翠は絶対に碧より先に逝くんだよ」
影虎はあっさりと言った。
「……知っているんですか」
「うん、知ってる。報告が来てたの聞いた。俺の目の前で榛名ちゃん預けて韋駄天もかくやって感じで帰っちゃったもんよ」
けろりとしてそう言う影虎に、透は目を丸くする。
「そんなことがあったんですか」
「翠の一大事に、焦って飛んでったよ。もう本当に残り僅かって感じだね」
「……心配ではないのですか? 陛下が」
「失礼だなあ、心配してるよこれでも。大事な幼馴染ですから」
肘をついて上の空の影虎に、口ほどの様子はなかった。
「今度ばかりは危ないのではないかと、こちらでも話題ですよ。気丈にしていらっしゃいますが公務も手につかないご様子です。今は碧が一手に引き受けていますが、翠陛下がもし、」
「死んだら、碧はさぁ。どうなるんだろね」
言葉の先を、影虎は平然と引き取った。透は思わず息を止める。
かけがえのない、たった一人を永久に失う。それは言葉以上に重い意味を持っている。
物心ついた頃から、碧はずっと翠を守り続けてきた。死に物狂いで、まるで自身の生きる意味はそこにあるのだと言うように。巴によりずたずたになった心に、唯一ある救い。それが翠だ。その翠が消えた時、一体碧はどうなるのだろうか。
「……碧が心配ですか?」
「さあ。あいつ馬鹿なんだもんよ。未だに巴のこと自分のせいだとか思ってるし」
不機嫌そうに影虎はそっぽを向いた。
「仕方ないでしょう。巴は碧にしか興味を示さないのですから、そう考えてしまっても」
「そうは言うけどさぁ、当時の俺らがどんだけ子供だったと思ってんの? 不可能だよ、助けるなんて。巴はさ、自分の弱さに負けたの。勝手にね。その咎は碧にはない。誰かが悪いんだとしたら巴自身のせいだよ。俺らだって地獄を見てきて、それでも必死に生きてきたんだよ? 歴代の碧の瞳でおかしくなった人間も多い。逃げ出した俺の言うことじゃないけど、そんくらい重圧のかかる立場で、それでも逃げることは許されないんだから」
「相変わらず、巴には厳しいですね」
「嫌いなんだって。ああいうの」
透は苦く含み笑った。
――あれは、この国の最たる呪詛だ。碧の瞳に呑まれて消える、濁流の中で生まれた深い澱。影虎が憎むのも無理はなかった。あれは影虎が逃げ出したもの、そのものだ。
「……碧がさ。俺の知らない間に随分変わったなーと思ってたんだけど。まだ巴のことは馬鹿のまんまだったから、つい怒っちゃったよ」
ぱちんと爪を弾いて、影虎は冷たく遙か遠くを睨み据えた。
「榛名ちゃんのこと守るなんて殊勝なこと、やり遂げたいなら巴のことは捨てるべきだよ。翠のことだけでも手一杯なのに、あんなの引き連れてってどうすんの」
「さあ。そればかりはどうなるか分かりませんが、碧は間違いなく巴を見捨てませんよ」
「知ってる。だから馬鹿だって言ってんの」
「そういうところが心配なんですよね、あなたは」
からかうと、意外に影虎は苦笑して立ち上がった。
「ほんと、放っとけないからいっそ巻き込まれることにした」
「……賭けるんですか? あの子に」
「さて、どうかな。賭けってのは、なんか面白くない」
青年は悪戯っぽく微笑する。
「引っ掻き回してやる、ってほうが性にあってる」
金色の髪を翻して、廊下の終わり、扉の前に立った。
扉に手をかけるその手を追いかけて透も手を伸ばす。一瞬視線が絡み合った。
「同感です」
透がにっと微笑むのを見て、影虎も口の端を上げた。
開かれた扉の向こうには、夜が広がっていた。




