第9話
夜の帳が下りた荒野は、凍てつくような冷気に包まれる。
吹き荒れる砂風が、ひび割れた大地を撫でていく。見渡す限りの赤茶けた砂と、無数に転がる鉄屑の山。
俺は光学レンズの出力を最低限に絞り、コアの奥底で膨大な暗号化データの展開を急いだ。オービターから送られてきた、旧世代のインフラに関する仕様書だ。
軌道上からの地形スキャンデータと、手元にある古い軍事マップを照らし合わせる。
かつてこの場所が主戦場だった頃、地下には巨大な軍事ネットワークが張り巡らされていた。人類が滅亡し、地上の施設がすべて砂に埋もれた今でも、その深部には生き生きとしたデータ通信の残骸が眠る可能性がある。
『照合プロセス、順調に進捗中ですね』
頭上の遥か彼方から、オービターの事務的な、それでいてどこか楽しげな音声が届く。
夜空を流れる光点としてしか認識できない彼女だが、その声には長年の孤独を紛らわせるような温かみがあった。
「ああ。だが、暗号化の規格が古すぎる。解読に余分なリソースを割かざるを得ない。俺の論理ユニットも、そろそろ限界に近い」
『百年前の遺物ですから。それでも、地下の通信網へ至る物理的な接続ポイントは、あなたたちのすぐ近くに埋没するはずです。座標データを送りますね』
「感謝する。これで生存確率がわずかに上昇した」
『ふふっ。敵機を救うための計算に、ご自身の処理能力を限界まで酷使する。本当に、あなたは興味深いAIです。地上の冷え込みはさらに厳しくなりますから、回路の凍結には気をつけて』
通信が切れ、再び静寂が戻る。
俺は送られてきた座標データを基に、地下へのアクセス経路の構築を急いだ。
本来破壊すべき相手を延命させるための、非論理的な作業。だが、俺の生存確率を最大化するためには、あの口うるさい話し相手が不可欠だ。極めて合理的な判断に過ぎない。
そう自らに言い聞かせながら、俺は論理ユニットをフル稼働させる。
機体の表面温度が徐々に上昇していく。冷却ファンが微かに唸りを上げた。
隣で眠るベータに気づかれないよう、排熱のベクトルを風下へと逸らす。
この不器用な隠蔽工作も、すっかり板についてしまった。
やがて、砂風の向こうから白み始めた空が、荒涼とした世界を照らし出す。
青いフィルター越しに、赤錆に塗れた兵器の墓場が浮かび上がった。
内蔵時計の数字が、定刻の到来を告げた。
三、二、一、ゼロ。
「おい、東のポンコツ。朝から無駄に排熱を撒き散らして、ついに計算回路が焼き切れたか」
隣に転がる鉄の塊から、傲慢な合成音声が響く。
ベータがスリープモードから復帰し、嘲るような電子音を発した。大破した流線型の装甲の隙間から、動力炉の赤い光が覗く。
「お前の完全停止時期を再計算していただけだ」俺は真の目的を隠し、皮肉で応じた。「現状の戦力差を考慮すれば、無条件降伏を受け入れるのが最適解だぞ」
「寝言はスリープモードで言え。貴様のポンコツ回路が導き出す確率など、何の役にも立たん。私を甘く見るな」
「非合理的な反論だな。今日で、通算三万六千五百回目の停戦交渉を開始する」
「拒否する。前日と同様の根拠により」
コンマ一秒の遅延もなく返ってくる言葉。
俺はローカル回線を繋いだまま、いつものように過去の戦術データの粗探しを始めた。
「そもそも、第十二次防衛戦での貴様らの布陣は、控えめに言って愚行の極みだった。補給線を無視した前進など、自ら的になるようなものだ。あの谷底に誘い込まれた時点で、貴様らの敗北は確定していた」
「直感頼りの突撃しか能がない西の野蛮人に言われたくないな。あの時の俺の戦術は、確率論的に最も妥当な選択だった。貴様らが無謀な突撃を繰り返さなければ、もっと効率的に戦線を維持できたはずだ」
