第3話 官邸の静観
【東京・首相官邸】
2026年6月20日 02:00
深夜2時を回った首相官邸は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
かつて自衛隊が存在した時代であれば、市ヶ谷の防衛省地下にある中央指揮所と官邸がデータリンクで直結され、緊迫した防衛会議が召集されていたはずの時間である。しかし今、官邸の廊下を走る足音は、背広を着た文官と政治家たちのものだけだった。
臨時の閣僚懇談会が開かれた会議室。中央に座る総理大臣の前には、数枚の紙が並べられている。そこに記載されているのは、沖縄の日本災害救助隊や外務省の現地ルートから上がってきた、台湾海峡における「実戦」の初期情報だった。
「総理、沖縄の現地自治体から悲鳴のような連絡が入っています」
内閣官房長官が、眉間を指で揉みながら報告を始めた。
「嘉手納および普天間の旧米軍基地――現在は在日中国軍基地ですが、そこから多数のミサイルが発射され、爆撃機が台湾に向けて出撃したのを、周辺住民が目撃しています。SNS上は既にパニック状態です。政府はこれを把握しているのか、なぜ止めないのかと」
総理大臣は、組んだ両手の指をじっと見つめたまま、低く平坦な声で答えた。
「止める権限など、我が国にはない。日中安全保障条約に基づき、基地の運用権は全面的に彼らにある。それに……これは再三中国側が主張している通り、彼らの『国内問題』だ。他国の内政に干渉しないのが、我が新政権の不干渉外交の基本方針だろう」
「しかし、国民の目にはそう映りません!」
社会党系の国務大臣が机を叩いた。
「我が国の領土が、事実上の戦闘拠点として使用されているのです。これでは日本が戦争に加担していると世界から見なされます。せめて中国側に自制を求める声明を出すべきです!」
「馬鹿なことを言うな」
間髪入れずに、共産党系の国務大臣が冷ややかに遮った。
「下手に中国を刺激して、日中安保を破棄されたらどうする。今のアメリカの経済制裁下で、我が国にエネルギーと食料を融通してくれているのはどの国だ? 自衛隊を解体し、丸腰となった我が国が生き残る道は、中国との信義を守ることだけだ。余計な動きをして、火の粉を本土に呼び込む必要はない」
「そうだ」と、総理大臣が深く頷いた。
「我々は憲法第9条を遵守し、いかなる軍事力も持たないと誓った。戦わない国なのだ。台湾の件は不幸な事態だが、日本が関与すべきではない。官房長官、報道陣への対応は『事態を極めて重大な関心をもって注視している』の一点張りで通せ。それ以上は何も喋るな」
平和の追求という大義名分のもと、思考を停止させた最高権力者たちは、揃って書類から目を背けた。
【アメリカ・ワシントンD.C.(ホワイトハウス・シチュエーションルーム)】
2026年6月20日 02:30(現地時間 19日 13:30)
地球の反対側にあるホワイトハウスの地下会議室は、東京とは対照的に、怒号に近い議論が渦巻いていた。
大型スクリーンには、炎上する台湾全土の衛生画像がリアルタイムで映し出されている。しかし、米軍の参謀たちが最も深刻な表情で凝視していたのは、台湾の北東に位置する「日本列島」のデータだった。
「信じられん。東京の連中は、本当に何もしないつもりか」
国家安全保障問題担当の大統領補佐官が、信じられないといった様子で頭を抱えた。
「沖縄の旧我が方の基地から、中国軍のミサイルが次々と発射されている。これは実質的に、日本が中国の侵略行為の前進基地になったことを意味するぞ」
「最悪のシナリオです」
統合参謀本部の将官が、苦渋に満ちた表情で地図を指し示した。
「かつて日米安保が生きていた頃、我々は横須賀、佐世保、嘉手納を拠点に、即座に台湾海峡へ航空・海上戦力を展開できました。しかし今、それらの基地はすべて失われ、日本側の領空・領海は『同盟国である中国軍』の防空識別圏として機能しています。グアムやハワイから米軍機を向かわせようにも、日本の空を迂回しなければならず、作戦効率は最悪です」
「日本を攻撃できないのか?」
大統領補佐官の問いに、将官は首を振った。
「現在の日本は自衛隊を解体し、名目上は『完全な非武装国家』です。そこに我々が先制攻撃を仕掛ければ、国際世論はアメリカを『無抵抗の平和国家を襲った侵略者』と非難するでしょう。中国のプロパガンダに格好の餌を与えることになります。東京の親中政権は、中国軍にとってこれ以上ない完璧な『人間の盾』として機能しているのです」
デスクの最上席に座るアメリカ大統領は、険しい表情でホワイトハウスのロゴが刻まれたペンを弄んでいた。
かつての従順な同盟国は、今や最大の障害物へと変貌していた。アメリカが関与を強めれば強めるほど、日本の存在が足枷となって突き刺さる。
「……まずはフィリピン海の第7艦隊を北上させろ。だが、日本の領海には絶対に近づけるな」
大統領は冷たく言い放った。
「東京の連中がいつまでその『平和の仮面』を維持できるか、見ものだな」
極東の天秤が完全に傾いたまま、開戦から2時間半が経過しようとしていた。平和を叫び、牙を抜いた日本の沈黙が、台湾の首を静かに絞め続けている。




