第46話 彫った字は上がらない
月に一度、アルテガの大市場を見て回る。今日の目的は一等地だ。秋に124万で競り負けた、あの角の今を見ておきたい。
向かいに立って、30分数えた。1分間に通る客、立ち止まる率、店に入る率。人通りは秋より2割増えている。場所としての一等地は、少しも衰えていない。
秋の落札の日、この角には人垣ができていた。124万という数字が読み上げられて、どよめきが起きた。あの日の主役の座は、今も変わっていない。変わったのは、124万という数字の意味のほうだ。
衰えが見えたのは、別のところだった。
一つ。アルカ商会が配っている無料の相場週報。紙が薄くなり、月2回の発行が月1回になっていた。中身の精度は落ちていない。紙代と手間を削って、質を守る削り方だ。
二つ。店先の募集札。日当220の札の上に240の札が貼られ、その上に260の札が重なっていた。3枚の紙の厚みが、そのまま人件費の上がり方だ。
三つ。店の前の石板。開店のときに彫った字が、そのまま残っている。「取り次ぎ手数料、1件につき50ゼル」。
四つ目もあった。棚の品ぞろえだ。回転の速い消耗品が減って、利幅の厚い高級品に寄っている。仕入れの資金を軽くして、1個あたりの利で稼ぐ組み替え。追い詰められた棚ではないが、守りに入った棚ではある。
数えれば、仕組みは単純だった。
アルカの実入りは、彫られた50ゼルに件数を掛けた額だ。件数は増えている。だが日当も紙代も仕入れも、この冬でおよそ3割上がった。件数の増えが3割に届かなければ、帳面は毎週細る。
外から見える数字で、ためしに置いてみる。取り次ぎが週2000件なら、入りは週10万。日当260の人手が30人いれば、人件費だけで週5万を超える。紙代と店の維持を足せば、残りは厚くない。秋の物差しなら同じ件数で楽に回っていたはずだ。件数が2割増えて、出が3割増えた。差し引きの向きは、下だ。
値上げすればいいと言うのは簡単だ。だがあの石板は、開店のとき「うちは値をいじらない」という信用の看板として彫られた。彫った字を消せば、信用ごと消える。彫ったから上げられない。
それに、あの店は土台に124万が沈んでいる。物価が上がる前の、重い金だ。勝った瞬間の物差しに、勝った者だけが縛られる。封印入札の前に調べた「勝者の呪い」が、インフレと組むと、こういう形で利いてくる。
秋、あの124万を涼しい顔で積んだ商会を、俺は化け物だと思った。化け物は今も化け物だ。ただ、どんな化け物も、物価の中で商いをしている。そこだけは、行商人と同じ土俵だった。
掲示板にも観測が出始めていた。
《アルカ商会、夜の受付を締めたらしい》
《手数料据え置きは神。ずっとやってて》
《据え置きって、こっちが得してるんじゃなくて、向こうが削られてるだけでは》
《でも品物は良いんだよな。週報の相場読みも当たるし》
《良い店が削られていくの、見てて気分のいいもんじゃないな》
締め方の順番は筋が良かった。末端の客を切らず、夜間の窓口から畳む。週報の質も落とさない。下手を打っているわけじゃない。設計が、物価の動かない季節のままなのだ。
うちが仕掛けることは何もない。物価が毎週、向こうの帳面を勝手に書き換えていく。俺にできるのは、同じ罠に入らないことだけだ。
帰りの馬車で、自分の帳面を点検した。
うちにも固定はある。二等地の店舗権38万。ただしこれは「買う側」の固定だ。物価が上がれば、払い終えた38万は相対的に軽くなり、店の稼ぎは物価と一緒に増える。買値の固定は、インフレの中では味方だ。
売る側の固定は一つもない。枠代も口銭も加工賃も、全部相場に連動させてある。石に彫った売値は、ゼロ。
彫るなら買値。売値は彫らない。向かいの角の石板が、月謝なしでそれを教えてくれた。
店に戻って、コウに一等地で見てきたことを話した。話の締めに、コウが聞いた。
「うちも手数料の一覧、板に彫って店先に出しますか。信用になるなら」
「彫らない。うちは毎朝、壁に書く。書いた値はその日じゅう守る。それで十分だ」
「一日だけの約束、ということですか」
「一日の約束なら、毎日守れる。十年の約束は、十年先の物価を知らないと彫れない。うちは知らない。知らないことは約束しない」
コウは壁の相場表を見て、それから小さく頷いた。約束の長さと信用の量は、比例しない。守れる長さの約束を守り続けるほうが、石より硬い。
夜の検算で、帳面の合計が101万になった。
100万を、越えていた。
声に出しては言わなかった。これは名目の数字で、まだ俺しか知らない数字だ。祝いというのは、誰かが数えてくれた日に来るものだと、祭りのあとの騒ぎで知っている。今夜のところは、通過点として黙って書いておく。
代わりに、下の行に注を一つ書いた。実質の検算、近いうちに。浮かれる前に、物差しを揃えておきたい。
値札板。塩12、串焼き2本で11、宿代60。名目101万。
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【行商人の帳面 その46】
・勝った値段は、勝った日の物差しで固定される。物価が動くと、固定した側から削られていく。
・買値の固定はインフレの味方。売値の固定は敵。彫るなら買値、売値は彫らない。
・名目99万から101万へ。増えの2万は、便と店の実入り2週分。
・強い相手が沈むのに、こちらの攻撃は要らない。設計の古さは、物価が執行する。
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