第9話 ブリュッセルの朝
【ベルギー・ブリュッセル(EU本部)】
2026年6月20日 08:30(現地時間 20日 01:30)
深夜のブリュッセル。欧州連合(EU)本部のガラス張りの高層ビル群は、緊急呼び出しを受けた各国代表の車列と報道陣のフラッシュで騒然としていた。
本部内の会議室では、欧州委員長をはじめとするEU首脳陣と、加盟国の外相たちが緊急のビデオ会議を開いていた。画面越しに映し出されるフランス大統領やドイツ首相の顔には、隠しきれない疲労と困惑が滲んでいる。
「事態は極めて深刻だ。中国による台湾侵攻が始まっただけでなく、極東の地政学リスクが完全に爆発した」
欧州委員長が、手元の資料をめくりながら重い口を開いた。
「ワシントンからは、中国に対する全面的な経済制裁と海上封鎖への参加、そして中国と同盟を結び軍事拠点を供与している日本に対する、第二次二次制裁の即時発動を要請してきている。我々としても、強硬な姿勢を示さなければならない」
だが、画面の向こうのドイツ首相は、苦々しい表情で首を横に振った。
「慎重になるべきだ。制裁を科すこと自体に異論はない。しかし、中国に対する全面的な制裁は、そのまま欧州経済の息の根を止めることになる。特に我が国の自動車産業や精密機械産業は、中国市場と供給網なしには一日たりとも成り立たない」
「同感だ」と、フランス大統領も同調した。
「さらに問題なのは日本の存在だ。日本がアメリカとの同盟を破棄し、自衛隊を解体して中国と安全保障条約を結んだことで、アジアにおける欧州の足場は完全に消滅した。かつて我々が安全保障上のパートナーとしていた日本は、今や中国の『軍事の盾』だ。その日本にさらなる制裁を科せば、日本を経由していたわずかな素材や部品の供給すら途絶し、世界的なサプライチェーンは壊滅する」
「では、台湾を見捨てるというのか!」
東欧の加盟国代表が激昂した。
「力による既存の秩序の変更を容認すれば、次は我々の隣国であるロシアが勢いづく! ウクライナの二の舞だ!」
「感情論では世界経済の崩壊は防げない!」
ドイツ首相が激しく言い返す。
「アメリカは自国第一主義に走り、自ら日本を突き放してあのような極左政権を生み出させたのだぞ! そのツケをなぜ欧州が払わなければならないのか!」
会議は初めから紛糾を極めた。
中国への強い経済依存、そして「非武装国家」となり中国陣営へ組み込まれた日本という異物。この二つの巨大な壁が、欧州の足並みを完全に乱していた。民主主義の価値観を守るべきだという道義心と、目前の経済破綻への恐怖。その板挟みの中で、EUの決定能力は急速に麻痺していった。
【ベルギー・ブリュッセル(NATO本部)】
2026年6月20日 08:50(現地時間 20日 01:50)
同じブリュッセル市内にある北大西洋条約機構(NATO)本部でも、同様の絶望が漂っていた。
軍事委員会に出席している各国の制服組トップたちは、アジアの地図を囲み、言葉を失っていた。
「北緯35度以北のアジア太平洋地域は、完全に沈黙したと言っていい」
軍事委員長が、ため息まじりに報告する。
「かつて我々がインド太平洋戦略の要と位置づけていた日本は、自衛隊を解体して非武装化し、中国軍の巨大な前進基地となった。韓国は北朝鮮と日本からの挟み撃ちを恐れて動けず、オーストラリアやニュージーランドも、日本海域という防壁を失ったことで戦力展開が不可能な状態だ」
「集団的自衛権の発動は?」
参謀の問いに、軍事委員長は首を振った。
「台湾はNATOの適用範囲外だ。それどころか、アメリカが日本領土内にある中国軍基地を攻撃した場合、日本と中国はそれを『平和国家に対する不当な侵略』と主張するだろう。軍事的に見れば、アメリカは一切の後方支援拠点を欠いた状態で、中国の圧倒的な物量と戦わなければならない。これは勝負にならない」
欧州の軍首脳たちが突きつけられたのは、あまりにも凄惨な現実だった。
日本が自ら武装を放棄し、中国の軍事傘下に入ったというたった一つの出来事が、地球の反対側にいるNATOの戦略をも完全に無力化していたのだ。
【東京・首相官邸】
2026年6月20日 09:00
朝の光が差し込む東京。官邸の執務室では、総理大臣が外務省からの欧州情勢に関する報告を聞いていた。
「EUおよびNATOの緊急会議は、制裁案を巡って完全に空転しています。ドイツやフランスをはじめとする主要国が、中国および我が国への制裁に難色を示している模様です」
外務大臣の報告に、総理大臣は深く頷き、満足げな笑みを浮かべた。
「見たまえ。これが我が政権の『平和外交』の結実だ。我が国が軍備を全廃し、日中安保という新たな現実を提示したことで、欧州の好戦的な勢力も軍事介入を躊躇せざるを得なくなったのだ。軍隊を持たないことが、最大の抑止力になるという証明だ」
総理大臣は自分の論理の完璧さに酔いしれていた。
欧州が躊躇している本当の理由が、自国の経済的保身と、無抵抗の日本が中国の「人質」兼「最強の盾」と化したことへの絶望であることに、彼は最後まで気づこうとしなかった。
「このまま欧州が静観姿勢を保てば、アメリカも引き下がるしかない。台湾の件も、最小限の流血で『解決』するだろう」
首脳陣が安揚とした空気に包まれる中、極東の海では、欧州の無力化を確信した中国軍が、次なる致命的な一打を台湾へ叩き込もうとしていた。




