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旦那様、もう手遅れです。 わたしの心はずっと昔に壊れています。  作者: 渚月(なづき)


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第3話 毒と沈黙の代価

人が死んだあとに残るものは、遺品ではない。沈黙だ。


その人が生きていた頃に満ちていた気配が消え、そこに沈黙が流れ込む。アーデルの部屋はまさにそうだった。かつてはラベンダーの乾燥花の香りがしていた部屋が、今はただ埃の匂いだけを漂わせている。


わたしは許可を得て、アーデルの遺品を整理するという名目で彼女の部屋に入った。


ティルダが付き添ってくれた。目を赤く腫らしているが、背筋は伸びている。アーデルに仕込まれた姿勢だ。泣いているのに背筋だけはまっすぐ。それだけで、アーデルがどんな人だったかがわかる。


部屋は簡素だった。ベッド、小さな机、衣装棚。長年仕えた使用人の部屋としては、あまりに私物が少ない。壁にはただ一つ、小さな押し花の額が掛かっていた。わたしが三年前の誕生日に贈ったものだ。彼女がそれを飾っていてくれたことを、わたしは今初めて知った。


机の引き出しから、一枚の紙片が出てきた。


殴り書きの走り書き。アーデルの字だ。普段の彼女の文字は丁寧で端正だったから、この乱れた筆跡がかえって切迫感を伝えていた。


「西棟 地下 紋章の控えが――」


それだけで途切れていた。


(西棟の地下? 紋章の控え?)


ヴェーデル公爵邸の西棟は、現在は使われていない旧館だ。わたしは入ったことすらない。先代公爵の時代に使われていたが、ダリウスの代になってからは物置のようになっていると聞いた。


「ティルダ。以前、あなたが話してくれたこと……アーデルが厨房から小さな瓶を持って戻ったというのは、いつのことだった?」


ティルダは鼻をすすりながら記憶を辿った。


「たしか……旦那様のお客様がいらした日の翌日だったと思います」


「お客様というのは?」


「ハイデン侯爵様です。アーデルさん、その日にお茶をお出しした後から様子がおかしかったんです。難しい顔をされていて……その夜から、邸の中をこっそり歩き回っていたみたいで」


ハイデン侯爵ロドルフ。穏やかな人柄で知られる貴族だが、社交の場であまり目立たない人物だ。目立たないということは、目立つ必要がないということだ。すでに十分な力を持っている者だけが、目立たないことを選べる。


(アーデルは、侯爵に茶を出した際に何かを見たか聞いたかして、それを調べるうちに西棟の地下に行き着いた。そしてあの小さな瓶……あれはターメリックに関わるものだったのではないか)


わたしは紙片を丁寧に手帳に挟んだ。



数日後、宰相府から返事が届いた。二週間かかると聞いていたが、想定よりずっと早い。公爵夫人の名には、それだけの力があったということか。東方交易記録の閲覧許可が下りた。


わたしは再び王宮書庫局を訪れた。


リヒトは前回と同じ場所に、同じ姿勢で、本を読んでいた。わたしが来たことに気づいているのかいないのか、顔を上げない。


「閲覧許可が下りました」


「知っています。申請が来れば確認しますから」


素っ気ない。けれど、机の上にはすでに該当する交易台帳が用意されていた。


(気づいていたのなら、最初から顔を上げればいいのに)


わたしは小さく息を吐き、台帳を開いた。


ターメリックの納入先一覧。王宮厨房。宮廷医務室。そして――三件の貴族邸。


ヴェーデル公爵邸の名前はなかった。


しかし、三件目の名前にわたしの目が止まった。


ハイデン侯爵邸。


(ロドルフ侯のところに、ターメリックが納入されている……?)


