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第15話 卵と籠の話

水曜の講義は、投資理論の初歩だった。


大教室の後ろのほうの席で、俺はいつもよりノートを取っていた。単位のためじゃない。先週、2万9000ゼルの授業料を先に払ってしまった講義だったからだ。世の中の講義は、たいてい聴く順番が逆になってから身に染みる。


「卵を一つの籠に盛るな、という格言があります」


教授がスライドを送る。分散投資。相関の低い資産に分けて張れば、同じ期待リターンでもリスクだけが下がる——グラフの上では当たり前に見える話が、その日は胃に刺さった。


俺の籠は一つだった。攻城戦という籠一つに、卵を全部盛って、籠ごと落とした。


ノートの隅に、自分用の規則を3行書いた。


1、ひとつの読みに資産の3割以上を張らない。


2、売り先が決まってから買う。決まってない買いは、賭けと呼ぶ。


3、時間を敵にしない。「いつか」に賭けず、「毎週」を積む。


書いてみると、どれも祭りのときは守れていた。矢はロッドの販路込み、草はミレイユの卸先込み、外れても2か月で捌ける量。あの仕込みが上手くいったのは読みが冴えてたからじゃなく、形が正しかったからだ。攻城戦では、その形を全部捨てて読みだけで張った。


つまり俺は、勝った理由を間違えて覚えていた。これが一番怖い。負けた理由を間違えるより、勝った理由を間違えるほうが、次の負けがでかくなる。


ノートの3行の下に、もう1行だけ書き足した。


4、この3行は、次に勝ったあとに読み返す。


負けた直後の人間は、誰でも謙虚だ。規則が要るのは、次に勝って、自分を天才だと思い始めた日のほうだ。


分散には、もう一つ顔がある。塩と砥石と矢。3本の路線は、1本が痩せても残りが生きていた。あれは気づかないうちにやっていた分散だった。祭りの仕込みも、矢と草と肉と砥石で4つに分けていた。一つが外れても他で持つ形。攻城戦だけが、鉄と木材——つまり「攻城戦」という一つの籠に、2種類の卵を入れただけだった。籠が同じなら、卵の種類を変えても分散にはならない。


講義のあと、教授に一つだけ質問をした。


「先物契約って、投機のためにあるんですか」


「逆だよ、楠木くん。先物はもともと、農家と商人が価格変動から身を守るために生まれた。投機家は後から来た。保険が先、賭博が後だ」


保険が先、賭博が後。


俺は順番を間違えたんだ。保険を組む前に、賭博をやった。


教授は続けて、少しだけ余談をした。「江戸の堂島の米会所は、世界最初の組織的な先物市場と言われている。飢饉と豊作で乱高下する米の値を、幕府より先に商人が飼い慣らした。制度ってのはね、たいてい現場の商人の発明を、あとから偉い人が追認したものなんだよ」


現場の発明を、あとから制度が追う。


なんだか、妙に胸に残る話だった。このときはまだ、その意味を知らなかったけれど。


夜、往復を再開した。


塩40袋、砥石80個、週末は矢。粗利は一晩700ゼル。ひと月半前と同じ数字。同じ道。


大負けのあとに元の道へ戻るのは、思ったより気恥ずかしかった。2週間前の俺は、この道を「小銭」と呼んだのだ。小銭と呼んだ道に頭を下げて戻る。でも歩き出して10分で、気恥ずかしさは消えた。道は何も言わない。塩は今日も8ゼルで、バルガの棚は今日も空きかけていた。市場は俺の失敗を覚えてすらいない。それが、ありがたかった。


リーデンの塩屋のおやじは、2週間ぶりの俺を見て言った。


「おう塩の兄ちゃん、久しぶりじゃねえか。儲かって足を洗ったのかと思ったぜ」


「逆だよ。損して出戻り」


「はっは。行商なんてそんなもんだ。うちの親父も3回すっからかんになった。それでも塩は毎日売れる。海はなくならねえからな」


海はなくならない。含蓄なのか、ただの事実なのか。NPCの台詞は時々、妙に効く。


違うのは、歩きながら考えていることだった。以前の俺は「今日の歪み」を探して歩いた。今の俺は「毎週続く流れ」を探して歩いている。


リーデンの塩屋のおやじ、バルガの雑貨屋、エルムのロッド。顔なじみの相手と、決まった量を、決まった値で。この線を太くして、束ねたら、何になる?


夜の噴水前には、草の売り手が20人ほど戻ってきていた。買い取りを止めていた2週間、彼らは道具屋の列に並び直していたらしい。


「お兄さん、もう変な博打やめてよね」と例の少年に説教された。「お兄さんの買い取りが止まると、俺たちの晩飯のグレードが下がるんだから」


返す言葉がなかった。俺の博打は、俺一人の博打じゃなかったわけだ。買い取りの窓口ひとつでも、続くと思って生活を組む人間がいる。商いが続くことそのものが、商品の一部なんだ。


【所持金】17240ゼル


金曜の夜、俺は残した鉄100個を荷車に積んだ。


行き先はバルガの、鍛冶場が並ぶ坂の上だ。


◇――――――――――

【行商人の帳面 その15】

・卵を一つの籠に盛らない。籠が同じなら、卵の種類を変えても分散にならない。

・3本の路線は、1本が痩せても残りが生きる。これが分散投資の本当の効き目。

・一つの読みに3割まで。売り先が決まってから買う。「いつか」でなく「毎週」。

・規則は負けた直後でなく、次に勝った日に読み返す。

◇――――――――――

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