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第56話 運営の帳面

現実の水曜。大学へ行く電車の中で、ゆうべ書いた数の行を眺めていた。朝の客60が42。定着は10人に4人が10人に1人。名簿の出入りは差し引きゼロ。


今日決めることは一つだ。この向きが、うちの店だけの話なのか、世界ぜんぶの話なのか。


午後は、金融論のゼミだった。


教授が黒板に書いた問いは一つ。中央銀行は、なぜ景気のいい最中に金融を引き締めるのか。


学生の答えは割れた。物価の安定のため。過熱を防ぐため。教授はどれにも頷いて、どれにも満足しなかった。


「では、なぜ物価の安定が要るのですか。上がって困るのは誰で、困ると、何が起きますか」


沈黙のあいだに、俺は自分の店で置き換えていた。上がって困るのは、朝の銅貨の客だ。困ると、二度目が来ない。二度目が来なければ、名簿が痩せる。


教授は自分で答えた。放置すれば、通貨の信認が死ぬからだと。金が信じられなくなった国では、誰も明日の約束をしなくなる。約束の無くなった市場は、静かに止まる。


それから、黒板の隅に古い国の名をいくつか書き足した。金を刷りすぎて、値札が紙切れになった国だ。


「引き締めは嫌われます。中央銀行は、嫌われるために置かれた機関です」


締めに、もう一言だけ付け足した。引き締めが遅れた分だけ、戻りの痛みは大きくなる、と。


ノートに写したのは、その二行だけだ。嫌われるために置かれた機関。遅れた分だけ、戻りは痛い。


学食で、レンが唐揚げ定食を2つ運んできた。


「ゼミ帰りに暗い顔すんな。……あ、そうだ。この前アスフロに誘った後輩、辞めたわ」


「早いな」


「装備が高すぎるんだと。始めたばっかりだと、稼ぎが値札に追いつかない。おれの頃より、立ち上がりが明らかにきつくなってる。もったいねえよな、いいゲームなのに」


「引き留めなかったのか」


「引き留める理屈がなかった。楽しくなる前に財布が尽きるんじゃ、遊びとして成立してねえもん」


「……そうか」


「にしてもお前、人の後輩の話で、そんな顔するか?」


「関係のある話だからな。俺の商売は、客の多い世界の上に建ってる」


「言い方が大家なんだよなあ、お前」


レンの後輩は、うちの売上帳でいえば、線のつながらなかった名前だ。名前の側から見ると、こういう顔をしている。


夜、ログインして、先に足でひとつ確かめた。


転移門の料金表は、片道1000のまま動いていない。競売所の手数料も、修理代の相場も、冬から据え置きだ。金の消える口は、蒼海の前から何ひとつ広がっていない。


蛇口だけが太く開いたまま、ひと冬が過ぎた。溜まった金の高さは、うちの相場表の割り戻しの欄がそのまま示している。およそ1.3倍。ここまでは去年のうちに読み終えた話だ。今夜やるのは、その先になる。


帳場で手帳を開いた。書く前に、並べ直す。


去年の秋、同じ学食でレンは言った。新大陸のあとは物価が上がる、インフレだよ、と。あの日は、歩いてきた奴が結論を先に運んできて、俺が理屈をあとから敷いた。


今日は逆だ。理屈が先に机の上にある。翻訳のほうが、俺の仕事になる。


金の信認が死ぬと、約束が消えて、市場が止まる。アスフロで、この世界の金を信じて入ってくるのは誰か。新しい客だ。


だから、この世界の通貨の信認は、新規の定着率だ。


その数字を、俺はもう持っている。10人に4人が、10人に1人まで落ちた。


顔も並べた。レンの後輩。ムギの薬草仲間。射場の貸し弓の子。相場表の前から消えた双子。どの顔も、財布が細いから消えたんじゃない。財布の育つ速さより、値札の膨れる速さが速いから消えた。


数字も並べた。相場表の割り戻しの欄で1.3倍。うちの定着で10人に1人。名簿の出入りで差し引きゼロ。板の入り口のスレは、1枚流れるのに1週間。別々の窓に、同じ一つの向きが映っている。


うちの店だけの話じゃない。それが、今日決めたかったことだった。


そこから先は、運営の側の勘定になる。


運営も商売だ。客は5万人。月々の払いで成り立つ商売は、客の数がそのまま帳面になる。


手持ちの膨れた古参は、運営に1ゼルも余計に落とさない。辞めた新規は、そのまま帳面の減りになる。


俺が朝の欄で見た向きを、運営は5万人分の、俺よりずっと正確な帳面で見ている。


そして、削られた客は戻らない。レンの後輩は、値札が下がったと聞いても戻ってこない。減りが誰の目にも見えてから動くのでは、商売として遅すぎる。


夏に一度だけ会ったS.K.は、この世界の金には蛇口と排水口がある、と言った。蒼海で蛇口を太く開けたのは運営で、開けた理由は損得だった。なら、閉じ方も損得で決まる。


だから、排水口は必ず開く。金の消え場所を新しく作り、膨れた財布から金を抜き、値札の向きを下へ折る。運営が意図して起こすデフレだ。


いつ、どんな形で来るかは、まだ読めない。ただ、でかい買い物と、続く払い。金の消え場所というのは、たぶんそういう顔をしている。


手帳に書いた。値札を読むな。値札を書き換える側の損得を読め。運営の損得が、告知だ。


書いてから、注を足した。今夜は1ゼルも動かさない。形の見えない排水口に、形のある手は打てない。


打てるのは、告知が来た日に最初に動ける支度だけだ。帳面と、身軽さ。両方とも明日から整える。


値札板。塩16、串焼き2本で13、宿代71。


◇――――――――――

【行商人の帳面 その56】

・政策は、政策を打つ側の損得から読む。運営も商売で、客は5万人。神にも帳面がある。

・インフレは、新規と時間の限られた客から削る。削られた客は戻らない。だから排水口は必ず開く。

・次の告知は、文面より先に、運営の損得に書いてある。

・【資産】現金58万、棚8万、山18万、店舗権49万。合計133万。受付まで7週。

◇――――――――――

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