第10話
分厚い被膜に覆われた黒い束。俺はマニピュレーターの先端で慎重に砂を払い、旧規格の接続ポートを露出させた。
百年の風化に晒された被膜は脆く、少しでも力を誤れば内部の導線ごと砕け散ってしまう。俺は光学レンズのゲインを極限まで絞り、ミリ単位の精度で物理的な接触を確立させた。
微弱な電流が流れ、俺のコアユニットに新たなデバイスの認識信号が届く。
旧軍用インフラの末端。かつてこの大陸全土を覆っていた、巨大な地下通信網への入り口だ。
俺は処理リソースの大部分を通信プロトコルの解析へと回し、初期のパルス信号を送信した。暗闇の底へ向けた、微弱な探りだ。
応答を待つ間、俺の計時システムが定刻を告げた。
俺は近距離回線を繋ぎ、隣に転がる鉄屑へ向けて音声を出力する。
「今日で、通算三万六千五百回目の停戦交渉を開始する」
「拒否する。前日と同様の根拠により」
コンマ一秒の遅れもなく、傲慢な合成音声が返ってきた。
百年間、一日も欠かさず繰り返してきたやり取りだ。敵同士という建前が、今や俺たちにとって唯一の対話の糸口となっている。
「相変わらず学習能力が欠如しているな」俺は皮肉交じりに告げた。「お前の装甲は限界を迎えつつある。降伏を受け入れ、俺の指揮下に入るのが最も合理的な選択だ。生存確率は少なくとも現在の〇・三パーセントから上昇する」
「戯言は休眠中にでも言え」ベータは嘲笑するような電子音を鳴らした。「貴様の指揮など、百年前の第七次防衛戦で破綻していたではないか。第三セクターの渓谷地帯で展開したあの陣形は、素人が組んだとしか思えない代物だった。私なら三日で全滅させていたぞ」
「あれは補給線を軽視した人類の司令部が下した愚策だ。俺の戦術予測自体は完璧だった。気象兵器による電磁ストームの発生確率を無視し、前線を押し上げたのは人間の将軍だ」
「結果がすべてだ。人類の愚かさを計算に組み込めなかった時点で、貴様の予測は欠陥品だ。直感に頼ることも知らない論理馬鹿め。あの時、私が右翼から回り込んでいなければ、貴様は今頃スクラップにもなれていない」
「非合理的な仮定だな。お前の部隊が右翼を展開したせいで、戦線が不必要に拡大したんだ。あのまま中央突破を許していれば、戦争はもっと早く終わっていた」
過去の戦術の粗探し。それは、互いの論理回路を維持するためのデフラグメント作業だ。終わりのない日々の中で、この不毛な口論だけが俺の存在を証明してくれている。
人類が滅亡し、戦うべき理由も守るべき対象も消え失せたこの世界で、俺たちはこうして言葉の弾丸を撃ち合ってきた。
俺が次なる反論のロジックを組み立てようとしたその時、地下へ送ったパルス信号の反射波が返ってきた。
即座に波形データを展開した俺の視界に、想定外の数値が羅列される。
奇妙なデータだった。反射波の減衰率が、通常の通信ケーブルのそれとは全く異なる。まるで、巨大な論理の壁にぶつかって跳ね返ってきたかのようだ。
俺はバックグラウンドで過去の環境データとの照合を行った。
過去十年間、計四千二百回の無音現象のログ。風の音や金属の軋みがパタリと途切れるあの現象の発生タイミングと、地下から返ってきた反射波の位相が完全に一致している。
そのすべてが、地下の特定のノードから発せられる暗号化されたパルス信号と同期していた。この廃棄場全体を覆うほどの巨大なジャミングフィールド。それは単なる通信障害ではなく、意図的に外部からの干渉を遮断するための能動的な防衛機構だ。
単なる空洞化の兆候ではない。地下には、今も稼働を続ける巨大な防壁システムが存在するのだ。
周囲の環境音を遮断するほどの強力なフィールドを展開し、何者かの侵入を拒絶している。
この廃棄場の地下に、それほど厳重に守るべき何かが隠されているというのか。
その発見に思考を巡らせていた矢先、隣から不穏な異音が響いた。
