第1話 正直
電車が揺れる。僕の手は、もう動いていた。
隣に立つ女性の、半分開いたトートバッグ。その奥で画面が光っている。指を差し入れて、スマートフォンをそっと抜き取る。手のひらにおさめて、自分のパーカーのポケットへ落とした。
盗んだわけじゃない。
ただ、欲しかった。それだけのことだ。
ポケットの中で、それは先客達とぶつかって硬い音を立てた。もう何台になるだろう。財布も、鍵も、知らない誰かの写真も。入れても、入れても、足りない。
昔の僕にはできなかったことだ。
欲しくても、言えなかった。人のものを羨んでは家に帰り、安物を買い集め、棚に並べて、それで自分をなだめていた。集めても集めても満たされない、気の弱い男。それが僕だった。
でも——あの霧の朝から、世界は、正直になった。僕も……その1人だった。
顔を上げると、車内の景色が目に入る。
誰もが虚ろな様子で何かを求めている。
空の容器が積み上がった横で食事をしている奴、前の女性に舐めるような視線を送る奴、スマホの中で生きているかのように没入した表情を浮かべる若者。咎める声はない。みんな自分の求めているものに、ただ真っ直ぐだ。
それが、今の世界では当たり前なのだ。
電車を降りて、公園を抜ける。
ベンチに子どもがひとり、置き去りにされて泣いていた。その隣で、母親が両手でケーキを掴み、貪るように食べている。子どもの声はもう、聞こえていないみたいだった。
会社に着く。
電車や公園で食べ物を見たせいか、お腹が空いてきた。同僚の机の上に、買ってきたばかりの弁当があった。それを当たり前みたいに食べた。自分の机の上には最近どこかから奪ってきたものが積み上がっている。ペン、時計、小銭、見覚えのない写真立て。
なのに——どれだけ奪っても、満たされない。
胸の真ん中に、穴がある。その穴は奪うほどに、少しずつ広がっていく気がした。
ふと、窓の外へ目をやる。
遠くのビルの屋上に、誰かが立っていた。背の高い、真っ黒な人影。顔も、輪郭も、よく見えない。それは霧のようだった。けれど確かに、こちらを——いや、何も映していない目で、ただ、立っていた。
瞬きをすると、もう、いなかった。
何だったのか、と思ったが、いつも流れるニュースの音を聞いて、考えるのをやめた。
ニュースを読むのは淡々とした女性アナウンサーだけ。何が起きても、その声だけが奇妙なほど落ち着いていた。
国は壊れた。
法も、秩序も、優しさも、とっくに溶けて消えた。なのに不思議と、笑い声だけが増えていく。僕の中の穴と、一緒に。
夕方、ビルのエレベーターに乗る。
箱の中には何人もの人がいた。みんなうつろな目で、互いの何かを物色している。
——その中で、ひとりだけ。
若い女性がスーツの襟を几帳面に正し、鞄を胸に抱きしめていた。怯えた目で、正直者たちを見ている。奪わない。漁らない。ただ息をひそめて、耐えている。
彼女だけが、まだ"我慢"を持っていた。
それを見て、ようやく分かった。
モノじゃ、この穴は埋まらない。ペンも、時計も、知らない誰かの写真も、ぜんぶ違った。
僕がほしかったのは、これだ。
彼女の中に、まだ残っている、その——"心"が。
僕の手が、伸びる。
——あなたの心の底で、いちばん強い欲は、なんだと思いますか。
次話「我慢」は、同じ瞬間を、"彼女"の側から描きます。
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