第19話 ヴァンガード、市場に来る
そのクランの名前は、サーバーの誰もが知っていた。
〈ヴァンガード〉。在籍1200人。全レイドの初回討伐を独占する、アスフロ最大の攻略クランだ。レンいわく「あそこは別格。装備も人も練度も、2番手と一周差がある」。公式サイトの初回討伐記録の欄は、上から下までこのクランの名前で埋まっている。
つまり、攻略というゲームの勝ち方を極めた連中だ。そして勝ち方を極めた人間ってのは、たまに、隣のゲームでも同じ勝ち方が通ると思い込む。
金曜の定期便を降ろし終えたところに、その紋章をつけた男が立っていた。細身で、身なりのいい商人風の装備。腰に武器はない。
「カイエンという。ヴァンガードで買い付けを任されている。——ソーマさん、で合ってるかな。定期便の」
「合ってるよ。買い付けの人が、うちに何の用?」
「単刀直入に言おう。あんたの流通網を、丸ごと買いたい」
カイエンは指を3本立てた。
「契約リスト、仕入先、定期便の運行権。全部うちに移してくれれば、あんたには週3万ゼル払う。何もしなくていい。座ってるだけで、今の何倍も稼げる」
週3万。今の純利の3倍以上だ。
数字としては、破格だった。そして破格の数字ってのは、それ自体が情報だ。相手はこの網に週3万以上の使い道があると踏んでいる。網を持った1200人のクランに何ができるか——供給を握って、値を作れる。
つまりこの買収話は、値札のついた予告状だった。断れば、あの資金力が市場に直接入ってくる。受ければ、うちの網が値作りの道具にされる。どっちに転んでも嵐は来る。選べるのは、嵐の中でどこに立つかだけだ。
「悪いけど、売り物じゃない」
「即答だな。理由を聞いても?」
「網は俺の持ち物じゃないからだよ。テツジンやミレイユとの約束の束であって、約束は転売できない。売った瞬間、あれはただの配送ルートになって、半年で腐る」
「……綺麗ごとに聞こえるが」
「綺麗ごとじゃなくて、勘定の話だ。うちの網の価値は『固定価格を必ず守る』って信用でできてる。あんたらが買った瞬間、契約者は全員こう考える。『ヴァンガードは、この固定価格をいつまで守る気だ?』ってね。疑いが生まれた時点で、信用の分の価値は蒸発する。あんたは週3万の値をつけたけど、あんたが買えるのは週3万の価値がなくなったあとの網だけだよ」
カイエンはしばらく俺を見ていた。値踏みの目つきは、同業だからよく分かる。
「……そうか。残念だ。ではこちらも、好きにやらせてもらう」
「何をする気だ」
「レイド世界1には金がかかるんでね。うちのマスターは、市場そのものを資金源にすると決めた」
「忠告していいか」
「聞くだけなら」
「市場は、レイドボスと違って体力ゲージが見えない。倒したつもりで倒れてないし、倒れてないつもりで自分が倒れてる。あんたは買い付けのプロだから、たぶんもう嫌な予感がしてるはずだ」
カイエンの眉が、ほんのわずかに動いた。図星の動き方だった。でも彼は何も言わずに、一礼して帰っていった。組織の人間ってのは、予感より辞令で動く。それが強さでもあり、あの巨体の急所でもある。
断ったあと、網の主要どころには先に伝えて回った。テツジンは「ふん、うちの鉄は魂ごと売られずに済んだか」と笑い、ミレイユは「週3万を断ったの!?」と3回聞き直した。ユキハだけが、断った理由を聞かずに「で、向こうは次に何してくると思う?」と先の話をした。弓使いは、次の的を見る。
「買い占め、だと思う。草と鉄とポーション。1200人のレイド収入が原資だ」
「買い占めって、全部買えば値段を自分で決められるってこと?」
「理屈はそうだ。市場の品を一人が全部持てば、売値はその一人が決められる。独占ってやつ。教科書だと、独占した側は量を絞って値を吊り上げる。買う側は、他に売り手がいないから払うしかない」
「理屈は、ね。じゃあ現実は?」
「現実には『全部』が買えない。買えば買うほど値が上がって、仕入れが高くつく。それに、高くなれば誰かが新しく掘る、摘む、運ぶ。囲った外から湧いてくる。それでも1200人分の金があれば、10日くらいは市場を壊せる」
「10日、壊されたら困る人は?」
「初心者と、小さい工房。うちの契約網は固定価格だから、最初の10日は無傷のはずだ」
「最初の10日は」
「そう。問題は、仕入先が70で買うって奴に目移りしたとき」
ユキハは弓の弦を指で弾いた。考えるときの癖だ。
「……わたしなら、目移りするかも。正直に言って」
「正直でいい。だから、目移りしても残る理由を、今のうちに作っておく」
その夜、ヴァンガードのクランマスター、ゼノヴィスの配信があった。同時視聴3万8000。
『よく聞かれるんだよね、装備更新の金はどこから出てるのって。教えてあげるよ。——これからは市場から出る。相場ってのは、強い者が使うための道具だ』
画面の中のゼノヴィスは、白銀の鎧で玉座みたいな椅子に座っていた。攻略の実力は、たぶん本物だ。初回討伐の記録は伊達じゃない。ただ、彼の言葉には1か所だけ、事実誤認があった。
相場は道具じゃない。相場は、全員の売り買いの結果だ。ハンドルのついていないものを運転しようとする奴は、最後はだいたい壁にぶつかる。
——なんてことを、配信のコメント欄に書き込んだりはしない。俺は静かに配信を閉じて、契約網の全員に短い連絡を回した。「近々、相場が荒れる。契約は全部守る。慌てて売り買いしないように」。
翌朝から、アカツキ草と鉄鉱石の板から、売りが消え始めた。
◇――――――――――
【行商人の帳面 その19】
・市場の品を一人が全部持てば、売値をその一人が決められる。これが独占の理屈。
・独占した側は量を絞って値を吊り上げる。買う側は、他に売り手がいないから払う。
・ただし「全部」は買えない。買うほど高くなり、高くなれば囲いの外から湧く。
・相場は道具じゃない。全員の売り買いの結果。ハンドルはついていない。
◇――――――――――




