第4話 補充
あの女が、ついてくる。
エレベーターを降りてから、ずっと。半歩うしろ。距離は縮みも、離れもしない。僕が足を止めれば、止まる。振り返れば、目を伏せて、何でもない顔をする。
番人に連れて行かれた、あの男のことなど、もう忘れたように。さっき、僕の手首を逆に掴み返した手のことも。
撒けばいい。僕は奪う側の人間だ。隠していることもある。こんな女ひとり、人混みに紛れて消えるのは、簡単なことだ。
——なのに、しない。
ずっと欲しかったものが、自分から、ついてきている。
なぜ、こんな僕に——その訝りと、隠しきれない喜びが、僕の足を鈍らせていた。
胸の奥が、ざわつき始める。
気づけば指先がすれ違う人の鞄を探っている。奪えば、束の間、凪ぐ。けれど、すぐにまた、渇く。いつもより、ひどい。
薬を飲めばいい。飲めば1週間、この渇きは止まる。みんなそうしている。
——でも、飲んだ者の、あの目を僕は知っている。何も映さない、凪ぎきった目。少しずつ、何も欲しがらなくなって、いつか、空っぽの殻になる。あんなふうには、なりたくない。
だから僕は奪い続ける。渇いては奪い、また渇く。そうして僕は僕のままでいられる。
——それでも今日は行かなければならない。僕の番号の日だ。間を空ければ、番人が来る。あの場所へ。
摂取場は街の中ほどに、白い口を開けている。
この街はいつも、不自然なほど静かだ。怒鳴る者も、奪い合う者もいない。みな行儀よく、誰とも目を合わせず、凪いだ顔で、すれ違っていく。その静けさの源が、この、清潔すぎる建物だ。
長い列。誰も喋らない。順に進み、小さな窓口で、薬をひと粒、受け取る。係の——表情のない番人が1人ずつを見ている。その場で飲め、と。持ち出しは許されない。
飲み込むまで、目を逸らさない。喉の動きを、確かめるように。
みんな素直に飲む。飲めば、胸のざわめきは凪いで、また"普通"に戻れるから。明日も働き、電車に乗り、誰かとすれ違える、無害な顔に。
あの女も同じ列にいた。番号が、たまたま、僕と同じなのか? まあいい、僕にとっては好都合だ。あの女が何なのか、突き止めやすい。
僕の番が来る。
手のひらに、薬が落ちる。番人の目が、僕を覗き込む。
口へ運ぶ。舌の裏に、滑り込ませる。喉を、鳴らす。——空っぽの、嚥下。
飲んだ、フリ。
喜びに満ちた表情が、表に出る前に。口元を払い、それを、手のなかへ。
番人は何も言わなかった。次、と、平らな声がするだけ。
ポケットの奥で、今日のひと粒が他の粒達と一緒になることを望んでいる。
もう、いくつになっただろう。
僕を鎮めるはずの薬はいつのまにか、いちばん飲めない——いちばん、集めたいものに、なっていた。
飲めば、楽になる。わかっている。なのに、飲めない。
飲めば、減る。手放すことに、なる。
僕の穴は、治す薬さえ、呑み込んでいく。
列を出ると、女が、立っていた。
見ていた。僕の口元を、喉を、手のひらを。ぜんぶ。
咎める目では、なかった。
——わかる。とでも、いうような。
彼女もまた、何かを、隠している目だった。
その瞬間、僕は気づいてしまった。
この女のことを、僕は何ひとつ知らない。名前も、声も、腹の底に飼っている欲も。
手を伸ばして、掴んで、奪えば——壊れる。怯えた顔の奥にあるものは、二度と、見られなくなる。
欲しいのは、それじゃ、ない。
僕は彼女の、ぜんぶが知りたい。
知って、見て、そばに置いて、独り占めにしたい。壊さずに。手放さずに。
——ああ、これも、おなじだ。
いちばん手に入らなくて、いちばん、欲しい。
女は何も言わず、また半歩うしろへ戻る。
僕は歩き出す。ポケットの薬と、背中の視線をどちらも抱えたまま。
穴は、塞がらない。
ただ、その縁が、ほんの少しだけ、あたたかい気がした。