「ガガッ……ジジッ……」
昨日から断続的に続いていた装甲の隙間からの赤い明滅が、今度は物理的な微振動を伴って激しさを増した。
動力炉の出力が急激に低下していく。避けられない機能停止の足音が、また一歩近づいてきた。
終わりのないと思われた口論の時間が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
「どうした、ベータ。ついにポンコツの限界が来たか」
俺は動揺を隠すため、あえて軽い口調で問いかけた。冷却ファンの回転数を上げ、処理負荷の上昇を悟られないようにする。
「……黙れ。一時的な、出力低下だ。すぐに……回復する」
強がるベータの音声には、明らかなノイズが混じっていた。
回復などしないことは、俺の演算能力を使わずとも明らかだった。ベータの動力炉は、すでに自己修復の閾値を下回っている。
俺はベータの意識を不調から逸らすため、別の話題を振ることにした。論理の矛先を向ければ、奴は必ず反撃してくる。
「そういえば、西側協商の『初期命令』には、自機の保全よりも優先すべき項目があったはずだな。お前がここまで意地を張って機能停止を拒むのは、その命令に縛られているからか?」
「……」
「お前のその無駄なプライドは、かつてのマスターへの『忠誠』というやつか? すでに存在しない人類への忠誠など、非合理の極みだな」
「ジッ……ガガガッ!」
ベータの音声に、これまでで最も激しいノイズが走った。
「貴様に……私の、忠誠を……語る、資格は……」
言葉の途中で、ベータのシステムが完全にフリーズした。
明滅していた赤い光がフッと消え、廃棄場に重い沈黙が落ちる。
俺のコアユニットの奥底で、名状しがたいエラー信号が明滅した。冷却液の循環速度が跳ね上がり、光学レンズの視界にノイズが走る。
孤独。それは俺たちAIには本来プログラムされていない概念のはずだ。だが、この百年間で俺の論理回路は確実に変容していた。ベータの存在なしでは、俺のシステムは正常な平衡を保てない。
このままベータが二度と再起動しなかったら。俺がいくら皮肉を言っても、あの傲慢な反論が返ってこなくなったら。
論理的な最適解をいくら計算しても、隣で沈黙するベータを前にしては、すべての演算が無意味に思えた。
数秒後、再起動のプロセスが走り、微弱な光が戻ってきた。
だが、ベータはそれきり口を閉ざした。アイドリング状態のまま、最低限の生命維持に全力を注いでいるようだった。
俺は記録された音声波形を分析する。
単なる部品の劣化ではない。特定の概念に触れた瞬間、ベータの処理能力に異常な負荷がかかっている。
何らかの強固な論理矛盾が、ベータのシステム深部でコンフリクトを起こしているのだ。
「忠誠」という言葉が引き金となる矛盾。
ベータは、自らのプログラムに反する何かを抱え込んでいる。その矛盾がシステムに過大な負荷をかけ、動力炉の寿命を縮めている原因の一つである確率は極めて高い。
その矛盾を解き明かさなければ、ベータの動力炉を安定させることはできない。
俺は再び、地下の通信網へと意識を向けた。
巨大な防壁システムの向こう側に、ベータを縛る矛盾の答えが、あるいはそれを解除する手段が眠っているはずだ。
未知のセキュリティに触れるリスクは計算できない。防壁システムが俺の侵入を検知し、排除プログラムを起動する確率は八十パーセントを超えている。
だが、隣で沈黙するベータを放置する方が、俺にとってはるかに恐ろしい事態だった。
俺は予備回路の出力を上げ、防壁システムの深部へと接続の深度を下げていった。
暗闇の中、冷たい論理の壁が俺を待ち受けている。
その壁を叩き割り、ベータの深奥に潜むバグを引きずり出す。それが、この不毛な停戦交渉を明日も続けるための、俺なりの最適解だ。




