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旦那様、もう手遅れです。 わたしの心はずっと昔に壊れています。  作者: 渚月(なづき)


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第7話 裏切り者の椅子

裏切り者の椅子は、いつも居心地がいい。だからこそ、座った者は立ち上がれなくなる。


記録展示会の日が来た。


王宮大広間に、王国の主要な行政記録が並べられる年に一度の催し。表向きは市民への情報公開だが、実態は貴族たちの社交の場であり、誰がどの記録に興味を示すかを互いに探り合う、もうひとつの権力闘争の舞台だ。


わたしは公爵夫人として正装し、大広間に足を踏み入れた。ティルダが付き添っている。


広間は華やかだった。シャンデリアの光が大理石の床に反射し、貴族たちの宝石がきらきらと輝いている。その光景の中に、わたしの目はただ一つのものだけを探していた。宝石の輝きも、貴婦人たちの衣装の色彩も、今のわたしの目には入らない。かつてはこうした場で、自分がいかに場違いであるかばかり気にしていた。今日は違う。今日のわたしには、果たすべき目的がある。


徴税台帳の要約版。


リヒトの案内で、展示の一角に辿り着いた。彼は今日、展示会の管理担当として公式に配置されている。制服を着て背筋を伸ばしている姿は、普段の書庫の住人とは少し違って見えた。


「徴税台帳の要約はこちらです。ヴェーデル領の項目は三十二頁から」


リヒトの声は小さいが明瞭だった。わたしは台帳を開いた。


ヴェーデル公爵領。所領の一覧。収穫高。徴税額。すべての数字が整然と並んでいる。しかし――。


「ヴァルデン荘園の名前がない」


「ええ。所領台帳から抹消されている以上、徴税記録にも反映されていません。しかし」


リヒトがページの端を指さした。


「合計額を見てください。個々の所領の徴税額を足した合計と、最終行の合計額が一致しません」


数字を追った。確かに、個別の数字を合算すると、最終行に記載された合計額より少ない。差額は毎年ほぼ一定で、かなりの額だった。


「この差額は……」


「存在しないはずの所領からの徴税額です。つまり、ヴァルデン荘園は記録上は消えていますが、実際には存在し続けており、そこから上がる税収は誰かの懐に入っている」


これが、ロドルフとダリウスがヴァルデン荘園を隠蔽した理由だ。所領を台帳から消し、税収を横領していた。何十年にもわたって。


「金額の大きさから推測すると、荘園にはかなりの生産力がある。おそらく鉱山か、あるいは東方交易の中継点か」


「東方交易……ターメリックの流通経路と繋がる」


すべてが一本の線になりはじめた。ヴァルデン荘園は東方交易の中継点として機能しており、そこを通じてターメリックを含む高価な東方物資が密かに取引されている。ロドルフはこの利権を握り、ダリウスは共犯者として名義を貸していた。


そしてアーデルは、ロドルフが公爵邸を訪れた際に、この取引に関する何かを目撃した。


「リヒト。この差額の記録を、鑑定書に追加できる?」


「すでに計算は終わっています。過去十年分の数値の不一致を一覧にしてある」


彼はいつ準備したのだろう。わたしが頼む前に、もう動いていた。求められていない助言はしないが、必要な文書は黙って用意しておく。彼はそういう人だ。


わたしはリヒトの横顔を見た。展示会の管理担当として忙しく動き回りながらも、彼の手元には常にわたしの調査に関連する資料があった。いつからだろう。彼がわたしの調査を「職務」ではなく「自分のこと」として捉えるようになったのは。


それを聞く勇気は、まだなかった。



展示会の帰り道、予期せぬ人物に呼び止められた。


「公爵夫人。少しよろしいですか」


質素な装いの青年。穏やかな栗色の髪と、鋭い目。宝飾品はひとつも身につけておらず、衣服の仕立ても控えめだ。しかし、その立ち姿には王族にしか持ち得ない静かな威厳があった。王太子殿下だった。


わたしは膝を折り、礼をした。


「殿下。お声がけいただき光栄です」


「堅苦しいのは好みませんので。――立ってください」


王太子は周囲に人がいないことを確認してから、低い声で言った。


「あなたが書庫局で何を調べているか、耳に入っています」


鼓動が速まった。しかし、王太子の目に敵意はなかった。


「わたくしも、この王宮の中にある……不均衡に、心を痛めている者の一人です」


それだけ言うと、彼は一杯の水をわたしに差し出した。銀の杯に入った、ただの水。


「喉が渇いていませんか」


その水を受け取った瞬間、わたしは理解した。この人は味方だ。まだ表に出ることはできない。けれど、わたしの背中を見ている。


「ありがとうございます、殿下」


王太子は小さく頷き、人混みの中に消えていった。



その夜、公爵邸に戻ると、ギルモアが玄関で待っていた。


「奥様。旦那様が、書斎でお待ちです」


ダリウスが、わたしを呼んでいる。


書斎の扉を開けると、ダリウスが窓辺に立っていた。振り返った顔に、いつもの余裕はなかった。


「お前、展示会で何を見た」


「徴税台帳の要約です。公爵家の所領管理を勉強しようと思いまして」


「嘘をつくな」


ダリウスの声が低くなった。初めて聞く声色だった。怒りではない。恐怖だ。


「ロドルフから連絡があった。お前が余計なものを見たとな」


(ロドルフはもう動いている。フェリクスに流した偽情報は、展示会の行動で上書きされた)


わたしは静かに夫の目を見た。碧い瞳の奥に、わたしが五年間見たことのないものが渦巻いていた。焦燥。そして――罪悪感。


「旦那様。ヴァルデン荘園について、わたしに話していただけますか」


ダリウスの顔から血の気が引いた。


「どこまで知っている」


「すべてを知るために、調べています」


長い沈黙。


やがてダリウスは、窓辺の椅子に崩れ落ちるように腰を下ろした。裏切り者の椅子。居心地のいいはずの椅子が、今、彼の背骨を押しつぶしている。


「……あれは父の代からのことだ。わたしは引き継いだだけだ」


ダリウスの声には、弁解と告白の両方が混ざっていた。金色の髪が額に垂れ、碧い瞳が揺れている。完璧な貴公子の仮面が崩れた顔は、驚くほど幼く見えた。この人もまた、先代という重荷の下で押しつぶされていたのかもしれない。だからといって、わたしの心に同情が湧くことはなかったけれど。


「引き継いだだけ、で済むとお思いですか」


ダリウスは答えなかった。


わたしは書斎を出た。背中にダリウスの視線を感じた。


五年間、わたしの名前すら呼ばなかった夫が、今、わたしの背中を見ている。


廊下を歩きながら、わたしは自分の心に問うた。ダリウスに対して何を感じているのか。


怒りか。いいえ。怒りはとうに枯れた。


悲しみか。いいえ。悲しむにはまず、期待が必要だ。わたしはもう何も期待していない。


では何を感じているのか。


静かな透明感。それが一番近い。濁った水が長い時間をかけて澄んでいくように、わたしの心はようやく透き通りはじめていた。


皮肉なものだ。わたしが初めて夫の注意を引いたのは、微笑みでも従順さでもなく、真実を追う姿だった。


自室に戻ると、ティルダが待っていた。「お帰りなさいませ、奥様。今夜のお茶はカモミールをご用意しました。アーデルさんが、眠れない夜にはカモミールがいいって……」


彼女の声が途中でかすれた。アーデルの名前を出すたびに、ティルダの目は潤む。けれど彼女は泣き止み、背筋を伸ばし、茶を注いだ。


カモミールの湯気が、静かな部屋に立ちのぼった。


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