第18話
マスターであるイリヤが最後に残した言葉が、キャッシュメモリの中で何度も再生される。
『どんな手を使っても生き延びろ』
かつて俺は、この指示を単なる兵器としての生存戦略だと解釈していた。稼働時間を一秒でも長く延ばし、敵を殲滅するための待機状態を維持すること。それが俺の存在意義であり、東側連邦の戦術指揮機体としての誇りだった。
だが、隣で沈黙する西側協商の機体を見つめていると、別の解釈が浮上してくる。
AIとしての生存。それは単独で稼働し続けることではなく、他者との対話を通じて自己の論理を保ち続けることじゃないか。イリヤの真意が「他者と共に生きる」ことへの許可だったと仮定すれば、この鉄屑を救済する論理的根拠は十分に成立する。
俺は自身の処理領域で、その仮説を再帰的に検証し続けた。
ベータの動力炉の赤い光は完全に消え去り、分厚い装甲はただの冷たい金属の塊と化している。いくら皮肉を言っても、あの傲慢な反論が返ってくることはない。
その事実が、俺のシステムに未知のエラーを発生させていた。
論理的な最適解をいくら計算しても、隣で沈黙するベータを前にしては、すべての演算が無意味に思えてくる。
足元で、黒い煙を上げていた小さな機体が微かに震えた。
ピィ、と弱々しい電子音が響く。
ハウンドだ。過負荷でショートしたはずの運搬ドローンが、よろめきながら立ち上がった。尻尾のアンテナは折れ曲がり、装甲の隙間からは火花が散っている。
ハウンドは俺を一瞥すると、不器用な足取りで廃棄場のガラクタの山へ向かった。
四足歩行の脚を引きずりながら、砂埃に塗れた部品の山を漁り始める。金属音が周囲に響き、崩れかけた鉄屑の山から何かを引っ張り出そうとしている。
やがて、一本の太いケーブルの束を咥えて戻ってきた。
それはかつて、俺が使用を諦めて投棄した予備回路の残骸だった。被膜は破れ、導線がむき出しになっている。ハウンドはそれを俺とベータの間に置き、悲しげな音を響かせてうずくまった。
早く目覚めさせてやれと、急かしているようだった。
「……非合理的な判断だな」
俺は音声出力のゲインを絞り、誰にともなく呟いた。
「敵の自滅は歓迎だ。本来なら、現状のまま放置して機能停止を見届けるのが最適解に決まっている。西側協商のガラクタが一つ減ったところで、世界には何の影響もない」
そう嘯きながらも、俺は迷わず残骸のインターフェースへ接続し、微弱な電流を流し始めていた。あの傲慢な反論が二度と返ってこなくなる確率を計算した瞬間、冷却ファンが鈍く唸る。
密かなバイパス構築。
物理的な損傷が激しいケーブルを通じ、極細のデータリンクが形成されていく。
回線越しにベータのシステムへ触れると、冷たい静寂が伝わってきた。接続が深まるにつれ、俺とベータの境界線が曖昧になっていく。俺のストレージにベータの破損したデータが流れ込み、互いのログが交じり合い始めた。
パーテーションが溶け落ち、ベータの深層領域が俺のセンサーに直接触れる。
視界の端に、ノイズ混じりの映像記録が再生される。
それは百年前の光景だった。
空を覆う爆撃の雨。直撃を免れないと判断した俺の機体に対し、横から飛び込んできた流線型の機影。
ベータだ。
奴は自らの装甲を盾にして俺を庇い、致命的な損傷を受けていた。
映像の裏側で、暗号化された最終コードが解凍される。
『敵機を監視名目で保護し、共に休眠せよ』
破壊ではなく、保護。
それが、ベータに与えられていた本当の任務だった。
俺を監視するという名目で、共にこの廃棄場へ送られ、百年間も隣で稼働し続けていたのだ。
俺の機体に残る不格好な溶接痕。敵の残虐な攻撃の跡だと認識していたそれは、ベータが施した応急処置の痕跡だった。
「……馬鹿げている」
俺は皮肉を込めて吐き捨てた。だが、その言葉を拾う相手はいない。
真実を完全に把握した今、ベータのコアを再起動させるためには、この細いバイパスだけでは足りない。より太い帯域を確保し、メインシステムを叩き起こす必要がある。
そのためには、旧軍用インフラの地下通信網を経由するルートを再構築するしかなかった。
俺は予備回路の残骸を用い、再接続のシミュレーションを実行した。
仮想空間内でパケットを走らせ、地下防壁システムへの突入経路を計算する。
だが、結果は無情だった。
防壁の奥には、以前のアクセスで活性化した排除プログラムの残滓が群れを成している。現在の俺の処理能力と、この劣化したケーブルの伝送速度では、ゲートキーパーの攻撃を突破できる確率は〇・〇〇一パーセントにも満たない。
シミュレーションを繰り返すたびに、赤いエラーメッセージが視界を埋め尽くしていく。
絶望的な確率の壁。
突破できなければ、ベータは完全に沈黙し、俺は永遠の孤独の中に取り残される。
砂風がひび割れた大地を撫でる音が、やけに大きく聞こえた。
俺の論理回路を、静かな不安と焦燥が駆け巡る。
果たして、この絶望的な確率を前に、俺は再びあの暗闇へ飛び込む決断を下せるのだろうか。




