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欲の理(よくのことわり)  作者: utsu_ro
第一章「世界の正体」
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第4話 補充

 あの女が、ついてくる。


 エレベーターを降りてから、ずっと。半歩うしろ。距離は縮みも、離れもしない。僕が足を止めれば、止まる。振り返れば、目を伏せて、何でもない顔をする。

 番人に連れて行かれた、あの男のことなど、もう忘れたように。さっき、僕の手首を逆に掴み返した手のことも。


 撒けばいい。僕は奪う側の人間だ。隠していることもある。こんな女ひとり、人混みに紛れて消えるのは、簡単なことだ。

 ——なのに、しない。


 ずっと欲しかったものが、自分から、ついてきている。

 なぜ、こんな僕に——その訝りと、隠しきれない喜びが、僕の足を鈍らせていた。


 胸の奥が、ざわつき始める。

 気づけば指先がすれ違う人の鞄を探っている。奪えば、束の間、凪ぐ。けれど、すぐにまた、渇く。いつもより、ひどい。

 薬を飲めばいい。飲めば1週間、この渇きは止まる。みんなそうしている。

 ——でも、飲んだ者の、あの目を僕は知っている。何も映さない、凪ぎきった目。少しずつ、何も欲しがらなくなって、いつか、空っぽの殻になる。あんなふうには、なりたくない。

 だから僕は奪い続ける。渇いては奪い、また渇く。そうして僕は僕のままでいられる。

 ——それでも今日は行かなければならない。僕の番号の日だ。間を空ければ、番人が来る。あの場所へ。


 摂取場は街の中ほどに、白い口を開けている。


 この街はいつも、不自然なほど静かだ。怒鳴る者も、奪い合う者もいない。みな行儀よく、誰とも目を合わせず、凪いだ顔で、すれ違っていく。その静けさの源が、この、清潔すぎる建物だ。

 長い列。誰も喋らない。順に進み、小さな窓口で、薬をひと粒、受け取る。係の——表情のない番人が1人ずつを見ている。その場で飲め、と。持ち出しは許されない。

 飲み込むまで、目を逸らさない。喉の動きを、確かめるように。


 みんな素直に飲む。飲めば、胸のざわめきは凪いで、また"普通"に戻れるから。明日も働き、電車に乗り、誰かとすれ違える、無害な顔に。


 あの女も同じ列にいた。番号が、たまたま、僕と同じなのか? まあいい、僕にとっては好都合だ。あの女が何なのか、突き止めやすい。


 僕の番が来る。

 手のひらに、薬が落ちる。番人の目が、僕を覗き込む。

 口へ運ぶ。舌の裏に、滑り込ませる。喉を、鳴らす。——空っぽの、嚥下。

 飲んだ、フリ。

 喜びに満ちた表情が、表に出る前に。口元を払い、それを、手のなかへ。


 番人は何も言わなかった。次、と、平らな声がするだけ。


 ポケットの奥で、今日のひと粒が他の粒達と一緒になることを望んでいる。

 もう、いくつになっただろう。

 僕を鎮めるはずの薬はいつのまにか、いちばん飲めない——いちばん、集めたいものに、なっていた。


 飲めば、楽になる。わかっている。なのに、飲めない。

 飲めば、減る。手放すことに、なる。

 僕の穴は、治す薬さえ、呑み込んでいく。


 列を出ると、女が、立っていた。

 見ていた。僕の口元を、喉を、手のひらを。ぜんぶ。


 咎める目では、なかった。

 ——わかる。とでも、いうような。

 彼女もまた、何かを、隠している目だった。


 その瞬間、僕は気づいてしまった。

 この女のことを、僕は何ひとつ知らない。名前も、声も、腹の底に飼っている欲も。

 手を伸ばして、掴んで、奪えば——壊れる。怯えた顔の奥にあるものは、二度と、見られなくなる。

 欲しいのは、それじゃ、ない。


 僕は彼女の、ぜんぶが知りたい。

 知って、見て、そばに置いて、独り占めにしたい。壊さずに。手放さずに。


 ——ああ、これも、おなじだ。

 いちばん手に入らなくて、いちばん、欲しい。


 女は何も言わず、また半歩うしろへ戻る。

 僕は歩き出す。ポケットの薬と、背中の視線をどちらも抱えたまま。


 穴は、塞がらない。

 ただ、その縁が、ほんの少しだけ、あたたかい気がした。

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