第60話 二等地の値段
今日は、うちの店を売りに行く。二等地の北の角の店舗権だ。
売り先は最初から一人に決めてある。東街道商会のカイエン。帳場は二等地の中央にある。
約束の昼に訪ねると、茶が二つ用意してあった。
「珍しいな、あんたから商談を持ち込むとは。で、何を売る気だ」
「うちの店だ。二等地の北の角。あんたに54万で売る」
茶を口に運びかけた手が、止まった。この男の癖は知っている。驚いたときほど、ゆっくり動く。
「……立ち話で答える額じゃないな。座ってくれ。茶が冷める前に、その額の根拠を聞かせてもらおうか」
先に、うちの帳面の側の話をしておく。
冬、コウに言った。一等地が取れたらこの店を売る。先に売る博打はしない、と。あの順番は、上がる世界の順番だ。上がる世界では待つのはただで、売り急ぎだけが損だった。
いまは、読みが逆を向いている。物の値段が下がるなら、店舗権の値段も一緒に下がる。高いうちに売るのが読みで、抱えて待つのが博打だ。
それに、落札の払いは開札の当日の即金と決まっている。取れたら売る、では、売った金が札に間に合わない。だから、売るのが先で、札を書くのがあとになる。
「値段の根拠を聞こうか。相場は知ってるぞ。この冬、隣の二等地が動いた値もな」
「47万だろう。うちの角は角地で、間口が半歩広い。それでも49万が相場だ。そこまでが、どの買い手にも同じに付ける値段だ」
「なら、上に乗ってる分は何の値段だ」
「あんたにだけ付く値段だ」
俺は市場の見取り図を帳場に広げた。
「東街道の荷は、北の門から入る。あんたの店はここ、中央。荷受けは今、通りの向こうの借り倉庫だ。うちの角を持てば、荷受けと店が一本の通りでつながる」
「つながると、いくら浮く」
「運び直しの人手と荷置きの借り賃で、年に3万。あんたの帳面を外から数えただけで、それだけ出る。年3万に、7年分を掛けて21万。つながった間口の値打ちは、そこまでだ」
「それを、まるごと乗せる気か」
「乗せない。二つに割る。つなげるための普請と人手を出すのは、あんただからだ。まず折半で10万5000。そこからもう一度割る。年3万は俺が外から数えた見込みで、外れる目もある。外れたときにかぶるのも、あんただ。だから見込み違いの分を引いて、5万。49万に5万乗せて、54万。残る16万は、あんたの帳面に残る」
カイエンは見取り図を長いこと見た。それから、笑い出した。
「……値切る場所がねえ。上乗せの根拠が、全部うちの帳面の中にある」
「中央と北を一枚にできる買い手は、市場であんただけだ。同じ物でも、つなげられる買い手にだけ、値打ちが上乗せされる。だから売り先は、最初からあんたに決めていた」
「一つだけ探らせろ。なぜ今売る。春の入札の支度なら、勝つ前に店を手放す博打になるぞ」
「秋、あんたが教えてくれたろう。入札台の上では、在庫は無いのと同じ。物を言うのは現金だけだ」
「……うちの恥の教訓を、そのまま使い回すか」
カイエンは苦い顔で笑った。秋の入札の前、この男はうちの帳場で言ったのだ。在庫の山ごと入札台に上がって恥をかいた側だからな、同じ恥は見たくない、と。
「負けたらどうする。店なしの行商人に逆戻りだぞ」
「負けたら、現金138万を持って立っているだけだ。傷はない。店は、また買えばいい」
「強気なこった。……よし、買った。言い値で払う。即金だ」
「引き渡しは、開札のあと6週にしてくれ。勝てば新しい店の普請に、負ければ次の店を探すのに、それだけかかる」
「ずいぶん先だな。……まあいい。うちも図面と職人の手配で、どうせそのくらいは食う」
相場表の扱いも、この場で決め切った。引き渡しの日まではうちが書き続ける。引き渡しのあとは、カイエンの側でうちの相場表の写しを掛ける。相場表を止めれば、毎朝写しに来る客の足が、その日で止まるからだ。
帰り際、カイエンは戸口まで送ってきた。
「開札は見に行くぞ。秋は、あんたの負けっぷりを見た。今度は違うものを見せてもらえるんだろうな」
「札を見れば分かる。うちの札は、いつも帳面の写しだ」
「……相変わらず可愛げのない売り手だ。商売は、しやすいがな」
店に戻って、ムギには相場表の話を先にした。
「店は売った。相場表は引き渡しの日まで、このままだ。書き役の仕事も変わらない」
「……売っても、表は残るんですね」
「引き渡したあとは、カイエンの側で写しを掛ける約束にした。うちの相場表は、そのまま新しい店へ持っていく。掛け直す日が来たら、腕を貸してくれ」
「はい。新しい店でも、朝いちばんは、わたしが書きます」
それから、コウに首尾を話した。番頭は帳面より先に、店の相場表を見た。
「……売れたんですね、この店」
「売れた。寂しいか」
「半分は。もう半分は、検算の欄がひとつ消えて助かります。負けたら店なし、の欄です」
「消していいのか」
「消せます。読みが当たって値が下がるなら、現金で持っているのが一番強い。外れて上がり続けるなら、便と店の実入りも一緒に増えるので、店はまた買い直せます。どちらに転んでも、うちが立ち行かなくなる目はありません」
「番頭がそう言うなら、この売りは博打じゃない。決まりだ」
「代わりに、ひとつ言わせてください。開札までの間、うちの手元は現金だらけです。持ち運びと預け先の段取り、検算とは別に組ませてください」
「頼む。大金の週は、番頭の目がひとつ多いほうがいい」
夜、54万を帳面に入れた。書き物と引き継ぎの3日分の実入り5000を足して、現金138万。手元にこれだけの現金を置くのは、この世界に来て初めてだ。
置き場所は、明日からコウが組む。使う日は、開札の朝と決まっている。
値札板。塩16、串焼き2本で13、宿代73。
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【行商人の帳面 その60】
・売り時と売り先はセットで決める。同じ物でも、つなげられる買い手にだけ値打ちが上乗せされる。
・誰に売っても49万、カイエンにだけ54万。上乗せの根拠は、こっちの願いじゃなく、相手の帳面の中に置く。
・上がる世界の順番と、下がる読みの順番は逆になる。高いうちに売るのが読み、抱えて待つのが博打。
・【資産】現金138万、棚8万。合計146万。受付まで2週。
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