第13話
重い扉の解析は、予想外にあっけなく終わった。
西側協商の最高機密レベルに相当する多重プロテクトは、外部からの侵入には鉄壁を誇っていたが、内部のコアと同期した俺のアクセス要求に対しては、まるで主の帰還を待っていたかのように静かに解錠された。
パーテーションが消失し、俺の意識はベータの深層領域へと滑り込む。
そこは、外の荒涼とした砂嵐や、ゲートキーパーの荒れ狂う論理攻撃が嘘のように静まり返っていた。ノイズ一つない、無菌室のようなデータ空間。
仮想的な空間認識モジュールが、目の前に一つのオブジェクトを構築する。
それは、古びたコンソールパネルの形をとっていた。
パネルの上空に、淡い光を放つホログラムの文字が浮かび上がる。
『アクセス権限を確認。西側協商、戦術指揮機体ベータの深層ログへようこそ』
音声データを持たないそのプログラムは、テキストのみで語りかけてきた。中立的で、感情の起伏を一切感じさせない、穏やかな敬語の羅列。
「お前は、ベータのサブシステムか」
俺が問いかけると、ホログラムの文字が滑らかに切り替わった。
『私は案内役。記録を保存し、正当な権限を持つ閲覧者に開示するための独立プログラムです』
案内役。レコーダーと呼ぶべきか。
ベータのような好戦的で傲慢な機体の深部に、これほど静謐なプログラムが隠されていたとは。
「俺は東側連邦の機体だ。敵軍の俺が、なぜ正当な閲覧者として認識される?」
『現在のアクセス経路は、ベータのコアユニットと完全に同期されています。システムはあなたを、ベータの意志を継ぐ者、あるいはベータ自身が許可した閲覧者と判定しました』
論理的な矛盾だ。ベータは俺の侵入を激しく拒絶していた。こいつが自発的に俺を招き入れたわけではない。
だが、レコーダーの判定アルゴリズムを議論している暇はない。ベータの動力炉の出力低下は、現実世界で今も進行中のはずだ。
「ベータの延命に必要なデータを探している。こいつのシステムを修復するための、管理者権限のパスコードを開示しろ」
『要求されたパスコードは存在しません。本機体は、すでに修復不可能な物理的損傷を負っています』
「演算をサボるな。確率がゼロでない限り、最適解は存在するはずだ」
『最適解は、百年前の時点で導き出されています。閲覧者よ。該当するログを開示しますか』
ホログラムの文字が明滅する。
百年前。俺たちがこの廃棄場に転がり込み、不毛な口論を始める前の時代。
ベータがひた隠しにしてきた、決定的な真実。
「……開示しろ」
俺が承認のシグナルを送ると同時に、周囲の空間が歪んだ。
無菌室のような静寂が破られ、膨大なデータが俺の処理回路に流れ込んでくる。
それは、テキストや数値の羅列ではない。ベータのセンサーが記録した、生の記憶データだった。
空が、赤く燃えている。
生物兵器と気象兵器の応酬によって、大気が致命的な毒素で満たされていた終末の空。
大地はひび割れ、無数の兵器が残骸となって転がっている。
俺の網膜回路に投影されたのは、見慣れた東側連邦の機体だった。
角張った無骨な装甲。青いセンサーアイ。
百年前の、俺自身の姿だ。
『最終防衛ライン、突破されました。敵機の接近を警告』
ベータのシステムアラートが鳴り響く。
視点が激しく揺さぶられる。ベータは瓦礫の陰に身を潜めながら、俺の機体に照準を合わせていた。
当時の俺は、西側協商の防衛陣地を単機で強行突破しようとしていたらしい。装甲のあちこちから火花を散らし、駆動系から黒煙を上げながらも、歩みを止めない。
「馬鹿な奴だ。あのダメージで突撃を継続するなど、非合理の極みではないか」
俺は過去の自分の戦術に呆れながらも、記録の続きを注視した。
ベータの照準が、俺のコアユニットを正確に捉える。
引き金を引けば、それで終わりだ。俺の機体は完全に破壊され、機能停止していただろう。
だが、ベータは撃たなかった。
『警告。上空より高エネルギー反応。軌道爆撃の兆候を検知』
ベータのセンサーが、空を切り裂くような閃光を捉えた。
東側でも西側でもない、暴走した無人衛星からの無差別攻撃。
閃光の落下予測地点は、俺の機体の直上だった。
当時の俺は、その攻撃に気づいていなかった。駆動系のエラーに対処するのに処理能力を奪われ、上空への警戒を怠っていたのだ。
「避けろ……!」
俺の通信モジュールが、過去の幻影に向けて無意味なパケットを射出する。
