第2話 歯車が嵌る
蝋封というものは、嘘をつけない。
押印した者の癖、力加減、蝋の温度、すべてが痕跡として刻まれる。だから文書の真贋を確かめるとき、もっとも信頼できるのは、署名ではなく蝋封だ。
――それを教えてくれたのは、宮廷書庫局で出会った、無愛想な青年だった。
アーデルの死から三日が経っていた。
公爵邸は何事もなかったように日常を取り戻していた。ダリウスは「長年仕えた使用人の死は惜しいが、後任を手配しよう」とだけ言い、それ以上の関心を示さなかった。
わたしは、黙って頷いた。いつものように。
けれど、この三日間、わたしは別の動きをしていた。
ティルダの証言を辿り、アーデルが最後に立ち寄った場所を特定した。厨房、そして――邸の書庫。
アーデルが書庫に用があるはずがない。彼女の仕事は屋内の管理であって、文書の管理ではない。
(彼女は何かを探していた。あるいは、何かを見つけた)
しかし邸の書庫を調べるには、執事長ギルモアの目をかいくぐる必要がある。
まだ早い。材料が足りない。
わたしはまず、粉末の正体を確かめることにした。
公爵夫人には、年に数度、王宮の社交行事に出席する義務がある。次の行事は二日後。そのとき、王宮書庫局に立ち寄ることができる。
王宮書庫局は、王国のあらゆる公文書を管理する場所だ。交易記録もそこにある。東方からの輸入品の目録を確認できれば、この粉末がどこから来たのか辿れるかもしれない。
◇
王宮の回廊は、磨き上げられた石の床に靴音が響く。
社交の場から離れ、書庫棟へ向かう道は人気がなかった。貴族が好んで訪れる場所ではない。
書庫局の扉を開けると、インクと古い紙の匂いが満ちていた。
受付の若い男が怪訝な顔をした。
「どなた様で……? こちらは一般の閲覧室ではございませんが」
「ヴェーデル公爵夫人です。東方交易に関する記録を確認させていただきたいのですが」
名を告げると、男の態度が変わった。慌てて奥へ案内しようとする。
そのとき、奥の書棚の間から声がした。
「交易記録は第三棚の下段。ジェスタ暦四三〇年以降の分冊は索引が付いている」
振り返ると、黒髪の青年が書棚に背を預けて立っていた。指先にインクの染み。こちらを見てはいるが、目に愛想というものがまったくない。
「……ありがとうございます」
「礼は不要です。公文書の閲覧は市民の権利です」
素っ気ないが、正確な案内だった。声に感情の色がほとんどない。けれど、不親切というわけではない。必要な情報を過不足なく伝えている。社交界で会う貴族たちの、装飾過多な言葉遣いに慣れたわたしには、かえって新鮮に感じた。
わたしは示された棚から交易記録を取り出した。東方からの香辛料輸入の項目を辿る。
ターメリック。この国での正式名称は「黄金根」。主要な輸入港はカッセル港。しかし三年前から、東方航路の商船組合が取扱品目を制限しており、一般流通はほぼ途絶えていた。
(一般には流通していない。手に入れるには、何らかの特権的な入手経路が必要だ)
つまり、アーデルの爪の下にあった粉末は、一般の使用人が触れる機会のないものだった。具体的にどこに納入されているのかを確かめるには、納入先の詳細記録を見る必要がある。
メイド長が、そんなものに触れる機会があるだろうか。
「……何を探しているんですか」
振り返ると、先ほどの青年がいつの間にか近くに立っていた。
「個人的な調査です」
「交易記録から香辛料の流通経路を辿るのが『個人的な調査』ですか」
鋭い。
わたしは少し迷った。この人物を信頼していいかどうか、まだ判断する材料がない。けれど、嘘をつくのも得策ではない。
「亡くなった使用人の遺品から、不自然なものが見つかりました。その出所を確認しています」
青年は数秒、わたしの目を見た。品定めするように。
「文書管理官のリヒトです。蝋封の真贋鑑定や文書の来歴調査なら、専門です」
「蝋封……?」
「文書の改竄を見抜くには、蝋封を見るのが一番早い。蝋封は嘘をつけませんから。押す力、角度、蝋の冷え方で、同じ印章でも全く同じ封印にはならない」
彼は書棚から一冊の装丁本を引き出した。蝋封の鑑定技法に関する技術書だった。
「もし不審な文書が関係しているなら、蝋封を調べることをお勧めします。署名は真似られますが、蝋封の癖は再現が極めて難しい」
彼の声には興味というより、事実を伝えているだけの響きがあった。媚びもなく、疑いもない。ただ、正確な情報を渡しているだけ。
(この人は……)
わたしの胸の中で、小さな灯りが点った。信頼とまではいかない。けれど、この人は少なくとも、わたしの言葉を笑わなかった。
「リヒト様。ひとつ教えていただけますか」
「様は不要です」
「では、リヒト。東方香辛料の輸入記録に、個人名の納入先は記載されていますか」
彼は一瞬、眉を上げた。それが驚きの表情であると気づくのに少し時間がかかった。表情の変化が最小限なのだ。
「記載されています。ただし閲覧には宰相府の許可が必要です」
宰相府。宰相イグナーツ。わたしのような地方出身の子爵令嬢が、簡単に許可を得られる場所ではない。
「許可を申請する方法は?」
「正規の手続きは三ヶ月かかります」
三ヶ月。長すぎる。その間に、アーデルの死は完全に「病死」として処理されるだろう。
リヒトはわたしの表情を一瞥し、小さく息を吐いた。それは溜息ではなかった。何かを決めたときの呼吸に見えた。
「……ヴェーデル公爵家の名で申請すれば、二週間に短縮できます。公爵家は王宮直属の家格ですから」
わたしは目を見開いた。
公爵家の名を使う。つまりダリウスの名を使うということだ。彼に知られれば、面倒なことになる。けれど——。
「公爵夫人の名での申請は可能ですか」
「制度上は可能です。公爵夫人には、公爵に準じる閲覧権限がありますから」
知らなかった。五年間、誰も教えてくれなかった。
(わたしにも、権限はあったのか)
手が震えた。怒りではない。自分がいかに何も知らずに生きてきたかを、突きつけられた震えだった。
「申請書を一通いただけますか」
リヒトは無言で、引き出しから用紙を取り出し、わたしの前に置いた。
わたしは署名した。ネリッサ・ヴェーデル。この名前を、初めて自分のために使った。
書庫を出るとき、リヒトが背後から言った。
「蝋封は嘘をつきません。けれど、蝋封を押す人間は嘘をつく。それだけは覚えておいてください」
わたしは振り返らず、小さく頷いた。
廊下に出ると、回廊の影に見覚えのある人影が立っていた。
人懐こい笑顔の青年。リヒトと同じ書庫局の制服を着ている。
「こんにちは、公爵夫人。書庫局にご用事ですか? 何かお困りでしたら、僕でよければお手伝いしますよ」
名札にはフェリクスとあった。リヒトとは対照的に、柔らかな笑顔を浮かべている。
「いえ、もう済みました。ありがとうございます」
「そうですか。困ったことがあったら何でも言ってくださいね」
笑顔のまま、フェリクスは一礼して去っていった。
わたしはその背中を見送りながら、手帳にそっと書き加えた。
「書庫局――フェリクス。受付でもないのに、にこやかだが、なぜ公爵夫人の訪問を知っていたのか」
申請書を握る手に、少しだけ力がこもった。
壊れたはずのわたしの心に、今、歯車が嵌りはじめている。




