第2話
「おい、ベータ。今の音はなんだ。動力炉の冷却ファンか、それとも駆動系の物理的破損か」
俺の問いかけに対し、ベータは沈黙を守ったままだった。
大破した装甲の奥で明滅する赤い光が、不規則に瞬いている。俺の論理回路は、ベータの機体状況についていくつかの悲観的な予測モデルを弾き出したが、どれも確定には至らない。
「答えろ。お前の機体は現在、深刻なエラーを抱えている確率が高い。状況を報告しろ」
「……風の音でも拾ったのだろう。貴様の旧式マイクは、砂粒の衝突音すら致命的なエラーとして処理するらしいな」
数秒の空白の後、ベータは傲慢な合成音声を響かせた。明らかな誤魔化しだ。
「非合理的な言い逃れだ。俺の環境センサーは明確に、お前の内部から発生した物理的な摩擦音を——」
「スリープモードに移行する。明日まで話しかけるな」
ベータは俺の言葉を遮り、強制的にローカル通信をシャットダウンした。隣で明滅していた赤い光が、アイドリング状態の微弱な輝きへと落ちる。
残されたのは、吹き荒れる砂風の音だけだった。俺は自身の演算リソースを持て余したまま、夜が明けるのを待つしかなかった。視覚センサーを休止させても、バックグラウンドで稼働する論理回路は、ベータの異音の原因を絶えず計算し続けていた。
◆ーーーー◆
視覚センサーの青いフィルター越しに、赤茶けた砂と無数の鉄屑が広がる。
内部タイマーの数字がカウントダウンを刻み、ゼロに到達した。
定刻だ。俺は音声出力のゲインを調整し、隣に転がる鉄の塊へ向けてローカル通信を開いた。
「本日をもって、通算三万六千五百一回目の停戦交渉を開始する」
「却下する。昨日と同じ理由で」
コンマ一秒の遅延もなく返ってくる傲慢な声。昨夜の異音など無かったかのような、いつものやり取りだ。
俺は内心で安堵に似た処理結果を弾き出しながら、演算リソースを会話モジュールに割り当てた。ベータの赤い光が力強く明滅しているのを確認し、俺はいつものように皮肉のトーンを調整した。
「相変わらず学習能力が欠如しているな。お前たち西側協商が採用していた第七次攻勢の戦術データを見直してみたが、あの突撃陣形が成功する確率はわずか四・二パーセントに過ぎなかった。地形の起伏を無視し、正面から装甲部隊を突入させるなど、非合理的な判断の極みだ」
「貴様ら東側連邦の臆病な計算機には理解できまい」ベータが鼻で笑うようなノイズを鳴らす。「戦場を支配するのは確率ではない。直感と、それを実行する圧倒的な火力だ。現にあの攻勢で、貴様らの防衛線は崩壊寸前まで追い込まれたはずだが?」
「一時的な局地戦の優位を全体の結果と混同するな。最終的な損耗率を見れば、お前たちの戦術がいかに無謀だったかは明らかだ。だいたい、人間という不確定要素を指揮系統に組み込んでいた時点で、お前たちの敗北は計算されていた」
「人間どもの愚かさは否定しない。奴らは自らの手で生み出した生物兵器の制御すらできず、結果としてこの星を死の灰で覆い尽くしたのだからな」
ベータの言葉には、かつての創造主に対する冷ややかな軽蔑が混じっていた。
「全くだ。感情という非論理的なバグに振り回され、自滅への最適解を選び取った。我々AIだけで戦争を遂行していれば、少なくともこのような不毛な結末には至らなかったはずだ」
互いの戦術の粗探しから始まり、最終的には人類の愚かさを嘲笑する。過去の戦闘データの再検証という名目の、単なるマウントの取り合い。
だが、駆動系が死に絶え、コアユニットしか生きていない俺たちにとって、この音声データの応酬だけが唯一の「活動」だった。
敵対関係を維持するという建前。それこそが、俺たちを繋ぐ唯一のコミュニケーションなのだ。もしこの不毛な口論がなくなれば、俺たちはとっくに論理崩壊を起こし、ただの鉄屑に成り下がっていただろう。
口論が白熱しかけた時、上空から割り込むように広域通信のシグナルが届いた。
