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第13話 損切りは音がしない

火曜の朝、講義の前に決めた。


1限の教室に向かう途中、掲示板のアプリをもう一度だけ見た。鉄の売り気配、22。昨夜より一段深い。「30まで戻したら売る」と書き込んでる奴がいた。俺と同じ祈り方だった。祈りは、注文じゃない。祈ってる間も、板は沈む。


決めたのは、値段じゃない。順番だ。「戻ったら売る」は、相場に決めさせる順番。「今売る」は、俺が決める順番。3日間相場に主導権を握られて、ろくなことがなかった。最後くらい、こっちの手で終わらせる。


昼休み、学食の隅でログインする。短時間ログイン用の携帯端末モードは、こういう日のためにあるんじゃないと思う。


鉄鉱石、500個を成行で売る。


1個22ゼル。1万1000ゼル。


木材250本も投げた。1本10ゼル。2500ゼル。


音はしなかった。ボタンを押しただけだ。2万9600ゼルで買った山のうち、500個と木材が、1万3500ゼルになって現金に戻った。


押す直前まで、指は震えるんじゃないかと思っていた。実際は、何ともなかった。決めるまでが地獄で、決めたあとは事務だった。損切りってのは崖から飛び降りることじゃなくて、もう履けなくなった靴を捨てることに近い。捨てた瞬間より、捨てると決めるまでの3日間のほうが、ずっと痛い。


講義で習った言葉なら、サンクコスト——埋没費用だ。もう払ってしまった2万4600は、売っても持っても戻らない。戻らない金は、今日の判断の材料にしちゃいけない。教科書はそう言う。そして人間は、戻らない金ほど判断の材料にする。「ここまで払ったんだから」。その一言が、損を倍にする。


売った500個は、30分もしないうちに誰かの買い注文に吸われていった。22なら買う、という誰かが板の向こうにいる。俺の損切りは、その誰かの仕入れだ。市場ってのは薄情なようで、よくできてる。誰かの終わりの値段が、いつも誰かの始まりの値段になっている。


いつか俺も、誰かの投げ売りを22で拾う側に回るんだろう。そのとき、板の向こうの指の震えを、少しは分かる買い手でいられるといいけど。


鉄の残り100個だけは、売らずに倉庫へ残した。相場がどうであれ、鍛冶屋が実際に使う分の需要は消えていない。これは「いつか」の賭けじゃなく、目の前の実需で捌ける量だ。


精算する。


売った500個の損が9500。木材で2500。倉庫代が500。実現損、合わせて1万2500ゼル。残した鉄100個の含み損が1900。総額、1万4400。


祭りの3日間で稼いだ純利が1万4940だから——ひと月半かけて積んだ勝ちが、9日でほぼ丸ごと消えた計算になる。


【所持金】16340ゼル


学食の喧騒が、やけに遠かった。


不思議なもので、悔しさより先に来たのは、変な静けさだった。3日間、頭の中で鳴りっぱなしだった「待てば戻るかも」のノイズが、売った瞬間にぴたりと消えた。含み損ってのは、金だけじゃなくて頭の中の帯域も食う。切って初めて、それが分かった。


夕方、バルガの倉庫を解約しに行った。空になった倉庫は、借りたときより広く見えた。週500ゼルの家賃で、俺はここに「いつか」を保管していたわけだ。世界で一番かさばる在庫だった。


「ソーマ、お前飯食ってねえじゃん。どうした?」


向かいでレンがラーメンをすすっている。


「相場で負けた」


「……いくら?」


「ひと月半分」


「まじか」


レンは箸を置いた。笑わなかったし、だから言ったとも言わなかった。


「で、どうすんの。やめんの?」


「レン。お前、レイドで全滅したら剣やめるか?」


「は? やめねえよ。装備立て直して再戦だろ」


「だよな」


「……あー、そういうことか。じゃあ聞くのは野暮だったな」


あいつは少し考えて、ラーメンを半分、俺の器に移した。


「食え。負けた日は食うんだよ。うちのクラン、全滅した夜は全員で飯食う決まりになってる」


「……ありがとう」


「立て直したら教えろ。うちのクラン、たぶん近いうちにお前に頼みごとすると思うから。素材の調達とか」


「頼みごと?」


「まだ言えねえ。言えるようになったら言う」


教わったんだ。全滅は撤退の理由であって、引退の理由じゃない。あいつは剣で、俺は相場で、同じことをやるだけだ。


ただ、一つだけ自分に言っておきたいことがあった。読み自体は、たぶん外れていない。攻城戦はいつか来るし、来れば鉄は上がる。なのに俺は負けた。読みが当たる未来でも俺だけ死ぬ張り方を、自分でしていた。


夜、ウィスパーが1件届いた。


『ユキハ:今月の護衛代、いいよ。次のときでいい』


画面を見て、俺は少しだけ笑った。


護衛代を「いい」と言ってくれる護衛は、たぶんいい護衛だ。でも、その申し出を受ける雇い主は、たぶん悪い雇い主だ。今月の600ゼルを浮かせて、その何倍もの信用を失う。損得の勘定としても、割に合わない。


それに——これは負け惜しみじゃなく——俺は破産したわけじゃない。1万6000残ってる。500ゼルから始めた人間が、1万6000を「壊滅」と呼んだら、あの頃の俺に笑われる。


それから返信した。


『払う。今夜、いつもの西門で』


◇――――――――――

【行商人の帳面 その13】

・もう払ってしまって戻らない金がサンクコスト。今日の判断の材料にしない。

・「ここまで払ったんだから」が、損を倍にする。

・損切りは値段で決めない。順番で決める。相場に決めさせるか、自分で決めるか。

・含み損は、金だけでなく頭の中の帯域も食う。

◇――――――――――

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