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旦那様、もう手遅れです。 わたしの心はずっと昔に壊れています。  作者: 渚月(なづき)


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第4話 紋章が語る血脈

紋章は家の履歴書だ。


誰が誰と婚姻し、どの血が混ざり、何を誓って生きてきたか。すべてが図案の中に刻まれている。西洋の貴族社会において、紋章は名前より雄弁に家の正体を語る。


紋章の図案には厳密な規則がある。獅子は勇猛、鷲は支配、薔薇は秘密。色にも意味がある。金は信義、銀は誠実、赤は武勇。これらの組み合わせで、一族の歴史と誇りが一枚の盾に凝縮される。だから紋章を読める者には、家系図よりも多くのことが見えてくる。


逆に言えば、紋章を読めない者には、貴族社会は壁に囲まれた迷路のようなものだ。わたしは幼い頃、父の書庫で紋章図鑑を眺めるのが好きだった。子爵家の令嬢にしては変わった趣味だと母に笑われたが、あの頃に覚えた知識が、今こうして役に立とうとしている。


アーデルの走り書きにあった「紋章の控え」。その意味を確かめるために、わたしは西棟の旧館に足を踏み入れた。


ティルダが先導してくれた。埃っぽい廊下を進むと、地下への階段がある。使用人でもめったに近寄らない場所だ。空気が重い。陽の光が届かない地下特有の、冷えた湿り気を含んだ空気だ。


地下室は予想以上に広かった。古い家具や調度品が布をかけられて並んでいる。先代、先々代の時代から積み重なった公爵家の記憶がここに眠っている。燭台の灯りが布の上に長い影を落とし、まるで過去の亡霊が身じろぎしているかのようだった。ティルダが怯えたようにわたしの袖を掴んだ。「大丈夫よ」と声をかけると、彼女は恥ずかしそうに手を離した。その奥に、施錠された書類棚があった。


鍵がない。


「ティルダ、アーデルの遺品の中に、小さな鍵はなかったかしら」


「あ……そういえば、お洋服のポケットから鍵が一つ出てきました。何の鍵かわからなくて、そのまま持っています」


ティルダが差し出した小さな鍵は、古びた真鍮製で、装飾のない実用的な形をしていた。鍵穴に差し込むと、かちりと乾いた音がして、錠前が開いた。長い間開けられていなかったはずなのに、錠前は滑らかに動いた。誰かが、定期的に油を差していたのだろうか。


(アーデルはここに来ていた。この棚を開けていた)


棚の中には、古い文書の束が収められていた。ヴェーデル公爵家の過去の記録。婚姻契約書、所領の譲渡証、そして――紋章の控え。


紋章の控えとは、家同士の関係を記録するために作成される公式書類だ。婚姻や同盟を結ぶとき、双方の紋章を並べて記録する。いわば、家と家の絆の証明書だ。


わたしは一枚ずつ、丁寧にめくった。


ヴェーデル家の紋章。銀地に青い鷲。そして、婚姻記録に並ぶ相手方の紋章。


三代前の当主の婚姻控えに、わたしの手が止まった。


相手方の紋章。赤地に金の獅子。


この紋章には見覚えがある。最近見たばかりだ。


(ハイデン侯爵家の紋章だ)


三代前のヴェーデル公爵と、ハイデン侯爵家の令嬢が婚姻している。つまり、ダリウスとロドルフには血縁関係がある。


これ自体は珍しいことではない。貴族同士の婚姻は複雑に絡み合っている。けれど、問題はこの婚姻記録の余白に書かれた注記だった。


「所領ヴァルデン荘園の管理権、ハイデン家に委託」


ヴァルデン荘園。聞いたことがない名前だ。ヴェーデル公爵家の所領一覧にも、見た記憶がない。


(消えた所領……?)


