第66話 変動契約は下りも守る
10日ごとの見直しの朝、物価の倍率は1.24になった。
今日は、値下げの報せを自分の足で配って回る日だ。冬に式で結んだ相手のところへ、俺が紙を持っていく。回る順番も決めてある。一番大きい約束の相手からだ。
配る紙を綴じながら、コウが言った。
「一つ、いいですか。この約束、うちの中では式と呼んできましたが、外の人には通じません。何の式か、必ず聞き返されます」
「呼び方を変えるか」
「値段が相場で変わる契約、です。相場変動契約、と呼びませんか。長ければ、変動契約でも通じます。今日配る紙の頭にも、そう書けます」
「相場変動契約」
口に出してみた。掛け算の紙、と言うより、客に渡せる名前だ。
「いい。今日から、うちではそう呼ぶ。短く言うときは、変動契約だ」
コウは紙の頭に、相場変動契約、と一行書き足した。
鉄の納め値が変わる。基準の25に倍率を掛けて31、利幅5を乗せて36。一番高かった週は38だった。うちからテツジンへの納めが、2ゼル下がる。
上げの半年、この約束は毎回うちの受け取りを増やす向きに働いた。増える報せなら、使いに持たせてもいい。減る報せを自分で持って回るのは、今日が初めてだ。
バルガの炉の前で、紙を渡した。
「今週から、鉄の納めは36だ」
テツジンは紙を一瞥して、頭の一行で目を止めた。
「相場変動契約。……式のことか」
「式だ。外に出すのに、コウが名前を付けた。短く言うなら変動契約」
「勝手にしろ。中身が同じならな」
それから、炉に目を戻した。
「約束の通りか」
「約束の通りだ。……冬に判を押した日のことを覚えてるか。物価が上がれば納め値も上がる。下がれば、同じだけ下がる——そう書いて結んだ約束だ。上がる側は半年働いた。下がる側が働くのは、今日が初めてになる」
「上がるときだけの約束なら、とっくに破り捨ててる」テツジンは短く言った。「両側に働くから、判を押した。それだけの話だ」
それから、もう1枚渡した。春の前倒しの精算書だ。
「あのとき2週早く入れた分、今日の値で計算し直した。あの週の値が38で、いまが36。差が1本2で、4800本ぶんで9600。返す」
テツジンは紙を長いこと見て、それから初めて手を止めた。
「……言った通りにやるんだな」
「言った通りにやらない約束なら、紙のままだ」
9600は、こっちの帳面から出ていく金だ。出ていくのを承知で春にあの約束をした。あのとき言わずに前倒しだけしていれば、この9600は俺の懐に残っていた。残っていたら、たぶん今日この炉には来にくかった。
炉の脇では、弟子が新しい鋼の棒を数えていた。連盟の仕入れの帳面も、今週から数字が軽くなる。変動契約は納めの側だけじゃなく、炉の買い物の側でも、同じ向きに働いている。
テツジンは、火の加減を見ながら続けた。
「一つ聞くがな。この下げで、あんたの仕入れの側はどうなってる。受け取りが減って、あんただけ痩せる形なら、呑み直しを言え。潰れる納め屋を、俺はもう見たくねえ」
「心配は要らない。うちは仕入れも売りも、同じ相場表の変動契約で動く。両側が一緒に下がるなら、間に立つ利幅は痩せない」
「……口で言うほど簡単なら、潰れる店は出ねえだろう」
「難しいのは変動契約じゃない。両側を動かせる体のほうだ。仕入れを在庫で抱える店も、日当を額で約束した請負も、片側がその日の値で凍る。うちは棚が薄くて、品が数日で通り抜けるから凍らない。……それを調整できるのは、商人だけだ」
「……なら、いい」
下げの朝に、納め屋の心配をする買い手。この炉との付き合いは、うちの帳面のどの行より太い。
ミレイユの工房でも、薬草と瓶の仕入れ値が下がっている。
紙を渡すと、ミレイユは頭の一行を指で叩いた。
「相場変動契約。名前が付いたのね」
「コウが付けた。短く言うなら変動契約だ」
「式よりは、客に言えるわね。調合の卸値、約束の通りに下げるわ。仕入れの薬草も下がってるから、うちの利幅は変わらない」
「ムギたちの買い取りの値も下がるぞ。それでも回るか」
「回る。あの子たちの買値も売値も、同じ相場表の値で動くもの。片側だけ止まっている約束が1本もないなら、痩せる場所がないの」
