第6話 包丁一本、オタマ一丁
山門をくぐった瞬間、墓所の守りが途切れた。肌を刺すような殺気が、一気に押し寄せる。
木立の影から、網代笠の僧が二人、道を塞ぐように現れた。さっき墓所の境界で札を焼かれた、あの連中だ。
「井伊ナオキ。山の守りを頼みに、いつまでも隠れてはおられまい」
「隠れちゃいねえよ。自分の足で、出てきたんだ」
俺は右手の包丁を握り直した。白い刃が淡く輝き、僧たちがわずかに身構える。
「ほう。舜水の力を得たか。だが、得たばかりの刃で、我らに敵うと思うな」
僧の腕が振られた。札が三枚、同時に飛んでくる。
俺は包丁を振るった。一枚は斬り落とした。だが、刃が勝手に走り、残る二枚を追いきれない。慣れない力に腕が引っ張られ、体勢が崩れた。
しまった!
「大将、下がって!」
ミキが前に出た。オタマを構え、飛来する札を迎え撃つ。
カァン! カァン!
二枚の札が弾き返され、木の幹に突き刺さった。
僧が、笠の下で目を見開いた。
「……おたま、だと?」
「そう、オタマです。文句あります?」
ミキが胸を張る。僧は一瞬、毒気を抜かれたように動きを止めたが、すぐに新たな札を取り出した。
「小娘の余興か。ならば、遊びは終わりだ」
◆
僧が地を蹴った。札を刃のように連ね、俺の首を狙って踏み込んでくる。
速い。
俺は包丁で受けた。だが、力任せに振るうばかりでは、相手の動きについていけない。白い刃が大きく流れ、その隙を狙った札が肩口を浅く裂いた。
「ぐっ……!」
「大将!」
肩に熱い痛みが走る。反撃しようにも、腕ほどの長さがある包丁を思うように扱えなかった。
「くそっ……剣なんざ、握ったこともねえんだ」
剣。
そうだ。俺は剣客じゃない。三十年、剣なんぞ振ったことはない。
振ってきたのは、包丁だ。
俺は握りを変えた。剣のように大きく振り回すから、刃に引っ張られる。肘を締め、手首の力を抜く。まな板に向かうときと同じだ。
僧が再び踏み込んできた。
今度は札を三枚重ね、横薙ぎに振るってくる。俺は刃の動きを見極め、最小限の動きで迎え撃った。
トン、トン、トン。
頭の中に、聞き慣れた音が響く。
葱を刻む音だ。
俺は手首を返し、迫る札を次々と断ち切った。大きく振る必要なんかない。刃を当てる角度も、力の入れ具合も、三十年間ずっと体に叩き込んできた。
「なにっ!?」
僧が驚いて距離を取る。
俺は追わなかった。包丁の握りを確かめ、軽く手首を動かす。
あれほど暴れていた刃が、今は不思議なほど手に馴染んでいた。
「そうか……料理と同じでいいのか」
掌の包丁が、応えるように輝きを増した。
斬ろうとするな。刻め。削げ。引け。
俺の体が知っている、あの動きのままでいい。
「三十年、伊達に包丁握ってきたわけじゃねえぞ」
僧が舌打ちした。
「料理人風情が、我らの法を……!」
◆
だが、相手も引かなかった。
一人が俺を牽制する間に、もう一人がミキの背後へ回り込んだ。札を振りかぶり、肩口めがけて振り下ろす。
「ミキ、後ろだ!」
ミキが振り向きざま、オタマを突き出した。
札を掬い取るように受け止める。だが、勢いを殺しきれなかった。札がオタマの縁を滑り、ミキの二の腕を浅く裂いた。
「痛っ……!」
「ミキ!」
俺は駆け寄ろうとした。だが、正面の僧がそれを許さない。立て続けに放たれた札が、俺の行く手を塞いだ。
二人がかりで分断されている。
俺の包丁も、ミキのオタマも、ようやく使い方が分かってきたところだ。互いを助けようとすれば、相手はそこを狙ってくる。
このままじゃ、じり貧だ。