わたしは急いで手帳に書き写した。紋章の図案、婚姻年月日、注記の内容。手が震えた。寒さのせいではない。


「奥様、誰か来ます」


ティルダの声にわたしは棚を閉め、鍵をかけた。


階段を上がると、廊下の端にギルモアが立っていた。


「奥様。西棟にご用でしょうか」


その声は平静だった。けれど、ここにいること自体が偶然ではないとわかる。彼はわたしの行動を把握している。


「古い調度品を確認していました。メイド長が亡くなって、邸の管理を見直す必要がありますから」


「ごもっともです」


ギルモアは一礼して道を空けた。しかし、わたしが通り過ぎる瞬間、低い声で言った。


「奥様。公爵家には、表に出してはならない記録がございます」


脅しだろうか。忠告だろうか。彼の目を見た。感情のない目。けれど、その奥に何かが揺れている気がした。忠誠心だろうか。それとも――良心だろうか。


わたしは足を止めず、静かに答えた。


「存じています。だからこそ、確認が必要なのです」


ギルモアは何も言わなかった。その沈黙を、わたしは手帳には記さなかった。まだ、彼が敵なのか味方なのか、判断がつかない。



三日後、わたしは再び書庫局を訪ねた。


リヒトに、ヴァルデン荘園について調べてほしいと頼んだ。


彼は所領台帳を引き出し、索引を辿った。


「ヴァルデン荘園。かつてヴェーデル公爵家の直轄領。四十二年前に管理権がハイデン侯爵家に委託された後、二十年前に所領台帳から抹消されています」


「抹消?」


「記録上、この荘園は存在しないことになっています。しかし、地図上には名前が残っている」


リヒトは古い地図を広げた。ヴェーデル領の南端、山間部に小さな集落が記されている。ヴァルデン。地図の端、誰も気にしないような場所に、その名前はひっそりと残っていた。


「ここには何が?」


「不明です。ただ、抹消の際の承認印が気になります」


リヒトが指さした承認印。わたしも見た。


蝋封の跡だった。しかし、その押印は歪んでいる。


「この蝋封は偽造です」


リヒトの声は断定的だった。


「偽造? どうしてわかるの?」


「印章そのものは本物です。しかし、押す角度が違う。正規の承認者は右利きで、印章を垂直に押す癖がある。この封印は左下に傾いています。右利きの人間がこの角度で押すことは、通常あり得ません」


蝋封の鑑定技術。彼が初日に教えてくれたことが、今ここで証拠として機能している。


(リヒト。あなたは知らないだろうけれど、あなたがくれた知識がわたしの手足になっている)


わたしの中で、パズルの断片がゆっくりと嵌りはじめていた。


消えた所領。偽造された承認印。ハイデン侯爵の関与。アーデルの死。


わたしは席を立ち、窓の外を見た。王宮の中庭に植えられた菩提樹が、秋の風に葉を散らしている。一枚、また一枚と落ちていく葉を見ながら、わたしの中で決意が固まっていった。


「リヒト。お願いがあります」


「聞きましょう」


「この偽造の証拠を、正式な鑑定書として作成してもらえますか」


彼はわたしを見た。いつもの無表情。けれど、その奥にある目の光が、少しだけ強くなった気がした。


「文書管理官として、記録の正当性を検証するのは職務です。鑑定書の作成に個人的な許可は不要です」


それは、「やる」という意味だった。


わたしは頷いた。自然と、唇がほころんだ。微笑みが自分の意思で出てきたのは、久しぶりのことだった。


帰り際、書庫の出口でフェリクスとまたすれ違った。


「あ、公爵夫人。また来てくださったんですね」


笑顔。いつもの笑顔。けれど今日のわたしの目には、その笑顔の輪郭がほんの少し、違って見えた。


「ええ。リヒトにお世話になっています」


「リヒトは愛想がないでしょう? 何かあったら本当に、僕に言ってください」


「ありがとう、フェリクス」


わたしは微笑みを返し、書庫を出た。


手帳には書かなかった。けれど、頭の中に刻んだ。


(フェリクス。あなたはなぜ、わたしがいつ来るのか知っているの?)


馬車の窓から、王宮の尖塔が夕日に染まるのが見えた。


あの塔の上から見れば、この王宮のすべてが見渡せるだろう。けれど、本当に大切なものは、いつも地下に隠されている。


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