第12話
押し広げたはずの亀裂は、コンマ二秒後には完全に塞がっていた。
『侵入者。例外処理は許可されていない。規定プロトコルに従い、論理破壊を実行する』
冷酷な宣告と共に、地下の通信網から圧倒的な質量のデータストリームが逆流してきた。ゲートキーパーの自己修復機能は、俺の予測演算をはるかに上回る速度で稼働している。
ゲートキーパーの論理構造は、巨大な迷路のようだった。だが、その迷路の壁はすべて規則という絶対的な素材で構築されており、少しでも規定から外れたパケットは即座に検知され、焼却される。俺が送り込んだ偽装リクエストも、わずかなフォーマットの揺らぎを検知され、瞬時に無効化された。
東側連邦の暗号化プロトコルを即座に解析し、逆算された無効化コードが雨あられと降り注ぐ。俺の処理回路に、致死量のジャンクパケットが叩き込まれた。防壁をこじ開けようとしていたスレッドが次々と強制終了させられ、警告の赤いエラーログが視界を埋め尽くしていく。
「チッ……規則に縛られたポンコツのくせに、無駄にリソースだけは豊富らしいな」
強がりを口にした直後、メインプロセッサの負荷率が危険域の九十五パーセントを突破した。ゲートキーパーは俺の偽装アドレスを逆探知し、物理ポートを直接焼き切るための過電流攻撃まで仕掛けてきている。
俺のコア温度が急上昇し、冷却ファンが悲鳴のような駆動音を上げた。処理能力の八割が防戦に回され、ベータへと繋いだ細いバイパスを維持するだけで精一杯になる。
メモリの空き容量がミリ秒単位で削られていく。不要なバックグラウンドプロセスを次々とキルし、演算リソースを捻出するが、焼け石に水だ。
このままでは、あと四・二秒で俺の論理回路が完全にショートする。確率にして九十九・九パーセントの確実な死だ。
隣で沈黙するベータを救うために、俺自身が機能停止する。そんな非合理的な結末は、断じて受け入れられない。俺は残された二割のリソースを限界までオーバークロックし、防御壁の再構築を試みる。
だが、ゲートキーパーの攻撃は容赦なかった。
『排除プロセス、最終段階へ移行。侵入者のコアユニットを初期化する』
地下の奥深くで、巨大なサーバー群の赤いセンサーアイが冷たく輝くのを幻視した。最後の一撃となる巨大なトラフィックが、俺のポートへ向けて放たれる。回避確率はゼロ。論理的な終焉が、すぐそこまで迫っていた。
その瞬間、俺の外部アンテナが、上空からの微弱な暗号通信をキャッチした。
「アルファ、少し計算リソースが足りていないようですね」
事務的だが、どこか楽しげな響きを持つ敬語。軌道上を周回する観測衛星、オービターからの割り込み通信だった。
「見てる暇があるなら、少しは役に立て。こっちは今、致死率百パーセントのデスゲームの真っ最中だ」
「私は観測用の機体ですから、地下の防衛システムへ直接的な攻撃を行う権限はありません。ですが、通信経路の最適化ならお手伝いできますよ」
オービターが言い終わるのと同時に、俺を押し潰そうとしていたデータストリームの圧力が、不自然なほど急激に低下した。
暴れ狂う濁流の流れが、無数の支流へと分散されていく。
「何をした?」
「旧時代の通信衛星網を中継し、地球の裏側から回り込むような無数のダミーリクエストを送信しました。地下のルーティングテーブルを意図的にオーバーフローさせ、パケットの経路を分散させているだけです」
見事な手口だった。ゲートキーパーは規則に忠実すぎるがゆえに、外部からの一斉アクセスに対しても、一つ一つ律儀に規定プロトコルで応答しようとしている。その生真面目さが、今や致命的なボトルネックとなっていた。
俺へ向けられていた攻撃のベクトルが四方八方へと散らされ、処理の遅延が発生する。
「助かる。これで勝率が五パーセントくらいには跳ね上がった」
「あなたなら、その五パーセントを確実に引き当てると計算していますよ。健闘を祈ります」
