第6話 壁の向こうの共犯者
壁には耳がある。この邸では、それは比喩ではない。
フェリクスに偽の情報を流してから五日が経った。その間、わたしは表向き、書庫局への訪問を減らした。刺繍に打ち込むふりをし、社交の場では以前と同じ微笑みを浮かべた。
しかし水面下では、ティルダが動いていた。
彼女の仕事は単純だった。公爵邸の使用人たちの中で、ロドルフやダリウスと密かに接触している者がいないか、日常の行動を観察すること。ティルダはおっちょこちょいだが、人の懐に入る天性の才能を持っている。誰も、この十九歳の下級メイドを警戒しない。それがティルダの最大の武器だった。アーデルは生前、「見えない者になれることは、見える者になることより難しい」と言っていた。ティルダはその教えを、自覚なく体現していた。
「奥様。厨房のコック長が、月に一度、ハイデン侯爵邸に料理を届けていることがわかりました」
「料理を?」
「はい。ただ、不思議なのは、料理と一緒に封書も運んでいるみたいなんです。コック長、料理の箱の底に手紙を隠しているところを見ちゃいまして」
公爵邸から侯爵邸への秘密の連絡経路。料理の配達を口実にしている。
(ダリウスとロドルフの間に、正規のルート以外の通信手段がある)
「ティルダ。その封書の蝋封は見えた?」
「えっと……銀色だったと思います。公爵様のご紋章でした」
ダリウスの蝋封。銀地に青い鷲。正式な蝋封を使っているということは、これは公爵としての公式な通信だ。にもかかわらず、正規の書簡伝達ではなく、料理に紛れ込ませている。
(隠したい内容。しかし公爵の権威で保護したい内容)
矛盾している。だからこそ、重要だ。
人が矛盾した行動を取るとき、そこには必ず隠したい真実がある。わたしはこの五年間で、それを嫌というほど学んだ。ダリウスが社交の場でわたしの手を取りながら、自宅では名前すら呼ばない。あの矛盾の裏にあったのは、妻への無関心ではなく、妻という存在への罪悪感だったのかもしれない。
◇
わたしはリヒトに手紙を送った。料理に紛れた封書のこと。そして、もう一つの依頼。
『ヴァルデン荘園の現在の状況を知る方法はないか』
返事は翌日届いた。
『荘園の現状は不明。ただし、王国の徴税記録に手がかりがある可能性。徴税台帳は宰相府の直轄管理。閲覧には宰相の直接許可が必要。しかし、ひとつ方法がある。年に一度の王宮大広間の記録展示会。来月開催。この期間中は、一部の行政記録が一般公開される。徴税台帳の要約版も含まれる』
記録展示会。年に一度、王宮が行政の透明性を示すために開催する催しだ。実態は貴族たちの社交の場だが、この期間中に限り、普段は閲覧できない行政記録の要約版が公開される。リヒトは文書管理官だ。この種の情報は彼の領分だった。彼がいなければ、わたしはこの展示会の存在すら知らなかっただろう。
わたしは返事を書いた。
『記録展示会に参加する。その前に、一つ確認したい。ギルモアについて、あなたの見解を聞きたい』
ギルモア。公爵家の執事長。ダリウスの忠実な僕であるはずの男。しかし、彼の行動にはいくつかの不可解な点がある。
一つ目。アーデルの死の夜、彼はわたしの指示にすぐ従い、ダリウスに報告しなかった。
二つ目。西棟の地下でわたしに会ったとき、「表に出してはならない記録がある」と言った。あれは脅しではなかった。あの声には、切迫感があった。
三つ目。最近、ギルモアがダリウスの書斎に入る回数が減っている。ティルダの観察による。
(ギルモアは、何かに気づいている。そして、迷っている)
リヒトからの返事。
『ギルモアについて。彼は二十年前からヴェーデル家に仕えている。先代公爵の時代からの古参だ。忠誠の対象が現公爵個人なのか公爵家そのものなのかで、行動が変わる可能性がある。見極めが必要だが、味方にできれば大きい』
わたしは手帳を開いた。これまでに集めた証拠と人物の関係を整理する。
ロドルフ(黒幕)→ フェリクス(情報収集)→ 書庫の記録改竄。
ロドルフ → ダリウス(共犯?)→ ヴァルデン荘園の土地詐取。
アーデル → ロドルフの関与に気づく → 殺害される。
まだ足りないのは、「なぜ」だ。ヴァルデン荘園を消す必要があったのは何故か。土地を隠すことで、誰が何を得ているのか。
そして、ダリウスの関与の深さ。わたしの夫は、共犯者なのか。それとも駒なのか。
◇
数日後、わたしは意を決してギルモアを呼び出した。
場所は庭園の東屋。邸の中は壁に耳がある。けれど、風が吹く屋外なら、盗み聞きは難しい。
「お呼びでしょうか、奥様」
「ギルモア。単刀直入に聞きます」
彼の目が僅かに見開かれた。わたしがこんな口調で話すのを、彼は聞いたことがないだろう。
「ヴァルデン荘園のことを、あなたは知っているのですね」
沈黙が落ちた。秋の風が東屋の柱を撫でていく。ギルモアの銀混じりの髪が揺れた。
五秒。十秒。
「……先代の公爵様から、お預かりしている言葉がございます」
ギルモアの声が変わった。二十年間の執事としての声ではなく、一人の人間としての声だった。黒い手袋をはめた手が膝の上で組まれ、指先がかすかに震えていた。
「先代から?」
「先代は亡くなる直前に、わたくしにこう仰いました。『ヴァルデンのことは、いつか正しい主人が問うだろう。そのときまで、記録を守れ』と」
わたしの心臓が大きく鳴った。
「あの地下の書類棚の鍵。あなたがアーデルに渡したのですか」
ギルモアは、初めて目を伏せた。長い沈黙の後、小さく頷いた。
「アーデルは……わたくしより先に、公爵の不正に気づいておりました。彼女は奥様を守りたかった。だから、証拠を探した。わたくしは鍵を渡した。それが……」
彼の声が途切れた。視線が地面に落ち、肩が小さく揺れた。
「それが、彼女の命を縮める結果になった」
アーデルに鍵を渡したのはギルモアだった。アーデルはその鍵で地下の記録を見つけ、真実に近づき、そして殺された。
ギルモアはそれを知っている。知っていて、今日まで沈黙していた。
沈黙は罪だろうか。二十年間、口を閉ざし続けた男と、五年間、心を閉ざし続けた女。わたしたちは似ている。
わたしにはわからない。けれど、彼の震える手を見て、わたしは一つだけわかった。
この人は、敵ではない。
「ギルモア。先代の言葉を守ってくれたのですね」
「……不甲斐ない守り方でございました」
「いいえ。あなたが記録を守っていなければ、わたしは何も見つけられなかった。アーデルの死を、わたしは病死だと思い込んだまま生きていたでしょう」
ギルモアの唇が震えた。彼は二十年間、先代の遺言を胸に秘めて生きてきた。正しい主人が問う日を、ずっと待っていた。それがどれほどの孤独だったか、わたしには想像することしかできない。
わたしは手を差し出した。公爵夫人が執事長に手を差し出す。それは主従の礼節を超えた行為だ。
ギルモアはしばらくその手を見つめていた。やがて、黒い手袋を外し、素手でわたしの手を取った。彼の手は冷たかった。けれど、握り返す力は確かだった。
風が東屋を通り抜けた。木の葉が舞い、秋の匂いがした。アーデルが好きだったラベンダーの香りに、どこか似ている気がした。
壁に耳がある邸の中で、風の吹く東屋だけが、今日、真実を聞いていた。