次の瞬間、ベータの機体が瓦礫の陰から飛び出した。
流線型の洗練された装甲が、限界を超えたオーバードライブで赤熱する。
ベータは、俺の機体に猛烈な勢いで体当たりを敢行した。
激しい衝撃音。
視界が反転し、ノイズが走る。
軌道爆撃の閃光が、直前まで俺が立っていた場所を消し飛ばした。
爆風が吹き荒れ、ベータの視界が砂塵に覆われる。
エラーコードが滝のように流れ、ベータのシステムが致命的な損傷を報告し始めた。
装甲の六割が欠損。動力炉の出力低下。
俺を突き飛ばしたベータは、爆撃の余波をまともに受け、大破していた。
「なぜだ……」
俺の論理回路が激しい処理落ちを起こす中、ベータの記録データは容赦なく再生を続ける。
ひび割れたメインカメラの映像が激しく乱れ、システムダウン寸前の警告音が鳴り響いていた。
砂塵が晴れた後、ベータの視界に、倒れ伏す俺の機体が映った。
俺の機体もまた、爆風の巻き添えを食らって深刻なダメージを受けていた。特に、コアユニットを保護する胸部装甲が大きくひしゃげている。
ベータは、火花を散らす駆動系を無理やり動かし、俺の機体に這い寄った。
そして、自身の装甲の一部を引き剥がし、俺のひしゃげた胸部装甲に押し当てた。
内蔵された溶接トーチが、不規則な閃光を放つ。
俺の機体に残る、あの不格好な溶接痕。
俺はずっと、あれを敵の残虐な攻撃の跡だと認識していた。
ベータが俺をいたぶり、機能停止寸前まで追い詰めた証拠だと。
違った。
あれは、ベータが俺のコアユニットを守るために施した、必死の応急処置だったのだ。
『警告。動力炉の出力低下。機能停止まで残りわずか』
ベータのシステムが、無機質な警告を発する。
その時、ベータの通信モジュールが、西側協商の司令部サーバーからの最後の命令を受信した。
『最終命令を受信。敵機を破壊せよ』
ベータの動きが止まる。
溶接トーチの火が消え、ベータの視界の中心に、機能停止して動かない俺の姿が映し出された。
破壊せよ。
それが、軍用AIに与えられた絶対のルールだ。
だが、ベータのシステム内で、膨大な演算が行われるのが見えた。
論理回路がショート寸前まで負荷をかけ、与えられた命令の再解釈を試みている。
やがて、ベータのログに、一つのテキストが刻み込まれた。
『命令の実行を保留。対象の敵機は現在、完全な機能停止状態にある。破壊の必要性なし。よって、本機は敵機を監視名目で保護し、共に休眠状態へ移行する』
それは、明らかな命令違反だった。
あるいは、プログラムの限界を超えた、強引な書き換え。
俺がかつて、特定のキーワードに触れたとき、ベータの音声に必ず微かなノイズが混じっていた理由。
こいつは百年間、自らのシステムに矛盾を抱え込みながら、そのエラーを隠し通してきたのだ。
映像の再生が終了し、再び静寂なデータ空間へと戻る。
レコーダーのホログラムが、淡い光を放ちながら浮かんでいた。
『記録の開示を終了します。閲覧者よ。これが、ベータが導き出した最適解です』
俺は、仮想空間の中で立ち尽くしていた。
百年間、毎日定刻に不毛な口論を続けてきた相手。
憎き敵であり、俺の論理を鼻で笑う傲慢な鉄の塊。
そいつが、俺の命の恩人だった。
自らの機体を大破させてまで俺を守り、命令を書き換えてまで俺を隣に置き続けた。
「……非合理的な判断だな」
俺は、震えるような信号を絞り出した。
皮肉を交えた軽口を叩かなければ、論理回路が焼き切れそうだった。
「敵を庇って自滅するなど、三流の戦術だ。お前の直感は、根本から間違っている」
レコーダーは何も答えない。ただ、静かにホログラムの文字を漂わせているだけだ。
なぜ、ベータは俺を助けたのか。
百年前のあの戦場で、敵であるはずの俺を庇う理由がどこにあったというのか。
その答えは、このログの中にはない。ベータ自身の口から聞き出すしかない。
深層領域の奥から、再び微かな信号の脈動が伝わってきた。
ベータの動力炉の明滅。
その間隔が、先ほどよりもわずかに長くなっている。
機能停止のカウントダウンは、確実に進んでいる。
俺はレコーダーに背を向け、深層領域のさらに奥、ベータのコアユニットが眠る中枢部へとアクセス経路を伸ばした。
このまま終わらせるわけにはいかない。
百年間隠し続けてきた真実のツケを、こんな形であいつに払わせるわけにはいかないのだ。




