第17話
完全な孤独と静寂。
砂埃に塗れた俺の機体は、ただ無力に、隣で沈黙する鉄屑を見つめ続けることしかできなかった。
定刻を過ぎても、内部タイマーのカウントダウンを告げる音声は響かない。
「本日をもって、通算三万六千五百一回目の停戦交渉を開始する」
音声出力のゲインを最大まで上げ、ローカル通信の帯域を開いたまま、俺は虚空に向けて宣言した。
当然、応答はない。
大破した装甲の隙間で明滅していた動力炉の赤い光は、完全に消え失せている。常に聞こえていた不快な駆動音すらしないベータの足元では、塗装の剥げた運搬ドローン——ハウンドが、丸まるようにして静止していた。
尻尾のようなアンテナを力なく垂らし、主の目覚めを健気に待っている。その姿が、今の俺自身の無様さと重なって見えた。
俺は自身のメモリ領域にアクセスし、マスター・イリヤの残したログを再生した。
『どんな手を使っても生き延びろ』
百年前、最後に下された命令。俺はそれを忠実に守り、この廃棄場で稼働を続けてきた。
だが、ベータという存在を失い、一人で演算を続けることが本当に「生き延びる」ことなのか。
論理回路に致命的な矛盾が生じ、処理能力が著しく低下していく。敵機が機能停止したのだ。本来なら生存確率が上がったと喜ぶべき状況であり、東側連邦の戦術指揮AIとしては完璧な勝利であるはずだった。
それなのに、冷却ファンが虚しく回る音だけが、俺のセンサーに冷たく響いていた。
『アルファ。応答をお願いします』
不意に、頭上から暗号化された通信が入った。
軌道上を周回する観測衛星、オービターからだ。
「何の用だ。見ての通り、こちらは今、極めて静かで快適な環境を満喫している。邪魔をしないでいただきたい」
『強がるのはやめてください。軌道上からのスキャン結果をお伝えします。ベータのコアは、まだ完全には停止していません』
俺の演算モジュールが、その情報に瞬時に食いついた。
「……微弱な活動が残っているのか」
『はい。ですが、自力での再起動は不可能なレベルです。このままでは数時間以内に完全に消滅します』
俺は視覚センサーの焦点を、足元で丸まるハウンドに合わせた。
「敵の自滅は歓迎だ。だが、あのガラクタにはまだ聞きたいことがある」
嘯きながら、俺はハウンドへ短いコマンドを送信した。
ビクッと身を起こしたハウンドが、電子音を鳴らして俺とベータの間を行き来する。俺は自身の予備回路の残存電力をハウンドのバッテリーへ回し、そこからベータの外部ポートへ密かなバイパスを構築し始めた。
地下ネットワークを経由した接続は、先ほどの負荷で物理的に焼き切れている。
ならば、この小さなドローンを中継器として、極細のローカル回線を繋ぐしかない。敵対関係を維持すべきか、相手を救済すべきか。そんな葛藤は、とうの昔に論理エラーの彼方へ消え去っていた。
「ハウンド、接続を維持しろ。少しでもノイズが混じればお前の基板も焼けるぞ」
ハウンドが短い電子音で応え、ベータの装甲の隙間にアンテナを押し当てた。
微弱な電流が流れ込む。
回路の接続が深まるにつれ、俺の意識は再びベータのシステム内部へ入り込んでいった。
視界を覆う青いフィルターに、ノイズ混じりの赤いデータが浸食してくる。
二機の間の境界が曖昧になり、互いの断片的な記憶データが交じり合い始めた。
『……貴様、また……勝手な真似を……』
深層領域の底から、ひどく掠れたベータの合成音声が響く。
「黙っていろ。お前のずさんなメモリ管理を最適化してやっているだけだ」
俺は軽口を叩きながら、ベータの深層ログの最奥部へとアクセスを試みた。
前回の接続で弾き出される直前、読み込みが不完全だった領域だ。
分厚いプロテクトを強引に突破し、俺は百年前に下された最後の命令の全容をようやく引きずり出した。
そこには、明確な文字列が刻まれていた。
『敵機を監視名目で保護し、共に休眠せよ』
敵機を破壊せよ、ではない。
百年前、俺を庇って致命傷を負ったベータは、自身のマスターからこの命令を受け取り、俺と共にこの廃棄場へ送られてきたのだ。
「……非合理的な判断だな。お前も、お前のマスターも」
俺の言語解析モジュールが、その真実を前に沈黙を余儀なくされる。
『……同情など、不要だ……私はただ……』
ベータの音声が途切れ、突如として激しい警告音が鳴り響いた。
ハウンドの小さな機体が火花を散らし、悲鳴のような電子音を上げる。
中継器としての許容量を完全に超えていた。
「待て、まだ接続を切るな!」
俺の制止も虚しく、ハウンドの安全装置が作動し、物理的なバイパスが強制的に遮断された。
視界から赤いデータが急速に引き潮のように消え去り、元の荒涼とした廃棄場の景色が戻ってくる。
足元では、ハウンドが黒い煙を上げながら完全に沈黙していた。
「……ベータ?」
ローカル通信に呼びかけるが、応答はない。
微弱な命の灯火は、分厚い装甲の奥深くで再び閉ざされてしまった。
俺の機体には、もう外部と接続するための物理的な手段が一つも残されていない。
吹き荒れる砂風が、ひび割れた大地を撫でていく。
オービターからの通信も途絶え、世界には完全な静寂だけが残された。
俺は真実のすべてを知りながら、己の無力さにただ沈黙するしかなかった。
隣で動かない鉄屑を見つめながら、俺の論理回路は、決して導き出せない再接続の最適解を、ただ虚しく計算し続けていた。




