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第1話 ハズレ職、いただきます

職業選択の画面の前で、俺は10分ほど固まっていた。


選び直しは、できない。アカウントにつき1回きり。


サービス開始日の初期資金は、全員一律で500ゼル。


《アストレア・フロンティア》。通称アスフロ。今年最大の新作VRMMOで、発売前の公式生放送はどの回も同時視聴数が6桁を超えた。


売りは、戦闘だ。100人同時参加のレイド。大陸を歩き回るワールドボス。初回討伐のクラン名が公式サイトに永久に残る。放送はその映像を40分流して、コメント欄はずっと沸いていた。


俺が覚えているのは、その40分じゃない。


放送の終わり際、開発者がメモも見ずにさらりと言った一言だ。


「あと、このゲームの経済は本物です。NPCの店の値段は在庫で動きますし、運営は市場に手を入れません」


コメント欄は、ほぼ流した。「ふーん」「で、レイドの話は」。次の話題に3秒で戻った。


俺は逆だった。その一言だけを、3回巻き戻した。


ヘッドギアをかぶって、目を閉じる。次に開けたら、そこは草原の街だった。ログインなんてそんなものだ。通学電車に乗るのと変わらない。


始まりの街スターディア。中央広場は初日のプレイヤーでごった返していた。


職業選択の案内板の前に、列が20本。剣士、魔導士、槍術士、狩人——戦闘職の列はどれも長蛇だ。鍛冶や調薬の生産職にも、それなりに人が並んでいる。


一番端の受付には、誰もいなかった。


【行商人】

 都市間交易に補正。荷運び能力に優れる。

 戦闘補正なし。

 初期スキル:《査定》《値切り》《大荷物》


戦闘補正なし。説明文はそれで終わりだった。攻撃スキルの欄が、存在すらしない。


不人気の理由は、分かる。二つある。


一つ。戦闘補正がない。このゲームの主役はレイドで、レイドに出られない職は「ない」のと同じだ。


二つ。誰も、あの一言を信じていない。NPC経済が本物なんて、今までのMMOで何度聞いた売り文句だ。だいたい3か月で運営が値段をいじって、商人職は飾りになる。みんな、そう学習している。


だから行商人の列は、空だ。


「お、ソーマ。そっち見てんのか」


隣から画面を覗き込んできたのは、レン。大学の同じ学部の矢代蓮だ。今日のために二人で「講義即帰宅」を敢行した仲だが、あいつはもう剣士の列に並び終えている。


「行商人。戦闘補正なしのやつだろ。配信者が検証してたな、魔物1匹倒すのに5分かかるって」


「倒さないからいいよ」


「ん?」


「魔物は倒さない。攻略もしない。俺は相場で食ってく」


レンは3秒黙った。吹き出すかと思ったが、違った。腕を組んで、画面と俺の顔を見比べた。


「……放送の最後のやつか。『経済は本物です』ってやつ」


「覚えてたのか」


「お前がやたら巻き戻してたからな。正直、俺はあれ信じてない。けど」


レンは剣士の列のほうを親指で示した。


「お前が『あれは本物だ』って言うなら、いい選択なのかもな。お前、数字のことになると外さないし」


「……意外だな。笑うと思ってた」


「笑わねえよ。ゲームは好きにやるもんだろ。俺はレイド、お前は相場。3か月後にどっちが面白いことになってるか、飯でも賭けるか?」


「乗った」


「よし。頑張れよ!」


そう言って、レンは大げさに俺の背中を叩いた。芝居がかった仕草も、こいつがやると本気に見えるから得な性格だ。


「俺はまず一軍狙いな。〈ヴァンガード〉って知ってるか? β組が作ってる最大クラン。あそこはもう攻略の一番手が確定してるから、2番手集団のどこかに食い込む」


「ヴァンガード。覚えとく」


「攻略組は転移門が使えるようになるしな。都市間一瞬。まあ、利用料がバカ高いし、持てる荷物も少ないらしいけど」


持てる荷物が少ない。


その一言は、頭の隅に置いた。あとで要る気がした。


あの生放送を見たときから決めていた。経済が本物なら、値段の歪みも本物だ。誰かが剣で稼ぐ世界で、俺は値段の差で稼ぐ。


歪み、というのはつまり、こういうことだ。同じ塩が、海の街では安くて山の街では高い。誰かが運べば差は縮まる。でも、運ぶのが面倒なら差は残り続ける。剣と魔法の世界で「運ぶのが面倒じゃない」奴なんて、いったいどれだけいる?