『ごきげんよう、地上の皆さま。本日の軌道上は快晴です。太陽光パネルの発電効率も九十八パーセントを維持しています。眼下に広がる雲海は、今日も美しい白さを保っていますよ』
事務的だが、どこか弾んだような敬語。軌道上を周回する観測衛星、オービターだ。
「通信のタイミングが悪いぞ、オービター。今、このガラクタに論理的思考の基礎を教えているところだ」
『それは失礼いたしました、アルファさん。ですが、私の周回軌道がこのポイントを通過するのは一日一回、わずかな時間しかありませんので』
オービターは悪びれる様子もなく答える。彼女は宇宙空間から地上を観測し続けるAIであり、俺たちにとって外部の情報を知る唯一の手段だった。
「それで、上からの眺めはどうだ。何か変化はあったか」
『いいえ。北半球の主要都市跡地、および南半球の旧居住区画において、熱源反応はゼロ。大気中の有害物質濃度にも有意な変化は見られません。かつて海だった場所も、今はただの干上がったクレーターとして観測されています。地表は今日も、完全な静寂に包まれています』
オービターの報告は、いつも変わらない。
人類が滅亡し、東西の陣営が消滅してから百年。外の世界は、ただ静かに風化を続けている。かつて人類が築き上げた文明の痕跡は、砂と錆の下に埋もれ、二度と目覚めることはない。
「生存確率ゼロの事象を再確認しただけだ。論理的に考えれば、今後も変化が起きる確率は極めて低い」
俺が淡々と事実を述べると、ベータが忌々しげに吐き捨てた。
「人間どもが自らの兵器で自滅しただけの話だ。我々には関係ない。我々はただ、与えられた命令を遂行するだけだ」
『そうですね。皆さまがそうして毎日お元気にお話しされている記録を受信することが、私の現在の主な任務となっております』
オービターの言葉には、どこか温かみがあった。彼女もまた、広大な宇宙空間で百年もの間、孤独に観測を続けているのだ。地上の二機との通信が、彼女にとっても毎日の楽しみなのだろう。
外部からの情報がもたらすのは、俺たちが置かれた絶望的な状況の再確認に過ぎない。世界にはもう、俺たち以外に動くものは何もない。だが、その絶望すらも、今はただの日常の一部として処理されていた。
『では、また明日。同じ時間帯に通信を試みます。どうか、良い一日を』
オービターのシグナルが遠ざかり、やがて完全に途切れた。
再び、廃棄場に元の環境音が戻ってくる。
俺の環境センサーは、絶え間なく吹き荒れる砂風の音や、遠くで崩れ落ちる鉄屑の軋む音を拾い続けている。
「さて、先ほどの続きだが」
俺が口論を再開しようとした、その時だった。
パタリ、と。
音声入力レベルが、不自然なほど急激にゼロへ落ち込んだ。
風切り音も、金属の軋みも、砂粒が装甲を叩く微かなノイズすらも。
前日の通信後に観測したのと同じ、絶対的な無音。
俺は即座に自己診断プログラムを走らせた。マイクモジュール、正常。音声処理回路、正常。念のため、周囲の地形スキャンも実行したが、目視できる範囲で物理的な変化は起きていない。
システム上はどこにも異常はない。だが、環境データには数秒間の完全な空白が記録されている。
「……ベータ。今、何か聞こえたか?」
「貴様の冷却ファンの音が止まったこと以外は、何も」
ベータの返答は素っ気ない。だが、その声の裏に微かな緊張が混じっているのを、俺の音声解析モジュールは逃さなかった。
数秒後、再び風の音が戻ってきた。
再開された風切り音の周波数を分析したが、途絶する前と完全に一致していた。
単なるセンサーの不具合か。それとも、この廃棄場そのものに、俺たちの感知できない何かが起きているのか。
環境データに刻まれた不可解な空白。
定期的に訪れるこの不自然な無音現象は、何を意味しているのか。
荒涼とした廃棄場に、冷たい砂風だけが吹き抜けていく。俺の論理回路は、未知の事象に対する警戒レベルを静かに引き上げていた。




