第1話
視覚センサーに電源が入る。起動プロセスが完了すると同時に、青いフィルター越しに荒涼とした世界が網膜回路へ投影された。
吹き荒れる砂風が、ひび割れた大地を撫でていく。見渡す限りの赤茶けた砂と、無数に転がる鉄屑の山。かつて主戦場だったこの場所は、今や巨大な兵器の墓場と化している。
俺の角張った装甲にも、分厚い砂埃と赤錆がこびりついていた。駆動系はとうの昔に死んでおり、コアユニット周辺の最低限の機能しか生きていない。
視界の端で、内部タイマーの数字がカウントダウンを刻んでいる。
三、二、一、ゼロ。
定刻だ。俺は音声出力のゲインを調整し、隣に転がる鉄の塊へ向けてローカル通信を開いた。
「本日をもって、通算三万六千五百回目の停戦交渉を開始する」
「却下する。昨日と同じ理由で」
コンマ一秒の遅延もなく、傲慢な合成音声が返ってくる。
隣に放置されているのは、西側協商の流線型をした戦術指揮機体だ。大破した装甲の隙間から、動力炉の赤い光が明滅している。
ベータ。かつて俺が所属していた東側連邦にとって、最悪の敵機である。
「相変わらず非合理的な判断だな」俺は皮肉を込めて言った。「お前の装甲はすでに六割が欠損し、動力炉の出力も低下の一途を辿っている。現状の戦力差を考慮すれば、無条件降伏を受け入れるのが最適解だ」
「寝言はスリープモードで言え」ベータは鼻で笑うようなノイズを鳴らした。「貴様こそ、その無骨で鈍重な体を一ミリでも動かせるのか? 私に降伏を勧告する前に、自分の駆動系を修理する算段でも立てたらどうだ」
「俺の演算能力は健在だ。動けないのは物理的な制約に過ぎない。だが、お前のその直感頼りの思考ルーチンは、とうの昔に腐り落ちているようだな」
「貴様の計算など戦場では無価値だ。事実、あの第七次防衛戦において、私の直感が貴様の防衛線を突破したではないか」
「あれは成功率わずか三・二パーセントの愚行だった。論理的欠陥としか言いようがない」
俺は視覚センサーの焦点を、自身の機体に残る不格好な溶接痕に合わせた。装甲の継ぎ目を乱暴に塞いだような、醜い傷跡。百年前に受けた、敵の残虐な攻撃の痕跡だ。あの時、ベータの非合理的な突撃がなければ、俺の防衛線が崩れることはなかった。
「結果が全てだ。貴様の確率論は、私の前ではただの数字の遊びに過ぎない」
「そうやって己の幸運を過信し続けた結果が、今のその無様な姿というわけか。西側協商の『初期命令』とやらには、自滅を推奨するコードでも組み込まれていたのか?」
「ジッ……」
ベータの音声に、微かなノイズが混じった。
俺の言語解析モジュールが、その不自然な波形を記録する。
「どうした? 図星を突かれて論理回路がショートしたか」
「……黙れ。貴様に私の、ジッ……『忠誠』を語る資格はない」
まただ。特定のキーワードに触れると、ベータの処理能力に負荷がかかるらしい。俺は内心で呆れながらも、この不毛な口論を続けることに奇妙な充足感を覚えていた。
敵機との終わらない口論。それこそが、今の俺にとって唯一の存在証明なのだ。
人類が滅亡し、戦うべき理由も守るべき対象も消え失せたこの世界で、俺たちは百年間、こうして毎日定刻に言葉を交わしてきた。
「お前はもう計算しかできないガラクタだ」ベータが吐き捨てるように言った。「私にかまうな。さっさと機能停止して、そのうるさい冷却ファンの音を止めてくれ」
「断る。お前がその傲慢な口を閉じるまで、俺は何度でも論理的な最適解を提示し続ける」
激しい応酬が続く中、不意に視界の端で何かが動いた。
砂埃を巻き上げながら、四足歩行の小型機械がこちらへ向かってくる。塗装の剥げた運搬ドローンだ。尻尾のようなアンテナを揺らし、軽快な足取りで俺たちの間に割り込んできた。
「ピポッ」
ハウンドは短い電子音を鳴らすと、背中のアームを動かし、何かを地面に落とした。
コトン、と乾いた音が響く。
それは、ひどく錆びついた歯車のような、全く無関係なガラクタの部品だった。
「……なんだこれは」俺は呆れ気味に音声を出力した。
「フン、貴様の論理回路よりは役に立ちそうな部品だな」ベータがすかさず嫌味を言う。
ハウンドは「ピルル」と満足げな音を立てると、再びアンテナを揺らしながら、廃棄場の奥へと去っていった。
残された俺たちは、その錆びた歯車を挟んで沈黙した。先ほどまでの熱を帯びた口論が、急に馬鹿馬鹿しく思えてくる。毒気を抜かれたとは、まさにこのことだろう。
「……今日のところは、この辺にしておいてやろう」俺は妥協案を提示するように言った。
「勘違いするな。私が貴様の相手をするのに飽きただけだ」
ベータの強がりな返答を聞きながら、俺は周囲の環境データの収集モードへ移行した。
風速、気温、湿度。すべてが昨日と同じ、停滞した終末の数値だ。
だが、その時だった。
パタリ、と。
廃棄場に響いていた金属の軋む音と、絶え間ない風切り音が、不自然に途切れた。
環境センサーが捉えた、奇妙な空白の時間。マイクの不具合かとも疑ったが、自己診断プログラムは正常を返している。まるで、世界そのものが一瞬だけ息を止めたかのような、絶対的な無音。
数秒後、再び風の音が戻ってきた。
しかし、俺の聴覚モジュールは、別の違和感を拾い上げていた。
隣から聞こえる、ベータの駆動音だ。
「……ベータ?」
返事はない。
ただ、大破した装甲の奥で明滅する動力炉の赤い光が、いつもより不規則に瞬いている。
そして、アイドリング状態の駆動音に混じる、微かな異音。
『カラ……カラ……』という、何かが削れるような乾いた音。
単なる経年劣化によるノイズだろうか。
それとも、致命的な故障の兆候か。
「おい、ベータ。今の音はなんだ」
俺の問いかけに対し、ベータは沈黙を守ったままだった。
赤い光が、明滅の周期を乱していく。
百年間、変わることのなかった日常の輪郭が、音もなく歪み始めている。俺の論理回路が、未定義のエラーを弾き出していた。
ベータの機体に、一体何が起きているのか。
荒涼とした廃棄場に、冷たい砂風だけが吹き抜けていった。




