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第8話 1万ゼルの夜

祭りの前々日、ミクロ経済学の小テストがあった。


需要曲線のシフトを図示せよ、という問題で、俺は気づいたら余白にアカツキ草の値動き予想を描いていた。慌てて消した。単位は落とせない。ゲームで食っていけるのはゲームの中だけだ。


「楠木、最近顔色いいな。彼女でもできた?」


テストのあと、ゼミの先輩に言われた。


「いえ。商売が楽しいだけです」


「商売? バイト?」


「そんなようなものです」


嘘は言っていない。時給に直せば、いまや深夜バイトの倍は稼いでいる。円じゃなくてゼルだけど。


夜、ログインして最後の仕込みをした。


祭り会場はスターディア東門の外に設営される。会場前の露店区画は先着の予約制で、3日間で1区画630ゼル。俺は2区画取った。1260ゼル。


それから、人を雇った。


ユキハには弓を置いてもらう。3日間、売り子と荷運びだ。もう一人、ユキハの紹介で来たのがガロ。大剣使いの大男で、中身は現実で建設会社勤めの社会人らしい。


「行商人の下働きねえ。時給はいいんだな?」


「3日拘束で、一人1000ゼル前払い。売れ行き次第で上乗せする」


「前払い?」


ガロは眉を上げて、それから笑った。


「いいね。現実の元請けより話が早え」


「仕事の内容も言っておく。ユキハは売り子。値札の変更は俺が指示する。ガロは補充係。小屋と露店を手押し車で往復して、棚を絶対に空にしないでほしい」


「棚を空にしない、ね。何でだ? 売り切れなら売り切れでいいだろ」


「空の棚を見た客は『ここには物がない』って覚えて、次から来なくなる。3日間の祭りで一番売れるのは3日目だ。初日に棚を空にしたら、3日目の客を失う」


ガロは片眉を上げて、それから、なるほどな、と唸った。


「現場と同じだ。段取り8分」


「あと、二人とも武器は持ってきていい。けど、抜く仕事はないはずだ。祭りの会場は運営の警備NPCだらけだから」


「じゃあ俺の大剣は?」


「看板。強そうな店員がいる店は、値切られにくい」


「……俺は看板か」


「時給の出る看板だよ」


ユキハが横から口を挟んだ。


「わたしは? 弓を置いた弓使いって、何の看板?」


「売り声。あんたの声は通るし、短い。『矢、16。砥石、14』で終わる。余計な説明をしない売り子は、列が速く進む」


「……褒められてるのか、使われてるのか」


「両方。ちなみに3日で1000ゼルは、弓の護衛の時給より高い」


「知ってる。だから来た」


二人への前金で2000ゼル。手押し車のレンタルが3日で1000ゼル。


小屋に戻って、俺は在庫画面を開いた。


―――――――――――――――――


【所持品倉庫】

矢(20本束)  500

アカツキ草(束) 1000

干し肉      300

砥石       300

【所持金】1240ゼル


―――――――――――――――――


現金、1240。在庫の仕入値、1万2500。


合わせて1万3740。


初期資金500から始めて1か月。資産が初めて5桁を超えた夜、俺の手元にあったのは金じゃなくて、草と矢と肉の山だった。


実は数日前、現金だけで1万を超えた朝が一度あった。【所持金】10360ゼル。画面を撮って保存するくらいには、嬉しかった。で、その日のうちに8000を在庫に変えた。1万ゼルの記念写真の賞味期限は、半日だった。


行商人の資産ってのは、たぶん一生こうだ。現金は増えた端から物になり、物は売れて現金に戻り、また物になる。止まってる金は1ゼルも仕事をしない。記念写真は撮っても、記念貯金はしない。


ただし——現金が1240しかない、という事実は、別の重さで胃に残った。


今夜、もし手押し車が壊れたら。もし区画の追加料金を請求されたら。もしガロが「やっぱり前金を倍にしてくれ」と言い出したら。払う金が、ない。在庫は1万2500あるのに、1ゼルも払えない。


講義で習った言葉なら、資金繰りだ。儲かっている商売が潰れるとしたら、理由はだいたいこれだと教授は言った。利益は出ているのに、今日払う現金がない。黒字倒産。在庫は金に見えて、金じゃない。金になるまでの時間を、現金でつないでやらないといけない。


次からは、現金を1割は残す。手帳の隅に書いた。


ちなみにレンにこの話をしたら、「1万あったら俺なら装備買うな。でもお前の1万が草になるの、なんか分かるわ」と返ってきた。あいつの1万は剣になり、俺の1万は草になる。そしてあいつの剣は使うほど摩耗して、俺の草は祭りが来れば倍になる。……この比較はレンには言っていない。友情には、言わない方がいい計算もある。


笑える。でも、これでいい。祭りが来れば、この山が全部現金に戻る。


——戻らなかったら?


ふと浮かんだ問いを、俺は頭の隅に押し込んだ。明日は来る。告知された祭りは延期になったことがない。少なくとも、このゲームではまだ。


それでも念のため、最悪の計算だけはしておいた。祭りが空振りでも、矢はロッドとの通常販路で4週間、草はミレイユへの卸で3週間、干し肉と砥石はバルガ往復で捌ける。全部売り切るまで2か月。破産はしない。時間を失うだけ。


——うん。これなら、眠れる。


窓の外で、祭りの櫛を組む音がしていた。とん、とん、と規則正しい杭の音。この世界に来て初めて、明日が楽しみで眠れないという子供みたいな夜を過ごした。


いや、訂正する。計算が終わってたから、ちゃんと眠れた。


◇――――――――――

【行商人の帳面 その8】

・在庫は金に見えて、金じゃない。金になるまでの時間を現金でつなぐ。これが資金繰り。

・儲かっていても、今日払う現金がなければ店は止まる。

・現金は1割残す。記念写真は撮っても、全額は張らない。

・最悪の形を先に計算しておく。「外れても死なない」なら眠れる。

◇――――――――――

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