そのとき、ミキが傷口を押さえながら叫んだ。
「大将! スープ、残ってますよね! 水筒の!」
「ああ、あるが……」
「撒いてください! 私が掬います!」
俺は、はっとした。
さっき黄門様が言っていた。
作る者だけでは、一杯は完成しない。
俺が作り、ミキが受け止める。二人が揃って、初めて料理の力を生かせるのだ。
「分かった! 合わせろよ!」
「任せてください!」
俺は正面の僧へ踏み込み、包丁を細かく振るった。迫る札を刻みながら、相手を後退させる。
その隙に、左手で鞄から水筒を引き抜いた。
中身は、一杯分にも満たない醤油豚骨。
上野の店から持ち出した、最後のスープだ。
だが、こいつには一度、俺たちの命を救ってもらっている。
「ミキ! いくぞ!」
◆
俺は水筒の蓋を開け、残ったスープを宙にぶちまけた。
醤油豚骨が、薄い弧を描いて飛び散る。
僧たちが反射的に身を引いた。あの瘴気を、こいつらは恐れている。
「今です!」
ミキがオタマを振るった。
その瞬間、異変が起きた。
空中に散ったスープの雫が、吸い寄せられるようにオタマへ集まり始めたのだ。白い湯気が渦を巻き、黄金色の光を帯びていく。
「うわっ……何これ!?」
ミキ自身も驚いていた。
だが、オタマを握る手は離さない。
スープが集まるにつれ、湯気が勢いを増す。冷めかけていたはずの醤油豚骨が、まるで寸胴で炊き直したかのように熱を取り戻していた。
「ミキ! そのまま叩き込め!」
「はいっ!」
ミキがオタマを大きく振りかぶる。
「大将特製、熱々スープ……特盛りっ!」
黄金色の湯気が、渦を巻いて放たれた。
狙われた僧が、慌てて札を広げる。何枚もの札が重なり、眼前に白い障壁を作り出した。
「そのような汁物で、我らの法が破れるものか!」
次の瞬間、黄金色の湯気が障壁に激突した。
ぼんっ!
青白い炎が噴き上がった。
障壁を形作っていた札が次々と燃え尽き、爆ぜた法力の衝撃が僧を後方へ吹き飛ばす。
「ぐあっ!」
僧が地面を転がった。
その光景に、もう一人が一瞬だけ目を奪われる。
俺は、その隙を逃さなかった。
踏み込み、包丁を走らせる。
頭の中に、またあの音が響いた。
トントントントン。
葱を刻む、いつもの手さばき。
僧が繰り出す札を、一枚、また一枚と断ち切っていく。
最後に狙ったのは、僧が右手に握りしめていた札束だった。
「おらっ!」
白刃が走り、札束が細切れになって舞った。
「ば、馬鹿な……!」
僧の腕から、法力の光が消えた。自らの術を支えていた札を失い、その反動で膝が折れる。
俺は包丁を構え直し、距離を取った。
追撃はしない。
もう、あいつに戦う力は残っていなかった。
◆
二人の僧が、地に膝をついた。
俺は肩で息をした。たった二人相手に汗だくで、右腕は重く、肩の傷もじくじくと痛んでいる。
しかもスープは、もう一滴も残っていない。
「はあ……はあ……勝った、のか」
「大将、肩から血が出てます」
「お前もな。……すまん。庇いきれなかった」
「おあいこです」
ミキは裂かれた二の腕を押さえ、それでも笑った。
俺はひとまず包丁を消し、鞄から手拭いを取り出した。傷は浅い。だが、ミキの白い腕に血が滲んでいるのを見ると、胸の奥が嫌な具合に重くなった。
手拭いを巻いていると、膝をついた僧の一人が、荒い息の合間に口を開いた。
「……愚かな。お前がラーメンを蘇らせるほど、封印は緩む。我らは、世界を守るために……」
俺は手を止めた。
「世界を守るために、俺のラーメンを消したってのか」
「そうだ。我らは千年の封を守ってきた。あれが解かれれば、この国は……」
