第68話 大きい山と、小さな山
冬に読んだ底は、実装前の1.15倍。運営は新規が戻れる値段まで物価を下げたいだけで、そこまで下がれば下げを止める——そう読んで、札の142万まで決めた。
10日ごとの倍率は、1.26、1.24、1.20、1.18、そして今朝1.17。下げ幅は回ごとに縮んでいて、行き着く先は1.15の少し手前に見える。まだ止まってはいないから、今日は当たりを言い切る日ではなく、止まる兆しが出ているかを確かめる日だ。
当たりの検証は、外れの検証より念入りにやると決めている。当たりは気分がいいから、検算が甘くなる。
まず、世界全体の数字から。
冬に読んだ運営の目的は、こうだった。新規が装備一式と飯を買えるところまで、物価を戻す。だから底に着いたかどうかは、新規の持ち金で測るのが一番早い。
新規が最初に持たされる金は、500ゼルだ。この額は実装でも告知でも一度も動いていない。物価がどれだけ膨れても、500は500のままだった。だから、この500を物差しに使う。
この500の使い道で、そのあとの動き方は大きく変わる。装備を整える奴もいれば、これを元手に商売を始める奴もいる。ただ、大体のプレイヤーはその500で、槍と胸当てと靴の一式を買う。一番高かった頃は670で、500では届かなかった。刃物と革には転売の上乗せが一番厚く乗っていて、上乗せが剥がれた分だけ、物価の倍率の下がりより深く戻る。今朝は470だ。
500と470を並べる。一式が買えて、30残る。パンは1個3ゼルだから、10個買える。最初の狩りに出るまでの飯代としては足りる。
運営が戻したかった水準に、値札がそのまま収まった形だ。底が近いかどうかは、この2つの数字が並べば分かる。
次は、うちの店の数字だ。朝の客の数を見る。
うちの売上帳には、朝に来た客の名前を書いている。この読みの始まりは春先、その名前の中から新しい客が消えていくのに気づいた夜だった。新しい客が続かない——そこから、運営がなぜ値段を下げに来るのかを考え始めた。
だから、止まる兆しも同じ売上帳で見る。今週、朝の客に初めての名前が4つ増えた。春から減る一方だった朝の客が増えに転じて、これで3週続いている。3週で合わせて11人。減っていた頃は1週でそれより多く減っていたから、数としてはまだ小さい。それでも、減りから増えに向きが変わったのは、この3週が初めてだ。
帳面を閉じて、ログアウトした。
次の日の昼。大学の学食で、レンが定食を持って向かいに座った。
「ゼミの教授がさ、廊下で捕まえてきて言うんだよ。今のアスフロはいい教材だって。金の量を絞って物価を安定させるのは、現実の中央銀行でも難しいやつだって」
「難しいだろうな。絞りすぎれば冷えすぎるし、緩めれば元に戻る。要素の少ないゲームの中でも、簡単じゃない」
「その割に、アスフロの運営はうまく管理してる、って話だった。……なあ、お前、着地点いくつって読んでたんだっけ」
「1.15と少し」
「今いくつ」
「1.17。前の回は1.20から1.18、今回は1.18から1.17。下げ幅は縮んでる」
レンは箸を置いて、しばらく俺の顔を見た。
「唐揚げ、もう1個やるよ。なんか怖い顔してるから」
「もらっておく」
「それとさ、教授が言うんだよ。この着地を読み切った市場参加者がいたら、会ってみたいって」
「ゼミで手を挙げるなよ」
「挙げねえよ。……ただ、ひとつだけ言わせろ。最初にインフレだって言ったのは、俺だからな」
「覚えてる。去年の秋、この席でだ。あのときの唐揚げが、読みの元手だった」
「なら教授には、唐揚げの分だけ俺の手柄って言っといてくれ」
「言わない。挙手もしない」
ログインすると、相場表の前には人だかりが戻っていた。値上がりの頃に読み方を覚えた客たちが、下がる今も同じ板で数字を確かめていく。コウが割り戻しの欄の倍率を1.17に書き換えると、誰かが小さく、止まってきたな、と言った。
コウが朝の30分だけ数えてみたら、相場表の前に立った客は22人だった。値上がりの頃の一番多かった日と、ほとんど同じ数だ。
夕方、ムギが小さいのを1人連れてきた。始めて10日だという薬草採りの子で、ムギの後ろに隠れるように立っている。ムギは台の前で、銅貨の山の積み方から教え始めた。大きいのが下、細かいのが上。
「朝に買って、朝に売ります。朝のほうが、間違いがないので」
自分が相場表の下で覚えた技術を、そっくりそのまま渡している。教わる側だった子が、教える側に回った。
「教えるのは、初めてなので」とムギは言った。「間違っていたら、直してください」
「間違ってない。全部合ってる」
いい先輩になると思う。銅貨の山が、台の上に2つ並んだ。大きいのと、小さいの。
夜、帳面に途中の検算の行を書いた。
運営は、蒼海で世界の金を増やし、拠点と船で減らした。膨れた古参の財布から金を抜いて、新規が装備を買える値段まで物価を戻した。5万人の客を抱えた商売として、正しい仕事だと思う。
俺は、その調整の通り道で、うちの取引網の中と、窓口に来た分の外を守った。約束に挟まれる者を減らし、預かりで割引料を半分にし、相場表で読み方を配った。
やったことは違う。だが、見ていたものは同じだ。新規が戻れるかどうか。朝の客が増えるかどうか。
運営は世界を守った。俺は客を守った。見ていた帳面は、同じだ。
その一行を書いてから、少しの間、ペンが止まった。同じ帳面を見ていた相手と、いつか机を挟む日が来る気がする。根拠はまだ数字にならない。ならないから、今夜は書かない。
代わりに、窓口と相場表の集計を書いた。変動契約の写しを持っていった者、41人。預かりは13件、うち4件は捌き終わり。朝の客の増え、3週で11人。集計の行は素っ気ないが、この行の一つずつに、削られずに済んだ客がいる。
値札板。塩13、串焼き2本で10、宿代62。
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【行商人の帳面 その68】
・読みの検証は、世界全体の数字と、うちの店の数字の両方でやる。動かない数字は物差しになる——初期資金500と装備一式470を並べれば、底に近づいたかどうかが出る。
・底の見立ては1.15。物価の倍率は1.17で足踏みし、朝の客は3週続けて増えた。設計の目標から逆算した底は、当たりつつある。止まった、と書けるのは止まってからだ。
・運営は世界を守った。俺は客を守った。見ていた帳面は、同じだ。
・【資産】現金11万、棚8万、一等地の権利142万。合わせて161万。
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