第10話 極東の熊
【ロシア・モスクワ(クレムリン)】
2026年6月20日 10:00(現地時間 20日 04:00)
黎明の光がクレムリンの赤い星をほのかに照らし出す刻限。
重厚な革張りの椅子に深々と腰掛けたロシア大統領は、手元の極秘報告書に静かに目を通していた。
長引くウクライナでの消耗戦、欧米からの容赦ない経済制裁。ロシアの国力は確実に削り取られていたが、その眼光はなおも冷徹な計算に満ちていた。
「東京の道化たちが、期待以上の仕事をしてくれたな」
ロシア大統領は低く短い笑みを漏らし、傍らに立つ安全保障会議書記に視線を向けた。
「ハバロフスクおよびウラジオストクの太平洋艦隊、ならびに第11航空・防空軍に通達。予定通り、北海道沖および宗谷海峡、千島列島周辺において大規模な『海上・対空演習』を開始せよ。実弾射撃を伴う最大警戒体制だ」
書記は不敵な笑みを浮かべて頷いた。
「了解いたしました。自衛隊という脅威が消え去った今、北海道の北方は完全に我々の庭です」
「過度な介入は不要だ」と、大統領は念を押した。「我々の目的は二つ。一つは、アメリカと韓国に対し、極東における第二の戦線を強く意識させること。そしてもう一つは、北京に対し、我々が後方を完璧に遮断してやったという『貸し』を作ることだ。中国が台湾を呑み込み、アメリカが西太平洋から叩き出されれば、我々のウクライナにおける手縛りも完全に解ける」
数分後、ロシア太平洋艦隊のミサイル巡洋艦や大型反潜艦、そして極東の空軍基地から飛び立った爆撃機群が、一斉に作戦行動を開始した。
【日本・北海道(宗谷海峡およびオホーツク海沿岸)】
2026年6月20日 10:30
初夏の清々しい風が吹く北海道の最北端、宗谷岬。
観光客の姿もない静寂の海に、地響きのような重低音が轟いた。
水平線の向こうで、ロシア海軍の巨大な艦艇群が白波を立てて展開し、艦砲の演習射撃による水柱が遠く立ち上った。上空では、ロシア軍の大型爆撃機が重厚な機影を晒しながら、日本の領空スレスレのルートを堂々と旋回している。
かつてこの地には、陸上自衛隊の北部方面隊という強力な鉄の壁が存在していた。精鋭の機甲師団と対舟艇ミサイル部隊が目を光らせ、海上自衛隊の哨戒機がロシア艦隊の動きを分単位で追跡していた。ロシア軍にとって、北海道は安易に近づけない「最前線の要塞」であった。
だが、現在の稚内や網走にいるのは、オレンジ色の作業服を着た「日本災害救助隊」の隊員たちだけだった。
彼らの手元にあるのは、演習の重低音に震える緊急無線と、双眼鏡だけである。
「隊長……ロシア軍の爆撃機が、我が国の領空に入りそうです! 外務省を通じて警告を出しますか!?」
若い隊員が、顔を蒼白にして叫んだ。
隊長は力なく首を横に振った。
「我々には領空侵犯を警告する権限も、スクランブル発進させる戦闘機もない。政府からの指示は『ロシア軍の活動は事前に通告された通常の演習であり、過剰に反応して刺激しないこと』だ。ただ記録をとれ」
「しかし! これでは北海道が丸裸ではありませんか! もし彼らが乗り込んできたら……!」
「……それが、我が国が選んだ『非武装』という現実だ」
隊長は言葉を詰まらせ、言葉を飲み込んだ。
かつて自衛隊が守っていた北の守りは、今や完全に消失していた。ロシア軍は、自衛隊が消えた北海道の北方を「脅威ゼロの安全地帯」として悠々と利用し、圧力を強めていた。
【韓国・ソウル/アメリカ・ワシントン】
2026年6月20日 10:45
ロシアの動撃は、ただちに米韓の司令部を揺るがした。
「宗谷海峡および日本海北部でロシア軍が大規模演習を開始! 太平洋艦隊の主力が出撃しました!」
ワシントンのペンタゴンに激震が走る。
「ロシアまでもが連動して動き出したか……! これでは第7艦隊の残存戦力やグアムの航空部隊を、アラスカや日本海北方の警戒に割かざるを得ない!」
統合参謀本部の将官が苦汁をなめるように叫んだ。
日本の自衛隊が存在していた頃なら、北海道の北方防衛は自衛隊に全面的に委ね、米軍はすべての戦力を台湾海峡の南下に集中させることができた。しかし今、日本の北方は完全に無防備の空洞となり、そこからロシアの戦力が自由に太平洋へ抜け出せる状態になっている。米軍は南の中国、北のロシアという巨大な二正面の圧力を、自前の戦力だけで受け止めなければならなくなったのだ。
【東京・首相官邸】
2026年6月20日 11:00
官邸の執務室では、総理大臣がロシアの演習に関する報告を受けていた。
「総理、ロシア軍の北方での動きに対し、アメリカ側から『日本政府は即刻ロシアに抗議し、自国の領海・領空の防衛姿勢を示せ』との極めて強い不快感が示されています」
外務省の官僚が焦りを含んだ声で報告する。
しかし、総理大臣はゆったりとソファーの背もたれに体を預けたまま、満足げに微笑んだ。
「アメリカの焦りも理解できるがね、彼らは本質が見えていない。ロシアとの間には北方領土問題を含め長年の緊張があったが、我が国が自衛隊を解体し、真の非武装国家となったことで、ロシアにとっても我が国は『軍事的脅威』ではなくなったのだ。彼らの演習はあくまでアメリカに対する威嚇であり、無抵抗の日本を攻撃する意図など存在しない」
「ですが、北海道の住民からは不安の声が……」
「災害救助隊を現地に待機させている。何の問題もない」
総理大臣は一蹴した。
「我が国が防衛力を全廃したことで、中露朝という周辺の巨大な軍事強国すべてと『平和的均衡』が保たれているのだ。これこそが、我が連連立政権が証明した新時代の安全保障だ」
自国が周辺の覇権国家たちの戦略的駒として完膚なきまでに利用され、国土を都合の良い通路と防壁として差し出している事実を、最高権力者は「平和の成果」と呼び換えていた。
極東の地で、爪と牙を完全に抜かれた羊が「狼たちと平和に共存している」と信じ込んでいる間に、台湾海峡の炎は、いよいよ逃げ場のない惨劇のピークへと向かっていた。




