第8話 最後の宰相
権力は、記録の上に座っている。記録を消せば、権力の正当性も消える。だから、記録を守る者は、いつの時代も命を狙われる。
宰相イグナーツが、わたしとの面会に応じた。
宰相府の執務室は質素だった。豪華な調度品も、壁を飾る絵画もない。ただ書類の山と、磨き込まれた樫の机があるだけだ。この部屋の主もまた、質素な人だった。壁には王国の地図が一枚だけ掛かっており、地図の上には色とりどりの小さな旗が刺されていた。所領の管理状況を示すものだろう。イグナーツはこの地図の前で、王国全体を見渡して物事を判断してきたのだ。
「ヴェーデル公爵夫人。あなたの申し立てを確認しました」
イグナーツの声は平坦だった。六十二歳の宰相は、長い政治生活の中で感情を削ぎ落とした人間だ。
「蝋封の偽造鑑定書。徴税記録の不一致。ヴァルデン荘園の台帳抹消。ハイデン侯爵邸へのターメリック納入記録と、書庫局文書の欠落。証拠としては、まだ状況的なものに過ぎません」
「承知しています。しかし、これらの証拠が指し示す方向は一つです」
「ハイデン侯爵ロドルフ」
宰相の灰色の目が、初めてわたしを正面から見た。その目は鋭かった。六十二年分の経験と、無数の嘘を見破ってきた目だ。この人の前で虚勢を張っても無意味だと、直感的にわかった。
「公爵夫人。あなたは自分が何をしようとしているか、理解していますか。ハイデン侯爵は、この王宮で最も影響力のある貴族の一人です。彼を告発するということは、宮廷の半分を敵に回すということです」
「それでも、です」
わたしの声は揺れなかった。五年間の沈黙が、声から震えを取り除いていた。この広い執務室で、宰相と向き合っている自分が、一ヶ月前には想像もできなかった。けれど、アーデルの爪の下の黄色い粉末が、わたしをここまで連れてきた。
「メイド長のアーデルは殺されました。彼女はただ、真実に触れただけです。彼女の死を病死として処理することに、宰相閣下は同意されますか」
イグナーツは長い沈黙の後、机の引き出しから一枚の書類を取り出した。
「……わたしも長年、この王宮で不自然な帳簿の動きを感じていました。しかし、動くための証拠がなかった。あなたが持ってきたこの鑑定書は、わたしにとっても必要なものでした」
彼は書類にペンを走らせた。王宮裁判所への正式な調査請求書。宰相の署名入り。
「調査を開始します。ただし、結果が出るまでには時間がかかる。それまで、身の安全には十分注意してください」
「ありがとうございます、閣下」
わたしは宰相府を出た。手の中に、宰相の署名入り調査請求書の控えがある。これで、正式な手続きが動き出す。
◇
しかし、時間は味方しなかった。
三日後。宰相イグナーツが執務室で倒れた。
公式発表は「心臓の発作」。六十二歳の高齢による急死。
アーデルと同じ診断だった。
知らせを聞いたとき、わたしは書庫局にいた。リヒトの顔から、血の気が引いていた。
「……また、だ」
リヒトの声は震えていた。わたしが彼の感情の乱れを見たのは、初めてだった。彼の手が机の縁を握りしめている。万年筆のインクが指に滲んでいることにも気づいていない様子だった。記録を守る者が殺された。それは彼にとって、自分自身への脅迫にも等しい意味を持っていたはずだ。
「宰相の死は偶然ではありません」
「ええ。わたしたちが調査請求を出した直後です。ロドルフが手を打った」
宰相を暗殺する。それは、ロドルフの権力がどれほど深く宮廷に根を張っているかを示していた。宰相すら消せる力。
恐怖が背筋を這い上がった。けれど、同時に、怒りがそれを押し返した。
(アーデルだけではなかった。宰相までもが殺された。この連鎖を止めなければ、次はリヒトかもしれない。ティルダかもしれない。あるいは、わたし自身か)
「リヒト。調査請求書の控えは手元にありますか」
「あります。そして、宰相が署名した原本は、宰相府の金庫にあるはずです」
「原本が消される前に、確保する必要があります」
「すでに手を打ちました」
息を呑んだ。
「宰相が倒れたと聞いた直後に、文書管理官の移管手続き権限を使い、宰相府から手続き中の書類一式を引き取りました。調査請求書の原本も含まれています」
リヒトは、わたしが指示する前に動いていた。文書を守るために。記録を消させないために。彼の行動は常に早く、常に正確だった。
「ありがとう」
「礼は不要です。文書管理官の職務です」
いつもの言葉。けれど、今日の彼の目には、職務以上のものが宿っていた。文書管理官としての矜持。そして、もう一つ。わたしを失いたくないという、言葉にはならない感情。
わたしはそれに気づいていた。気づいていて、何も言わなかった。今は、そのときではない。すべてが終わるまでは。
◇
ギルモアが、深夜に邸の裏口から訪ねてきた。
「奥様。旦那様が動きました」
「何を?」
「ロドルフ侯に手紙を送りました。内容は確認できませんでしたが、封書の数が三通。急を要する内容と思われます」
三通。一通はロドルフへ。残りの二通の宛先は。
「一通は宮廷医務長宛。もう一通は……王宮裁判所の書記官宛でした」
宮廷医務長。宰相の死因を「心臓の発作」と診断した人物。そして王宮裁判所の書記官。調査請求を受理する担当者。
ダリウスは、証拠の隠滅と手続きの妨害を同時に進めようとしている。
「ギルモア。あなたにお願いがあります」
「何なりと」
「明日、わたしに同行してください。王宮に行きます」
ギルモアは黒い手袋を外し、頭を下げた。
「お供いたします、奥様」
その夜、わたしは手帳の最後のページを開いた。
この手帳は、もともとメニューの確認と来客の記録に使っていたものだ。アーデルの死の日から、それは別の用途に変わった。証拠の記録帳。仮説の一覧。人物の関係図。
最初のページに戻ると、「侍医の目が泳いだ」という走り書きがある。あの日のわたしは、まだ自分が何をしようとしているのかわかっていなかった。けれどこの一行が、すべての始まりだった。
正規の手続きは妨害されつつある。宰相は殺された。裁判所の書記官もロドルフの手が回るかもしれない。
しかし、一つだけ、彼らが手を回せない場所がある。
王座の前。
王宮の大法廷。国王臨席のもとで開かれる裁定会議。そこでは、いかなる貴族も証拠の隠滅ができない。すべてが国王の目の前で行われるからだ。
問題は、大法廷を開くには王太子か国王の同意が必要だということだ。
あの日、展示会で水を差し出してくれた青年の顔を思い出した。
(殿下。あなたの力が、今こそ必要です)
わたしは便箋を取り出し、王太子宛の書簡を書きはじめた。事実だけを、正確に、簡潔に。証拠の要約と、大法廷の開催を請願する文面。リヒトならば「良い文書です」と言ってくれるだろうか。
書き終えたとき、手が少し震えていた。恐怖からではない。ここから先は、もう後戻りができないのだという自覚からだ。
窓の外で風が鳴っていた。嵐が近づいている。天候の嵐も、宮廷の嵐も。
わたしは便箋を折り畳み、蝋封を押した。自分の蝋封ではない。カスペル子爵家のものだ。実家の紋章。もう何年も使っていなかった印章が、指の中で温かく感じた。
この手紙が届けば、すべてが動き出す。そしてもう、止まらない。




