第2話 塩は歩いた分だけ高くなる
翌日は土曜だった。朝9時にログインして、まず地図を開く。
スターディアから南へ、徒歩2時間半で港町リーデン。北へ2時間で鉱山都市バルガ。西へ2時間半で森の街エルム。街道は「安全圏」で、モンスターは湧かない仕様だ。行商人でも死なずに歩ける。
遠い。地図の縮尺を2度確かめた。本当に遠い。
攻略組は転移門を使う。各都市の門をつなぐ瞬間移動で、利用料が片道1000ゼル。持ち込める荷物は20キロまで。背負い袋ひとつぶん、だ。
俺に1000ゼルはない。あっても塩は20キロしか持てない。だから歩く。
まずは南へ。
街道は、拍子抜けするほど平和だった。石畳が続いて、街道沿いに旅のNPCがぽつぽつ歩いている。プレイヤーの姿はほとんどない。みんな街の周りの狩場に張りついていて、隣街まで2時間半歩く理由が、まだ誰にもないのだ。
リーデンは魚と潮の匂いのする街だった。もちろん本物の匂いじゃない。でも鼻の奥はそう感じている。VRってのは大したものだ。
港には木造の漁船が並び、桟橋でNPCの漁師たちが網を繕っていた。魚市場の競りの声。俺はまず市場をひと回りして、値札を頭に入れていく。魚、安い。干し魚、安い。海藻、安い。当たり前だ。ここは産地なんだから。
産地で安いものは、産地から離れるほど高くなる。じゃあこの街で一番「離れた場所で必要とされてる」ものは何だ。
魚は足が早い。ゲーム内でも鮮度の概念があって、半日で品質が落ちる。干し魚は日持ちするが、重くてかさばる割に単価が安い。海藻は論外。
港の市場で、目当てのものを見つけた。
塩。1袋、8ゼル。
軽い。腐らない。そして、どこの街の飯屋も薬屋も、毎日確実に使う。
昨日、スターディアの雑貨屋では塩が1袋12ゼルだった。そして攻略サイトの雑談板に、こんな書き込みがあった。「バルガの飯屋、塩切れで味薄すぎワロタ」。
鉱山都市は、海から一番遠い。
「塩を40袋。あと、バルガでの売値って知ってるか」
「知らんね。うちは8ゼルで売るだけだ」
塩屋のNPCは愛想がなかった。それでいい。愛想のいい情報屋より、愛想のない定価のほうが商売の土台になる。
40袋で320ゼル。所持金500から、残り180。
6割以上を塩に変えた瞬間、指が少しだけ迷った。もしバルガの塩が足りていたら? 誰かが先に運んでいたら? 攻略サイトの書き込みは3日前のものだ。3日あれば、状況なんていくらでも変わる。
情報には鮮度がある。魚と同じだ。3日前の「塩切れ」を信じて張るなら、3日ぶん腐っている可能性も一緒に背負う。
迷った末に、買った。確かめる方法は、運んでみる以外にない。
《大荷物》のおかげで、40袋がすっぽり背負い袋に収まる。重量表示は上限の6割。剣士なら10袋で腰が砕ける量だ。ハズレ職の唯一の取り柄は、つまり荷馬車1台ぶんの背中だった。
リーデンからバルガまで、スターディア経由で徒歩4時間半。
長い。正直、長い。景色はいいが、ただ歩くだけの4時間半だ。攻略組は今ごろ、洞窟で経験値を稼いでいる。
途中、街道の休憩所で一人の槍使いとすれ違った。向こうから話しかけてきた。
「あんた、その荷物なに? 引っ越し?」
「塩。バルガまで」
「……塩? 歩いて? 競売所で送ればよくない?」
「競売所の配送手数料、取引額の2割だろ。塩みたいな安いものは、手数料で利益が消える。転移門は荷物が20キロまで。だから安くて重いものほど、足で運ぶ価値がある」
「はー。……ようやるわ」
槍使いは笑って狩場へ歩いていった。ようやるわ、は今日から俺の褒め言葉ということにする。
——この4時間半を「長い」と思う奴が多いほど、俺には都合がいい。
誰もやらないから、差が残る。競売所の手数料が高いから、転移門が荷物を通さないから、俺の足に値段がつく。世の中の「面倒くさい」は、全部誰かの商売の種だ。
バルガは坂と煙の街だった。鍛冶場の槌の音がそこらじゅうで鳴っている。プレイヤーの姿はスターディアより少なくて、代わりに装備のいい中堅どころが目についた。鉱山のダンジョンが近いから、稼げる層が根城にしているんだろう。
稼げる層が集まる街は、物価が高い。そして物価が高い街ほど、生活物資の「切れ」に弱い。
雑貨屋に入って、俺は棚を確かめた。塩の棚が、空だ。
「塩、40袋あるけど」
店主NPCの返事は早かった。
「1袋17ゼルで買おう」
《査定》の基準価格は12。在庫切れの店は、基準より高く買う。生放送は嘘じゃなかった。この経済は、本当に在庫で動いている。
「売った」
40袋で680ゼル。
取引画面の確認ボタンを押すと、背負い袋がふっと軽くなって、金貨の音が鳴った。演出過剰だと思う。でも、悪い気はしなかった。
所持金、860ゼル。
店を出ると、隣の飯屋から声が聞こえた。
「おやじ、今日はちゃんと味があるじゃねえか」
「塩が入ったんだよ、さっき」
さっき入れたのは俺だ。名乗りはしなかったけれど、スープの湯気が少しだけ自分の手柄に見えた。
レンが角ウサギを狩って得るのは経験値と素材で、あれは分かりやすい。俺が塩を運んで得たのは360ゼルと——このスープの味、ということになるらしい。世界のどこかの味を、ほんの少し濃くする仕事。悪くない。
原価320、売上680。歩いた時間は、リーデンまでの2時間半を入れて7時間。差し引き360ゼルは、時給に直せば50ゼルちょっとだ。角ウサギを狩る初心者の稼ぎが、たぶん時給50ゼルいくかどうか。
講義で習った言葉なら、裁定——アービトラージだ。同じ物の値段が場所によって違うとき、安い所で買って高い所で売る。教科書には続きがある。『裁定が働けば、価格差はやがて消える』。——消えるまでの間だけ、商人が食える。
そして値段の差は、理由もなく残らない。残っているなら、そこには必ず「壁」がある。手数料の壁。距離の壁。面倒くささの壁。差は、壁の高さまでしか縮まらない。8ゼルと17ゼルの間には、4時間半の街道と、2割の手数料と、20キロの転移門が立っている。
悪くない。悪くないが——店を出て、空っぽになった背負い袋を眺めて、俺は足を止めた。
この袋、空のまま2時間歩いて帰るのか?
それは、もったいないんじゃないか。
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【行商人の帳面 その2】
・同じ物が場所で値段が違う。安い所で買って高い所で売る。これが裁定。
・差は、誰かが運べばいつか消える。消えるまでの間が商人の飯。
・差が残っているなら、そこに壁がある。距離、手数料、面倒。壁の高さまでしか差は縮まらない。
・情報は魚と同じで腐る。3日前の書き込みは、3日ぶん割り引く。
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