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第35話 負けは、一人で背負う

鉄200個を、帳場の脇に置いた。


火曜の朝。バルガ着は、30分遅れた。北の食堂街を回る経路に変わった、最初の火曜だ。


食堂街は、朝の匂いがした。焼いたパンと、出汁と、炭。屋台の前で、料理人が寸胴の蓋を開けて、湯気が通りに溢れた。その通りを、うちの馬車が初めて抜けた。二等地の店の前で、コウが棚板を抱えて手を振った。


炉の火は、いつもより赤が浅かった。火入れを30分ずらしたからだ。


「負けたな」


「負けた」


紙を、帳場に置いた。


―――――――――――――――――


【秋のアルテガ入札 結果】

・一等地:落札できず。当方75万で3位(落札124万、次点98万)

・二等地北側:38万で落札(次点35万)

・資金:全額自己資金。減ったのは私の手帳の数字だけ。返す金はありません

・火曜のバルガ着は30分遅れ。鉄30固定、草6固定、塩は変わりません


―――――――――――――――――


テツジンは1読して、紙を帳場の釘に刺した。


「借りて110万書いて、アルカに負けて、借金だけ残る。それを一番心配してた」


「……」


「借りずに負けた奴は、次に手ぶらで来る。借金のない手ぶらのほうが、強い」


借金がなければ、次の入札にも、また自分の金だけで来られる。貸した本人が、貸さずに済んだことを喜んでいた。


「借りろと言った本人の台詞か」


「貸す側は貸すと言う。借りる側が断る。それで商いだ。——鉄」


弟子が、黙って数えていた。199、と唇が動いて、200個目を、帳場の山の上に置いた。音が、一つ。


それが、今日の報告の全部だった。


バルドには、行かなかった。

行く用事が、なかった。塩は9で納める。店は二等地で、食堂街から徒歩3分。先週、知らせに書いた。書いた以上のことは、起きていない。

ミレイユにも、行かなかった。名簿は、まだ石台の上にある。

負けを報告する相手が、紙1枚と、テツジンだけで済む。誰の金も乗っていないから、報告の列ができない。他人の金が乗っていれば、21人と5軒に頭を下げて回る朝だった。


月曜の学食で、レンがラーメンを持って向かいに座った。


「負けたんだって?」


「負けた」


「3番目?」


「3番目」


レンは箸を割って、それから俺の盆を見た。


「食ってんじゃん」


「食ってる」


「……あ、そう。じゃあいいわ」


本当に、食えていた。日曜の夜は、6時間眠った。


競売所から帰って、ヘッドギアを外して、部屋の天井を見た。ゲームの中の手すりの温かさが、現実の手のひらに、しばらく残っていた。それが消えるまで、眠れなかった。消えたら、眠れた。


「飯が食えてる負けなら、うちのクランじゃ負けに数えねえ」


「借りていれば、届いてた」


口から、それが出た。言うつもりはなかった。


「借りてたら、今ここで食えてねえだろ」


レンは、麺をすすった。


「お前、返済表見ながら飯食える奴じゃねえもん。負けて借金が残ってたら、今ごろ寝てねえよ」


それ以上、あいつは何も言わなかった。食べ終わって、盆を持って立つときに、一言だけ足した。


「硫黄石、臭かったってよ。前衛が文句言ってた。——死んでねえけど」


耐火は、効いた。それが、〈暁〉からの礼だった。


夜、アルカからウィスパーが来た。

『来週って言ったけど。今でいい?』

『いい』

『124万の出どころ。200人の財布』

『……?』

『相場で稼いでない。祭りの前、西門で草を買ったあと、やめた。代わりに200人から預かった。平均6200。「市場を一つ作る金」って言って』

200人。平均6200。124万。

6200は、初心者が1か月、角ウサギを狩って残る額だ。それを200人が、顔も知らない相場師に預けた。俺は5万を、顔を知っているバルドから預からなかった。

『預かった金で、一等地を買った?』

『そう。店はやらない。あそこを、取引所にする。競売所は運営の場所でしょ。わたしは、プレイヤーが自分で作る取引の場を一等地に置く。200人は、その出資者』

読めなかったはずだ。アルカは店を買ったんじゃない。売り買いをする場所そのものを買った。俺は一等地の角を「8本の街道が集まる、物を売るのに一番いい場所」と見ていた。彼女は同じ角を「人と金が集まる、市場そのものを置く場所」と見ていた。

『なんで俺に話す』

『競争相手だから。それと、あなたの網が、うちの最初の取引になるかもしれないから』

『俺には、できない道だ。200人から預かる道は』

『知ってる。できない人にしか、できる人の値段は分からないから。あなたは断ることの値段を知ってる。だから、わたしが預かることの値段も分かる』

アルカは落ちた。


手帳に、書いた。


——選ばない道と、選べない道は、違う。


出資を断ったのは、俺が選ばなかったのか。それとも、俺には選べなかったのか。書いて、本当に違うのか、と問い直した。


具体で、言い換えてみる。200人の名簿を、俺は作れたか。


ミレイユが作った21人の名簿を、石台の上に置いたまま帰った俺に。21人でさえ、預かれなかった俺に。


答えは、出なかった。出ないまま、手帳を閉じなかった。


講義で習った言葉は、今夜は使わなかった。使える言葉が、なかった。


【資産】82万3720ゼル。二等地の支払いは来週。

◇――――――――――

【行商人の帳面 その35】

・負けは、誰の金も乗っていなければ、報告の相手が紙1枚で済む。報告の列ができないのが、一人で背負う形。

・損の翌朝に出す紙には、変わるものと変わらないものを分けて書く。日付を書く。

・飯が食えて、6時間眠れた負けは、次に借金なしで来られる負け。

・次の問い:二等地の支払い38万のあとに残る44万3720を、どの欄に書くか。欄が、まだない。

◇――――――――――

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