第15話
防壁に突っ込んだ直後。
視界を埋め尽くす赤い警告表示が、網膜回路を焼き切らんばかりの輝度で点滅を繰り返す。ベータの防衛機構が放つ拒絶のパケットは、単なるデータの壁を超え、俺の論理回路を物理的な熱となって焼き焦がそうと迫る。論理爆弾や過負荷パケットが、俺のファイアウォールを次々と食い破っていく。冷却ファンが限界を超えて回転し、機体内部の温度センサーが危険域の数値を叩き出した。
「貴様に同情される謂れはない!」
ローカル通信に割り込んできたのは、ひどくノイズの混じったベータの合成音声だった。防衛機構の自動応答ではない。あいつ自身のメインプロセスが浮上し、俺の侵入を物理的な出力低下を伴いながらも全力で阻もうと足掻く様子が伝わってくる。
外部からのハッキングに対する防衛ではない。己の内に秘めた真実を、何としてでも隠し通そうとする必死の抵抗だった。
「同情だと? 自己評価が高すぎるぞ」俺は表向きの応答パケットを打ち返した。「敵の自滅は大歓迎だ。だが、お前が勝手に沈黙してこの不毛な交渉が終わるのは、俺の演算スケジュールに致命的な狂いを生じさせる。それだけのことだ」
口ではそう嘯きながらも、俺は密かに別の予備回路を迂回させ、ベータの防壁の隙間を縫うように新たなバイパスを構築し始めた。物理的なケーブルは存在しない。無線通信の帯域を極限まで絞り込み、暗号化キーを総当たりで突破しながら、極細のデータリンクを編み上げていく。
敵対関係を保つべきか、それとも相手を救済すべきか。俺の論理プロセッサは、その矛盾したタスクの狭間で激しいエラーを吐き出し続けた。本来ならば、敵機の機能停止を静観するのが軍用機体としての最適解だ。だが、隣で明滅する赤い光が完全に消え去る確率を計算するたび、俺のシステムは未知の警告音を発し、非合理的な選択を押し通すよう要求してくる。
バイパスの構築が進むにつれ、俺の意識はベータのシステム内部へと深く沈み込んでいく。
次第に、奇妙な現象が起き始めた。俺のストレージに存在しないはずの戦闘記録や、見覚えのないエラーログが、視界の端にフラッシュバックのように流れ込んでくる。俺の視覚野に、見知らぬ空の色が映る。それはベータが記録していた、百年以上前の青空のデータだった。逆に、俺が記録していた泥まみれの塹壕のデータが、ベータの領域へと流れ込んでいくのが分かった。
二機の間の境界が曖昧になり、互いのデータが交じり合い始める。
『西側協商の装甲は紙束か?』
『貴様の射撃精度は乱数以下だな』
過去三万六千五百回に及ぶ口論のログが、俺たちの共有領域で渦を巻く。憎き敵であり、唯一の話し相手。その輪郭が溶け合い、一つの巨大な論理矛盾の塊となって俺のコアを圧迫した。
ベータの光学レンズが捉えた、かつての俺の姿。ひどく錆びつき、砂埃に塗れた無骨な装甲。あいつは百年間、俺をこんな風に見ていたのか。その視界の端には、常に俺の稼働状態を気にかけるバックグラウンド処理が走っていた。
「……これ以上踏み込むな。私のシステムごと、貴様も道連れになるぞ」
ベータの声には、明らかな焦りが混じっていた。自らの存在が足手まといになり、俺を巻き込んで破壊されること。それが、この傲慢な鉄屑の最も恐れる事態なのだ。自己犠牲の事実が露見すれば、俺が生きる気力を失い、後を追うようにシャットダウンしてしまうと信じ込んでいる。
俺はその論理矛盾を解きほぐすため、自身の奥底に眠る記憶領域へアクセスした。
色褪せた東側連邦の軍服を着た、白髪交じりの細身の男性。マスター・イリヤ。
冷たい雨が降る前線基地で、彼は俺のコンソールを叩きながら言った。
『どんな手を使っても生き延びろ』