偶然だろうか。アーデルがロドルフに茶を出した直後に不審な死を遂げ、そのアーデルの爪の下にターメリックが残っていた。


偶然は、まだ偶然だ。けれど、偶然が二つ重なると、わたしの中では仮説になる。


(仮説。アーデルはロドルフに茶を出した際、何か不審なものを目にした。そしてそれを調べようとした。その過程でターメリックに触れ、そして――殺された)


殺された。初めて、その言葉が頭の中で明確な形を取った。


「……顔色が悪い」


リヒトの声で我に返った。彼が差し出したのは、白湯の入った素焼きの杯だった。


「ありがとう」


受け取った杯は温かかった。両手で包むと、指先の冷えが少しだけ和らいだ。この杯の温もりが、アーデルが毎晩運んでくれた茶の温度に似ていて、一瞬だけ目の奥が熱くなった。


わたしは台帳の該当ページを指さした。


「この納入記録に、ハイデン侯爵邸宛の具体的な発注書は添付されていますか」


リヒトは台帳の管理番号を確認し、書庫の奥に消えた。しばらくして戻ってきたとき、彼の表情がわずかに変わっていた。いつもより眉間の皺が深い。


「発注書が欠落しています」


「欠落?」


「本来あるべき書類が綴じられていません。索引には記載があるのに、現物がない」


リヒトの声は淡々としていたが、その淡々さの中に、怒りに似た何かがあった。文書管理官にとって、記録の欠落は単なるミスではない。記録が消えるということは、真実が消えるということだ。


「意図的に抜かれた可能性は?」


「高い。綴じ穴の跡が残っています。最近抜かれたものです」


わたしとリヒトは、同時に同じ結論に達していた。それは目を合わせた瞬間にわかった。


誰かが、この記録を隠蔽しようとしている。


わたしは手帳を開き、今日の発見を書き留めた。


「リヒト。もうひとつ教えてほしいことがあります」


「何を」


「欠落した文書に最後にアクセスした人物の記録は残っていますか」


彼は閲覧台帳をめくった。指先のインク染みが、ページの上を正確に辿る。


「最終閲覧者。フェリクス・グレーフ。七日前」


フェリクス。あの、にこやかな笑顔の青年。困ったことがあったら何でも言ってくださいね、と言った、あの人物。


(偶然が三つになった)


もう偶然とは呼べない。


わたしは手帳を閉じ、杯の白湯を飲み干した。


帰り道、馬車の中でわたしは考え続けた。アーデルの死。ターメリック。ロドルフ侯。消えた発注書。フェリクス。五つの点を結べば、まだ完全な図形にはならない。けれど、どの点がどの点と近いのかは見えてきた。証拠集めとは、夜空に散らばる星座を結ぶ作業に似ている。一つの星だけでは何の意味もないが、線で結べば形が現れる。わたしは今、最初の二本の線を引いたところだ。


馬車が公爵邸に着いたとき、玄関でダリウスとすれ違った。


「どこへ出ていた」


夫がわたしに直接言葉をかけるのは、いつ以来だろう。


「王宮の書庫局です。少々調べものがありまして」


「書庫? お前が?」


ダリウスの目に、初めて見る感情が浮かんだ。それは興味ではなかった。警戒だった。金色の髪の下で、碧い瞳が一瞬だけ細められた。


わたしは静かに微笑んだ。五年間で最も完璧な微笑みだったと思う。


「ええ。刺繍の図案を調べておりました」


ダリウスは鼻を鳴らし、去っていった。刺繍と聞いた瞬間、彼の目から警戒が薄れた。わたしが何かを企てる人間だと、彼は思っていない。五年間の沈黙が、最大の隠れ蓑になっている。


自室に戻り、扉を閉める。


手帳を開き、最後の行に書き加えた。


「夫が警戒している。理由は不明。しかし、わたしの行動に関心を持った。これは初めてのことだ」


窓の外が暗くなっていく。アーデルがいつも灯してくれた燭台を、今夜はティルダが灯しに来た。少し傾いた炎が、影を揺らしている。


(アーデル。あなたが見つけたものに、わたしは近づいている)


その夜、廊下の向こうから、夫の部屋へ向かう女の靴音が聞こえた。甘い香水の残り香。マリアンヌのものだと、すぐにわかった。


いつもなら、その靴音に胸が痛んだ。今夜は――何も感じなかった。


壊れた心は、もう傷つく場所を忘れている。


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