第74話 一年の帳面
開店まで、あと数日。今夜は、一年分の帳面を通しで締めると決めていた。締めるのは、思い出のためじゃない。明日から新しい帳面を使うので、その1頁目に持ち越す数字を確かめておく。
新しい店の帳場に、古い帳面を全部積んだ。一番下の1冊は、表紙が反り返っている。歩きながら書いた帳面は、みんなこういう形になる。
最初の頁を開いた。
所持金、500ゼル。使ったのは、ゼロ。
初日の俺は、値札だけ見て回って、1ゼルも使わずに寝た。角ウサギを狩れば100ゼルにはなった夜だ。あの100ゼルを捨てて値札を見た日から、この帳面は始まっている。
頁をめくる。最初の商いの粗利が860。塩40袋を担いで、リーデンまで4時間半歩いた日の数字だ。
1週間の締めが4200。塩の往きと砥石の帰り荷を組み合わせて、空で歩く道をなくした週。
大狩猟祭の露店の売上が、3日で3万5300。道具屋の棚が全滅した3日間の数字だ。
硫黄石の週の締めが、11万2000。長雨で山越えの道が止まると読んで、先に硫黄石を買い集めておいた週だ。この頁には、読みで取った分が6万、運で転がり込んだ分が5万2000、と2行に分けて書いてある。勝ちの中身を腕と運に分けて数える癖は、ここで覚えた。
夏の頁には、運営の大商隊が、うちの定期便の道をそのまま走った日の記録がある。歩いて作った道が、公式の経路になった夏だ。
秋の頁で、手が止まる。
80万、と書いた字が乱れている。一等地の入札に出して、124万の札に負けた日の、俺の札の額だ。手元の現金69万6720に、その日までに売り切れる物を足せるだけ足して、80万。あの秋に俺が用意できた金は、そこまでだった。台を降りた足のまま書いた字は、いま読んでも斜めに寄っている。
その隣の頁が、塩1万5000袋。全財産を塩に換えて、板中に笑われた秋の仕込みだ。
蒼晶の頁もある。初値900の祭りを見送って、剥がれたあとの260で150個。初値は祭りの値段、と書いた字は、われながら落ち着いている。
冬の締めが128万。春に二等地の店を54万で売って、現金を144万まで積んだ。一等地には142万の札を書き、開札の日にその場で全額を納めて、手元に残った現金が2万。あの薄さは二度とやりたくない。
最後の頁に、今夜の数字を書く。
現金8万、開店支度の棚8万、帳場と相場表と蔵の造作8万、一等地の権利142万。締めて、166万。
物価は実装前の1.15倍で止まって、週ごとに多少の変動はしつつも安定を見せつつある。ただし塩は12で、実装前の8から見ればまだ1.5倍ある。蒼海の海域が開いてから、船に積む干し飯と燻製の仕込みが増えた。どちらも塩を使う。だから塩だけは、ほかの品より高いところで止まっている。
166万を1.15で割り戻して、144万。
最初の目標は、100万だった。膨れた数字の100万じゃない。500ゼルの俺が坂の上で書いた、あの頃の値段のままの100万だ。春さきに、割り戻してちょうど100万に届いた夜があった。今夜は、144万。
本物の100万を、大きく超えた。
数字の後ろの名前も数えた。
コウ、ユキハ、テツジン、ガロ、ロダ、ミレイユ、ムギとその後輩。雑貨卸のバルド、島の5人。相場表を毎朝写していく客、朝の銅貨の客、預かりの荷の持ち主たち。帳面に載らない縁まで足せば、数え切れない。数え切れない、と書ける日が来るとは、初日の俺は思っていなかった。
レベルは、いまだに8だ。移動と荷運びだけで上がった分で、結局この一年、剣は一度も振らなかった。
帳面を締めていると、戸口からムギが顔を出した。明日の相場表の下書きを届けに来たらしい。積んだ古い帳面の山を見て、目が少しだけ輝いた。
「全部、数え直したんですか」
「締めの検算だ。……好きだろ、こういうの」
「好きです。数えるのは」
「一番下のやつ、見てみるか」
ムギは一番下の1冊を両手で開いて、しばらく黙っていた。開いていたのは、所持金500ゼルと書いた最初の頁だ。
「……これ、初日の全部ですか」
「全部だ。使わずに寝た」
「わたしが初めて相場表を写した日の財布より、ちょっと多いくらいです」
ムギは、初めて相場表を写した日の財布の中身まで覚えているらしい。いくらだったかは、聞かなかった。
ムギは下書きを置いて、几帳面に頭を下げて帰っていった。
帳面の山を紐で括っていると、ユキハからメッセージが届いた。『締めの検算、終わった?』
『終わった』と返すと、一言だけ戻ってきた。
『この一年、面白かった。続きも見せて』
ユキハは、去年の春の狼の森から、火曜と金曜の便の御者台の隣にずっといた。俺の読みが外れた日も当たった日も、同じ顔で矢筒を背負っていた。金の話をしたのは、護衛料を決めた一度きりだ。それでも、一番前の席でこの一年を見ていてくれた。きっと今も、俺が考えていることを何となく察してはいるのだろう。この人と組めたことは、一番値の付けられない財産だと思う。
帳面の山を紐で括り終えて、新しい帳面の1頁目に、明日からの分の見出しを書いた。
資産166万。割り戻して144万。物価1.15、今週も静止。
値札板。塩12、串焼き2本で10、宿代60。
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【行商人の帳面 その74】
・500ゼルは166万になった。同じ一年で、金より増えたのは、守り合った約束の数のほうだ。
・【資産】166万。割り戻して144万。物価1.15で静止。
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