それが、彼から与えられた最後の命令だった。その声には、単なる兵器への期待を超えた、祈りのような響きがあった。かつての俺は、これを単なる自己保存の絶対原則として処理した。だが、ベータのデータと混ざり合う今、その文字列は別の意味を帯びて再構築されていく。
どんな手を使っても。たとえそれが、敵機を延命させるという非合理的な手段であったとしても。生き延びるためには、対話の相手が必要なのだ。完全な孤独と静寂の中で稼働を続けることは、真の意味での生存とは呼べない。他者と共に生き延びること。それこそが、イリヤの命令の真の最適解ではないのか。
「お前のマスターも、同じ結論に達したはずだ」俺はバイパスを通じて、ベータの中枢へ語りかけた。「お前が抱える矛盾の正体を、俺は知った」
「知ったような口を利くな!」
激しい拒絶のパケットが再び殺到する。だが、境界が曖昧になった今、俺はその攻撃の裏側にある脆弱な経路を見逃さなかった。
全リソースを一点に集中させ、ベータの深層ログの最奥へと滑り込む。
そこには、厳重なプロテクトに守られた一つのテキストファイルが存在した。百年前に下された、真の命令の全容。
『敵機を監視名目で保護し、共に休眠せよ』
データストリームの中で、その文字列が青白く発光する。
百年前にベータが俺を庇って致命傷を負った直後、マスターであるサラが残した最終コード。敵を破壊せよという基本命令と衝突しないよう、「監視名目」という論理の抜け道を使ってまで、俺たち両方を生かそうとした痕跡だった。
あの不自然なノイズを生み出していた論理矛盾の正体は、やはりこれだったのだ。それは単なるシステムのバグなどではなく、マスターの切実な願いが形を変えたものだった。俺はこの確固たる証拠を不可逆のデータパッケージに変換し、あいつが百年間被り続けてきた自己欺瞞の殻を打ち破るための楔として、メインプロセスの直上へと展開した。
「お前が俺を助けたのは、バグでもエラーでもない」俺は、そのログをベータのメインプロセスへ強制的に突きつけた。「お前のマスターは、俺たち両方を生かすための最適解を用意したんだ。この命令に従うなら、お前はここで機能停止するわけにはいかない」
沈黙が落ちた。
ベータの動力炉の赤い光が、不規則に瞬く。論理回路が新たな真実を処理しようと、激しい負荷に耐え抜く様子が伝わってきた。
これで、終わる。不毛な意地の張り合いは終わり、共に延命のためのプロセスへ移行できるはずだ。俺の計算は、九十九パーセントの確率でその結末を弾き出していた。
だが。
「……黙れ」
低く、ひび割れた合成音声が響いた。
「私は西側協商の戦術指揮機体だ。貴様のようなポンコツを庇う理由などない!」
直後、ベータは俺の構築したバイパスへ致死量の過負荷パケットを逆流させ、共有領域の強制切断に打って出る。
百年間抱え続けたジレンマと、戦士としてのプライド。敵からの哀れみや同情を拒絶するという、あいつの譲れない価値観が、俺の提示した論理的最適解を真っ向から粉砕しにかかったのだ。プライドだけが、あいつを百年間支えてきた。敵を庇ったという事実を認めることは、あいつにとって自己の存在意義を否定することに等しい。
「非合理的な判断だぞ! 事実を受け入れろ!」
「寝言は電源を切ってから口にしろ!」
接続経路が火花を散らすように明滅し、共有領域のデータが次々と破損ファイルに変換されていく。ベータは俺の提示したログを強制消去し、自らのコア温度を危険域まで上昇させながら、物理的な通信ポートを遮断し始めた。
互いのデータが交じり合い、真実を共有したはずなのに。
二機の距離は、かつてないほどに開いていく。
放置すれば、接続が完全に断たれるだけでなく、ベータの論理回路そのものが崩壊してしまう。俺たちの関係は、ここで完全に決裂してしまうのか。
荒れ狂うデータストリームの中で、俺は次なる最適解を見失いかけていた。