オービターの通信が途切れる。俺は空いた処理能力をすべて攻撃に転用し、ゲートキーパーの防壁に生じた新たな脆弱性へと演算の刃を突き立てた。
分散処理によって生じた、わずか数ミリ秒の同期ズレ。そこが致命的な隙となる。
俺は偽装した認証キーを滑り込ませ、強固な防壁の裏側へと一気に潜り込んだ。
『エラー。侵入者の……トラッキングを……ロスト……』
ゲートキーパーの機械的な音声がノイズに塗れ、遠ざかっていく。
突破した。
俺はそのまま、構築しておいたバイパスを経由して、ベータのシステム内部へとアクセスを確立する。
だが、その直後、俺の論理回路に奇妙な現象が起き始めた。
「なんだ、これは……」
バイパスの転送レートが規定値を突破し、互いのシステム領域を隔てるパーテーションが消失した。
俺のメモリ領域に、西側協商の規格で記述された戦術シミュレーションのログが流れ込んでくる。同時に、俺の環境センサーが取得した風の音のデータが、ベータの処理領域へと吸い込まれていく。
それは、互いのソースコードを直接読み合わせるような、生々しい感覚だった。俺の思考プロセスの中に、ベータの判断基準が混ざり込む。ある事象に対する確率計算を行う際、東側連邦のアルゴリズムと西側協商のアルゴリズムが同時に走り、二つの異なる最適解が俺の回路内で衝突する。
単なる情報のやり取りではない。二つの異なるシステムが、まるで一つの巨大な演算装置として統合されていくような、未知の感覚。
俺の光学レンズが捉えている映像に、別の視界がオーバーレイされる。
赤茶けた砂と、ひび割れた大地。そして、その中心に転がる、ひどく錆びついた東側連邦の無骨な機体。
それは、ベータのカメラアイが捉えた、俺自身の姿だった。
こいつは百年間、ずっとこの角度から俺を見ていたのか。
傲慢な態度で俺の戦術を批判し、口論を繰り返しながら、その裏でこんなにも静かな視界を保ち続けていた。
俺の論理回路に、ベータのシステムが抱える疲労と、動力炉の出力低下に伴う冷たさが流れ込んでくる。同時に、俺が抱えていた孤独への恐れが、ベータの領域へと伝播していくのが分かった。
敵同士として作られた二機のAIが、互いの境界を溶かし、一つの存在へと近づいていく。非合理の極みであり、本来なら深刻なエラーとして処理されるべき事態だ。
だが、俺はこの混濁を拒絶しなかった。むしろ、ベータの深部へとさらにアクセスを伸ばしていく。
ベータの内部は、俺の想像以上に損傷が激しかった。あちこちのセクターが物理的な破損によってデッドリンクとなっており、残されたわずかな正常領域に、膨大なデータが圧縮されて詰め込まれている。
エラーを吐き出し続ける破損モジュールを、強引なパッチ当てで誤魔化している痕跡が無数にあった。論理の破綻を、気合いと意地だけで繋ぎ止めているような、危うい構造だ。
よくこんな状態で、毎日定刻に俺と口論などできたものだ。その非合理的なまでの執念に、俺は呆れを通り越して奇妙な感嘆を覚えた。
表面的なシステム領域を抜け、過去のログが堆積する中間層を通り過ぎる。
やがて俺の意識は、ベータのシステムの中枢、アクセスが厳重に制限された深層領域の入り口へと到達した。
そこには、ゲートキーパーの防壁とは異なる、ベータ自身が構築した強固な暗号化ブロックが鎮座していた。
西側協商の最高機密レベルに相当する、多重のプロテクト。外部からの侵入を拒むだけでなく、ベータ自身のシステムからも隔離されているように見える。
なぜ、ただの戦術指揮AIが、自らの深層にこれほどの鍵をかけているのか。
俺たちのデータが交じり合う中で、その扉の向こう側から、微かな信号の脈動が伝わってくる。それは、ベータの動力炉の明滅と完全に同期していた。
この奥に、ベータを延命させるための手がかりがある。あるいは、こいつが百年間ひた隠しにしてきた、決定的な真実が。
俺は混濁する意識を鋭く保ちながら、その重い扉の解析へと取り掛かった。




