第65話 デフレの顔色は人によりけり
10日に一度、物価の倍率を出し直している。実装前の値段を1として、いまが何倍か。その見直しの朝だ。
コウが数字を持ってきた。1.30が1.26。リーデンの塩は、袋16だったのが14になった。
今日やることは決めてある。この下げで誰が削られるかを、名前と品物と金額まで落として数えて回る。数え終えたら、そのうちの誰に何ができるかを決める。頼まれてから慌てないためだ。
「読みが当たって、買い物も済んで、あとは座って眺めるだけかと思っていました」
「逆だ。ここからが商いの本番だよ。相場が上がった時は、うちは仕込みで稼いだ。下がる時は、始末で稼ぐ」
冬の帳面に、インフレは全員に同じ顔をしない、と書いた。金貨で払う客は値札を見ず、銅貨で払う客は値札を2回見る——あの行の続きを、今日書く番だ。デフレも、全員に同じ顔をしない。
コウが帳面の新しい頁に、見出しを書いた。下げで削られる立場、と。
昼、競売所の前で、塩の山を抱えた男を見た。
冬の終わり、一番高かった16の値で、蔵ひとつ分の袋を買い込んだ口だ。値札が14になったいま、山をまとめて投げれば、自分の売りで値を壊す。
買い取り屋の言い値は10。明日いくらになるか読めない分を、買う側が先に引いた値だ。16で買って10で売れば、袋1つにつき6の損になる。男はそれが数えられるから、青い顔で競売所の値札とにらめっこをしている。
声はかけなかった。今日は数える日で、助ける日じゃない。手元に渡せる段取りが、まだ1つもない。
競売所の裏では、革の工房の主人が、束ねた革を前に頭を抱えていた。上がり切った頃に1年分を買った口で、束75で180束。今朝の競売所の値は62だ。束あたり13の目減りで、180束なら2340。使い切るのは秋だから、目減りはまだ増える。
屋台の通りでは、串焼きの親方が樽を数えていた。冬の値で仕込んだ漬け込みが、3か月分。春は倍になる、という噂を呑んだ口だ。
「聞いた噂を真に受けてよ、樽を仕込んじまった。売値のほうが先に下がっていきやがる」
仕入れは高い値で払い済み、売値はこれから毎週下がる。3か月分の樽を、下がり続ける売値で捌くことになる。
発着場では、ガロが向かいの貼り紙を顎で指した。蒼海の港湾組の、日当400の募集札だ。
「人手が余り始めてるらしい。運賃が下がってるのに、日当は募集札の額のまんまだ」
貼り紙の400は、書いた日から一度も動いていない。
「運賃が下がっても、約束した400は下がらない。あの請負は、じきに人を減らすぞ」
「……大将、うちは大丈夫なんだろうな」
「うちの日当は、運賃と同じ式で動く。運賃が下がった分だけ、日当も正直に下がる。そのかわり、下げを理由に人は減らさない。日当が動くから、人を切らずに済む。400を動かせない向かいは、人の数のほうを減らすしかない」
「……塩の袋は」
「続ける。値札がどっちへ動いても、塩1袋は塩1袋だ」
「なら、いい」
夕方、相場表の前で、昼間の買い取り屋を見かけた。塩の男に10の言い値を出した男だ。
悪党の顔ではなかった。買う側も、明日いくらになるか読めないから、安い値しか言えない。売る側は急いでいるから、その値を呑む。
一方で、夕方の店には、息をつく側もいた。
ムギが銅貨の塔を積みながら、真顔で言った。
「パンが、下がりました。あしたから、数える銅貨がひとつ減るので、朝が少し楽です」
下がり幅は半ゼル。塔のてっぺんの半ゼル銅貨が、今日は1枚だけ載っていた。
「下がって、困ることはあるか」
「薬草の売り値も、下がります。でも、買うものも下がるので……差し引きは、帳面をつけてから答えます」
即答しないで、帳面と言った。相場表の下で育った答えだと思う。
帳場に戻って、コウと一覧を仕上げた。大きく3つ、細かく割って7つの行になった。
上がり切った値で実物に換えた側が3行——塩の男、革の工房、高値で袋と樽を買い漁った転売の連中。高い値で仕入れを払い済みの生産職と屋台で2行。高い日当を約束して人を抱えた請負で2行。
「うちの取引網の中は、無事です」とコウ。「式は下がる側にも働きますから。……外は、そうはいきません」
「だから、外向けの支度をする」
「手元、4万です。買い取りで助ける金は、ありません」
「買い取らない。金を使わない形を作る」
俺は帳面に、道具を3つ書いた。預かり。式。相場表。金の要らない道具ばかりだ。500ゼルで始めた頃は、金を使わない手しか打てなかった。あの頃の手を、もう一度並べているだけだ。
「1つだけ、確かめさせてください」コウがペンを止めた。「うちが助ける義理は、どこから出てくるんですか。網の外の人たちです」
「義理じゃない。勘定だ。下げの底で市場が細れば、うちの便も棚も細る。市場の客を守るのは、回り回ってうちの棚を守ることだ。それに——助け賃は、ちゃんともらう」
「……理屈は通っています。でも、それ、口実ですね。利益はきちんと取りながら、あなたはいつも、人を助けたがる」
「勘定の話をしただけだ」
「はい。帳面には、勘定と書いておきます」
番頭に、帳面の外まで読まれるようになった。削られる立場の一覧の隣に、コウは新しい見出しを書いた。助かる段取り、と。
夜、帳場で一覧を広げて、自分の手の届く範囲で、救えるものと救えないものを整理した。
うちの道具は、預かりと、式と、相場表。どれも、これからの商いにしか効かない。だから、これから売る在庫を抱えて困っている人は救える。競売所の前で青い顔をしていた、あの塩の男がそうだ。
救えないのは、もう終わってしまった側だ。もう払ってしまった高い仕入れと、もう結んでしまった高い日当の約束。過去に払った金を、商人の道具は戻せない。
救えると決めた分のために、貼り紙を1枚書いた。【売り急ぎのご相談、承ります。買い取りはしません。預かって、売ります】。
救えない分は、忘れないように帳面へ書き残した。あれを救えるとしたら、この下げを設計した本人——夏に一度だけ会った、あのS.K.だけだ。いつか机を挟んで、この話をしたい。
値札板。塩14、串焼き2本で11、宿代67。
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【行商人の帳面 その65】
・デフレも全員に同じ顔をしない。削られるのは、高い値で買った在庫と、高い値で払い済みの仕入れと、下がらない約束。
・銅貨で暮らす客には追い風、金貨の山には向かい風。向きが変わっただけで、仕組みは同じ。
・手元4万。金を使う救済はできない。だから、預かりと式と相場表——金の要らない道具で図面を引く。
・【資産】現金4万、棚8万、一等地の権利142万。合わせて154万。
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