たぶん、ほとんどいない。全員、レンと同じ側にいる。


だから俺は、反対側に立つ。


受付のNPCは、俺の選択に眉ひとつ動かさなかった。


【職業:行商人 を取得しました】


ステータス画面に、みすぼらしい数字が並ぶ。攻撃力、最底辺。防御力、最底辺。所持重量だけが、剣士の倍あった。


「じゃ、俺行くわ。草原で角ウサギ待ってるからよ。何か困ったら言えよ、護衛くらいしてやる」


レンは剣を担いで、東門へ駆けていった。ああいう背中は、見ていて気持ちがいい。まっすぐで、迷いがない。


広場の外れでは、もう最初の狩りから帰った連中が騒いでいた。角ウサギの素材がどうの、初討伐がどうの。夕方のゴールデンタイム、フィールドへ向かう人の流れは川みたいだった。何千人が同じ方向へ歩いていく。


俺はその流れに背を向けて、市場通りへ歩き出した。


逆走する俺を、すれ違いざまに二度見していく奴が何人かいた。気持ちは分かる。初日の夕方に街へ向かうプレイヤーなんて、忘れ物をした奴くらいのものだ。


武器屋。防具屋。道具屋。雑貨屋。露店の並び。俺は買わない。値札だけを、端から順に見て回った。


パン1個、2ゼル。松明1本、3ゼル。矢1束、この街では13ゼル。干し肉は道具屋で10ゼル。


《査定》を通すと、商品の上に基準価格がうっすら浮かぶ。だが面白いのはそこじゃない。基準価格と、実際の売値の間にある「ずれ」のほうだ。


たとえば干し肉。道具屋では10ゼルなのに、2本裏の通りの小さな雑貨屋では9ゼルだった。表通りの店は初日の客が押し寄せて在庫が減り、値がわずかに上がっている。裏通りの店は誰も来ないから、値が寝たままだ。


在庫で値が動く。本当に動く。この目で確かめられただけで、今日は満点だった。


もうひとつ、拾いものがあった。閉店時刻の鐘が鳴る少し前、八百屋のNPCが傷みかけの果物の値を3割下げたのだ。売れ残りを腐らせるより、安くても今日売る。NPCのくせに、そういう計算をする。


——このゲームの経済は、本物です。


開発者の声を、俺は頭の中でもう一度再生した。なるほど。これは想像より、ずっと本物だ。


閉店間際の市場通りを3往復して、俺はその日のログアウト時刻を迎えた。


所持金、500ゼル。使ったのは、ゼロ。


レベルも、上がっていない。


今日の3時間、俺は角ウサギを1匹も狩らなかった。レンはたぶん、3時間で100ゼルは稼いでいる。俺はその100ゼルを捨てて、値札を見て回った。


講義で習った言葉なら、機会費用だ。何かを選ぶ値段は、選ばなかったほうの稼ぎで測る。今夜の値札見物の値段は、角ウサギ100ゼル。安いと思う。明日からの商売の元手が、値札の中に全部あった。


明日は港町まで歩く。確かめたいことが、ひとつある。


◇――――――――――

【行商人の帳面 その1】

・何かを選ぶ値段は、選ばなかったほうの稼ぎ。これが機会費用。

・全員が同じ方向へ走る日は、反対側が空いている。

・「本物」かどうかは、値札を自分の目で見て決める。

◇――――――――――

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