第2話 我慢
スーパーは、今日も静かに回っている。人々は黙々と買い物をし、レジを通り、すれ違っていく。誰とも、目を合わせずに。
私もその中に紛れる。表情を消して、心のないフリをする。じゃないと、"普通"がバレてしまうから。
ふいに、前の人が缶詰を落とした。私の手が、勝手に、拾い上げようと動く。——慌てて、止めた。こんな世界で"親切"は、自分がまだ"まとも"だと白状するのと同じだから。誰かに見られなかっただろうか。
私だけ、欲に呑まれない。
霧を浴びても、私の中の"いちばん強い欲"は暴れ出さなかった。誰もが自分でも知らない欲を腹に飼って生きる世界で——私だけが、空っぽだった。それが隠さなければならない秘密。
見つかれば、連れて行かれる。
欲を持たない者はこの世界では厄介な"例外"でしかない。どこへ運ばれ、どうなるのか——それを知る者は誰も、戻ってこなかった。だから私は心を無くしたフリを続ける。
通りへ出る。
一見、何も変わらない。人々は店に並び、すれ違い、形だけの挨拶を交わす。けれど、その目はいつも互いを探り合っている。笑みは唇から先へは届かない。
誰も相手が腹の底に何を飼っているのか分からない。——いや、自分自身ですら、それが暴れ出すまで、知らないのだ。だから皆、上辺だけの軽い言葉を交わしては、すぐに離れていく。深く踏み込めば、何が這い出てくるか分からないから。
欲が見えない世界では、人の中身も、見えない。
それでも時折、その中に、何かが完全に壊れてしまった者が混じる。道の真ん中で、誰かに延々と命令を浴びせ続ける男。理由もなく、繰り返し壁を殴り続ける誰か。ああいうのには、近づかないほうがいい。
私は俯いて、その隙間をすり抜けていく。誰かを気遣いそうになるたびに、その手をぐっと止めながら。
手が動きそうになるのは、本当に私の心からの行動なのか? そんな事を疑問に感じながら思考を巡らせては、目的なき道を彷徨う。
部屋に帰る。
壁一面に、新聞の切り抜きと、地図。それを囲むように、目撃情報を貼り重ねてある。背の高い、黒い人影。あちこちで、ほんの一瞬だけ現れては消える、輪郭の曖昧な"何か"。
私は、ずっと探していた。
——自分が、ほんとうは何を"欲しい"のかを。
地図には、影が目撃された場所に、印が散っている。どれも、街の"外側"——管理の手がほどけ、人が壊れていくほうへと、寄っていた。欲に堕ちた者ほど、なぜか、あの影へ吸い寄せられていく。
けれど、外側へ続く道には、検問がある。私みたいな"普通"の人間はそこで連れて行かれてしまう。一人では、近づけない。
だから、決めた。
いちばん欲の深い男を、見つけて、追う。欲に呑まれたその足は、きっと、管理の外へ——あの影のもとへ、私を運んでくれるはずだから。
一棟のビルを見上げる。
ここだ。
エレベーターに乗る。
箱の中はうつろな目をした人たちで埋まっていた。そこへ、ひとり、乗り込んでくる。
全身黒の、フードを目深に被った男。
手当たり次第に人のものを奪い、ポケットを盗品で膨らませている。誰よりも、欲が深い。
——そして、見つけた。
私は鞄を胸に抱きしめ、怯えた目を作る。襟を正し、小さく震えてみせる。息をひそめて"我慢"している、ただの女のフリ。
男の目が、私を捉えた。
何かに気づいたみたいに、その手が、ゆっくりと伸びてくる。
怖がる顔をつくるのは、得意なの。
差し出された手の奥で、私の心臓だけが、静かに鳴っていた。
伸びてきた手首を、私の手が、掴む。
逆に。
男が、息を呑むのがわかった。
私は、笑う。
私の"我慢"は——あなたみたいな獲物を、逃さないための、ものだったの。
——彼女が"我慢"していた、本当の理由。
そして、暴れ出さない彼女の"最も強い欲"とは、いったい何なのか。
次話は、また別の誰かの"本性"を。
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