僧はそこで口を閉ざした。
「あれって何だよ。何が封じられてるんだ」
答えはなかった。
俺が詰め寄ろうとすると、僧は残った力を振り絞って立ち上がった。
「我らは所詮、下働きの物見にすぎぬ。貴様らを始末するために遣わされたが、真の番人ではない」
「真の番人?」
「水戸の楔を守る者は、我らなどとは比べものにならぬ。せいぜい、己の浅はかさを悔いるがよい」
僧はよろめく相棒を助け起こし、二人で木立の奥へ消えていった。
追うつもりはなかった。
俺たちも、立っているだけで精一杯だ。
「……世界を守る、か」
あいつらは命令に従って、俺たちを殺しに来た。だからといって、正義の味方とは思えない。
だが、封印を守らなければ世界が滅ぶという言葉まで、嘘だと決めつけていいのだろうか。
朱舜水も、高野山の奥に何かが封じられていると言っていた。
ラーメンを取り戻すほど、その封印が緩む。
もし本当なら、俺たちは何を取り戻そうとしているんだ?
「大将?」
ミキに呼ばれ、俺は顔を上げた。
「……いや、なんでもねえ」
答えなんか、今は出せない。
それでも、ひとつだけ譲れないことがあった。
世界を守ると言いながら、何百万という人間の大切な記憶を奪い、何万という店から商売を取り上げる。
そんなやり方を、俺は認めるわけにはいかなかった。
◆
ミキの傷の手当てを終えると、今度は彼女が俺の肩に手拭いを巻いてくれた。
「大将、包丁の使い方、分かったんですね」
「ああ。剣の真似をしようとしたのが間違いだった。俺は料理人だからな」
「私のオタマも、すごかったですよね!」
「そうだな。まさかスープを集められるとは思わなかった」
「それに、熱々になりましたよ! あれ、絶対おいしくなってました!」
「お前なあ……戦ってる最中に味の心配かよ」
「だって、もったいないじゃないですか!」
俺は思わず笑った。
確かに、もったいなかった。
上野から持ってきた最後のスープを、全部使っちまったんだからな。
「……でもまあ、悪くなかった」
「でしょ?」
「ああ。俺が作ったもんを、お前がちゃんと使ってくれた。これなら、二人でやっていけそうだ」
「当然です。私、大将の相棒ですから!」
ミキが得意げに胸を張った。
俺は手拭いの結び目を確かめ、立ち上がった。
「ミキ。まずは水戸に戻るぞ」
「楔を探すんですね?」
「それもある。だが、その前にやることがある」
「なんです?」
「ラーメンの材料を集めるんだよ。スープも麺も具も、全部な」
あの朱舜水が見せてくれた、三百年以上前の一杯。
蓮根の粉を練り込んだ麺に、五辛の香り。俺が三十年作ってきた醤油豚骨とは、まるで違う料理だった。
だが、あれを食ったときの感覚は、今でも舌に残っている。
「水戸の一杯を、作るんですか?」
「ああ。ただ昔の料理を真似するんじゃねえ。あの味を手掛かりに、俺の腕で一杯を作る」
僧を倒すだけじゃ、ラーメンは戻らない。
土地の味を蘇らせてこそ、楔が砕ける。
そのために必要なのは、剣の腕でも法力でもなく、三十年間磨いてきた俺の料理だ。
「だったら、私も手伝います!」
「当然だ。お前は味見係だからな」
「そこは相棒って言ってくださいよ!」
ミキの抗議を聞きながら、俺は山道を下り始めた。
まずは傷の手当てを済ませ、材料を揃える。それから水戸の街で、失われた一杯を作る。
関東を縛る楔と、その番人がどこにいるのかは、まだ分からない。
だが、目指すものは決まった。
坊主どもがどれだけ邪魔をしようと、俺は旨いラーメンを作ってやる。