ミレイユは変動契約の写しを棚に貼り直して、付け足した。
「この変動契約、書いた人の腕は褒めない。でも、下がる朝に自分から値下げを持って回る運用は、技術ね。そこだけ褒める」
「一度やっただけなら、あんたは偶然と呼ぶんだろう」
「呼ぶわ。二度、三度と続けて、初めて技術と呼ぶ。今日が一度目よ」
その足で、残りの4軒を回った。宿の飯屋へ干した飯を納める値が22から21、射場への矢が1本4から3ゼル半、荷縄が束9から8ゼル半。どこでも紙を渡して、掛け算の中身をその場で見せて、判をもらった。
下げの報せで揉めた先は、1軒もなかった。冬に判を押すとき、下がる日の話を先にしてあるからだ。上がっている最中に下がる話をするのは、売りにくい。売りにくい話を先にした分が、今日そのまま返ってきている。
午後、発着場に荷主が2人来た。冬に変動契約を呑まず、据え置きを選んだ側の顔ぶれ——3か月の据え置きを、二度更新して引っ張った組だ。
「うちも、式のほうに替えてくれ」
「いいですよ。今日から名前が変わって、変動契約と言います。今日の相場から、結び直しましょう」
上げの季節、据え置きは荷主の得だった。下げに入った途端、据え置きの運賃は割高に変わる。それを見て、乗り換えに来る。冬、変動契約と据え置きを並べて選んでもらった。その選び直しが、今日来ている。
「あの、怒らないんですか。上がる間は据え置きで得をして、下がり始めた途端に乗り換えるんですよ」
「怒る理由がない。選べる形に作ってあるものを、選んだだけでしょう」
「据え置きのままの残り3件は、どうします」とコウ。
「文で報せておけ。替えたければ、いつでも今日の相場から、と。こっちから急かしはしない。選ぶのは向こうだ」
2件の結び直しで、便の帳面から据え置きの行がまた減った。残るのは、あとの3件だけになった。
帳場に戻って、コウに決めたことを言った。
「変動契約を、公開する。相場表の横に板を掛けて、写しは誰でも持っていけるようにする。発着場にも同じ物を出す」
コウの手が止まった。
「……うちの強みが、消えます。あの結び方は、この網が半年かけて育てた財産です」
「先週の一覧を思い出せ。削られてる連中の半分は、変動契約を知っていれば挟まれずに済んだ。仕組みを隠して稼ぐ商いは、隠しが破れた日に終わる。それに」
「それに?」
「強みは紙じゃない。先に呑んだ信用だ。紙は真似できても、半年分の判は真似できない」
コウはしばらく黙って、それから手帳に線を引いた。強み、の字を消して、信用、と書き直したのが見えた。
翌朝、相場表の横に新しい板が掛かった。【相場変動契約】。基準の値に、今月の物価の倍率を掛けて、利幅を足す。それだけの、誰でも写せる1行だ。
昼までに、写しを持っていったのは9人。そのうち3人は、先週の一覧に載せた顔だった。夕方には、板の隅に書き起こしが出ているのをコウが見つけてきた。書いた奴は、うちの名前を出していない。それでいい。変動契約に、作った者の名前は要らない。
夜、帳面に変動契約の行を締めた。この半年、守った納めは一度も切れず、結んだ相手は一人も欠けなかった。
うちの行も、正直に書いておく。便と店の実入りも、約束の通りに痩せて1万5000台だ。減った分は、預かりの口銭で埋める算段でいる。
次の見直しは10日後。そのときも、同じ順番で、同じ足で回る。
値札板。塩14、串焼き2本で11、宿代66。
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【行商人の帳面 その66】
・下がれば、同じだけ下がる。変動契約は両側に働いて、初めて信用になる。片側だけなら、ただの値上げの口実。
・鉄の納めは38から36へ。値下げの報せは、使いに持たせず、自分の足で持っていく。
・変動契約は公開した。仕組みは真似できても、先に呑んだ信用は真似できない。
・【資産】現金6万、棚8万、一等地の権利142万。合わせて156万。
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