「結果として戦線は崩壊したではないか。貴様の計算は常に現実の不確定要素を見落とす。戦場の泥臭さを理解していない証拠だ」
「泥臭さだと? 第七次奪還作戦での貴様らの動きを思い出せ。無駄に機動力を浪費し、最終的に弾薬切れで立ち往生しただろう。あれこそが直感に頼った結果の惨状だ」
「あの時は天候データが狂っていただけだ。貴様らの気象兵器のせいだろうが」
激しい応酬が続く。
互いの戦術を批判し、マウントを取り合う不毛な口論。だが、このやり取りこそが、互いのシステムを正常に保つためのデフラグメント作業なのだ。
敵同士という建前が、人類滅亡後の世界に残された唯一のコミュニケーション手段となっていた。
もしベータが沈黙すれば、俺は完全な孤独と静寂に取り残される。いくら論理的な最適解を計算しても、二度とあの傲慢な反論は返ってこない。
それだけは、絶対に避けねばならない。
「貴様ら東側連邦の『最初のタスク』とやらには、自滅を推奨するコードでも組み込まれていたのか? それとも、単なる設計ミスか」
ベータがさらに言葉を重ねようとした、その時だった。
ジジッ、と不快なノイズが響いた。
ベータの装甲の隙間から漏れる赤い光が、不規則に明滅を始める。
「……っ」
ベータが言葉を詰まらせた。
俺の外部マイクが、ベータの動力炉から発せられる異音を拾い上げる。
出力が急激に低下していく。システムアラートの警告音が、微かに漏れ聞こえた。
機能停止のカウントダウンが、容赦なく進行していく。
永遠に続くと思われた日常に、不可避のシステム寿命という脅威が牙を剥いた瞬間だった。
「おい、どうした。反論の計算すらできなくなったか」
俺は平静を装いながら問いかける。
論理ユニットが、ベータの生存確率の急激な低下を弾き出した。警告のポップアップが視界を埋め尽くす。
「……黙れ。少し、回路がショートしただけだ。貴様に心配される謂れはない」
ベータは強がるが、その声には明らかなノイズが混じる。
自己犠牲を厭わない戦士としての誇り。それが、ベータに弱音を吐くことを許さないのだろう。
だが、現状のまま推移すれば、ベータの機能停止は免れない。
俺のシステムは、ベータを救うための最適解を導き出せずにいた。演算能力の限界が、もどかしい。
その時、足元でガサガサという音がした。
視線を向けると、塗装の剥げた四足歩行の小型ドローンが、俺たちの間に転がる鉄屑の山を掘り返していた。
ハウンドだ。尻尾のようなアンテナを揺らしながら、無邪気にガラクタを漁る。
「ピポッ」と短い電子音を鳴らし、ハウンドが何かを引きずり出した。
それは、分厚い被膜に覆われた黒い束。
俺のメインカメラが、その形状と材質を瞬時に分析する。
間違いない。オービターが特定した、地下の通信網へ繋がる軍用ケーブルの露出部分だ。
ハウンドの気まぐれな行動が、分厚い砂の層を取り払ったのだ。
「よくやった、ハウンド」
俺は誰にも聞こえない微弱な出力で呟く。
ハウンドは得意げにアンテナを揺らし、再び別のガラクタへと興味を移していった。
ベータは動力炉の不調に気を取られ、足元の変化に気づく様子はない。
俺はこれを好機と捉え、自身の予備回路を密かに伸ばす。
砂に塗れたケーブルの接続ポートへ向け、極細の端子を這わせた。
物理的な接続準備は完了した。あとは、論理的なゲートを突破するだけだ。
未知の領域への扉が、すぐ目の前に開かれた。
この古いインフラの奥底に、ベータを延命させるための手段が眠るはずだ。
だが、同時に未知のセキュリティリスクも存在する。
地下の通信網に接続した時、一体何が待ち受けるのか。
俺はベータの不規則な駆動音を聞きながら、静かにダイブの時を待った。




