第5話 朱舜水の一杯
掌に灯った熱が、腕を伝って胸へ広がる。
目の前の墓が、淡く光り始めた。石の台座から陽炎のようなものが立ちのぼり、やがて人の形を結ぶ。
袍をまとい、長い髭をたくわえた老人が、俺を静かに見下ろしていた。異国の学者の姿だった。
「よくぞ、この山まで参った」
声は耳ではなく、頭の中に直接響いた。
ミキも同じものを見ているらしく、俺の背後で息を呑んでいる。
「あんたが……朱舜水か」
「いかにも。明が滅び、この国へ流れ着いた老いぼれよ。光圀公に、学問と、そして一椀の麺を伝えた者だ」
「麺……ラーメンを、あんたが」
朱舜水は、ゆっくりと頷いた。
◆
「見せてやろう。わしが光圀公に献じた、あの一椀を」
朱舜水が手をかざすと、俺たちの間に湯気の立つ椀が浮かんだ。
俺はそれを覗き込み、思わず眉を寄せた。
俺の知るラーメンとは、まるで違う。
スープは豚骨の白濁ではなく、底が透けるほど澄んだ清湯だった。表面には薄く油が浮かび、湯気とともに、どこか懐かしい香味野菜の匂いが立ちのぼる。
具には韮や葱、生姜などが添えられていた。
「これが……ラーメンだって? 豚骨も、背脂もねえ。ずいぶん上品な一杯だな」
「豚の骨を炊き、白く濁らせるやり方は、はるか後の世の工夫よ。わしが伝えたのは、澄んだ汁と、香り高き菜を用いた麺料理だ」
俺は椀を覗き込んだ。
麺の色が、少し変わっている。小麦だけで打った麺とは、どこか質感も違う。
「この麺……普通の小麦麺じゃねえな」
「ほう。分かるか」
「見ただけじゃ断言できねえが、妙な艶がある。何を混ぜた?」
「藕粉よ」
「おうふん?」
「蓮根の粉じゃ。小麦に練り込んである」
「蓮根を麺に……面白えこと考えるな」
三十年間、散々麺を食ってきた。製麺所とも何度となく揉めたし、粉の配合で徹夜したこともある。
だが、蓮根の粉とは。
俺は、俄然興味が湧いてきた。
「食ってもいいのか?」
「これは、わしが記憶から映し出した一椀。現世の食い物ではないが、味を知ることはできる」
俺が手を伸ばそうとすると、隣からミキが身を乗り出した。
「大将。私も食べたいです」
「お前なあ、幽霊の出したラーメンだぞ」
「だって、三百年以上前のラーメンですよ! 食べない理由があります?」
その目は、完全にいつものミキだった。
俺は思わず苦笑した。
「分かったよ。先に食え」
ミキは嬉しそうに椀を受け取った。
箸を取り、麺をそっと持ち上げる。
ふう、と息を吹きかけてから、一口啜った。
「……!」
その目が、大きく見開かれた。
「どうだ?」
「……おいしい」
ミキはもう一口、今度はスープを味わった。
「すごい。大将のラーメンとは全然違う。脂は軽いのに、ちゃんと旨味がある。野菜の香りも強いけど、スープの邪魔をしてない」
さらに麺を啜る。
「麺も、ちょっと変わってる。噛んだときの感じが違うんです。大将、これ、面白いですよ!」
「ほう……」
朱舜水が、感心したように目を細めた。
「そなた、よき舌を持っておるな」
「えへへ。食べるのだけは得意なんです」
「得意などというものではあるまい。初めて口にする異国の古い麺を、己の知る味と比べ、その違いを楽しめるとは」
ミキは照れくさそうに笑った。
「だって、おいしいものはおいしいですから。昔のラーメンでも、今のラーメンでも」
朱舜水は、満足げに頷いた。
「時を越えて、味を受け止める舌か。なるほどのう」
俺も椀を借り、一口啜った。
確かに旨い。
だが、今の俺が作るラーメンとは、まるで別物だ。
それでも、麺と汁が合わさった瞬間に生まれる、あの不思議な一体感。
その根っこは、俺の知るラーメンと同じだった。
「……三百年以上前にも、こんな一杯があったんだな」
俺は、椀をしばらく見つめていた。
◆
「ところで、さっき香り高き菜と言ったな。何を使ってるんだ?」
朱舜水は髭を撫でた。
「葱、韮、大蒜、生姜、らっきょう。香りの強きものを用いておる。後の世に、水戸の麺を再現する者たちは、これを五辛と呼ぶそうな」
「五辛?」
「仏道では、五辛、五葷と呼んで、忌む菜がある。心を乱し、修行を妨げるとされるものよ。何を五辛とするかは、教えによっても異なるがな」
俺の頭に、ある光景がよぎった。
豚骨や獣肉を禁忌とする高野山。
その僧たちが、ラーメンの匂いを瘴気と呼んで恐れていた。
豚骨だけじゃない。
ラーメンには、昔からあいつらの法と相性の悪いものが、いくつも使われていたのかもしれない。
「なあ。あんた、ひょっとして高野山の連中がラーメンを消した理由を知ってるのか?」
朱舜水の表情が、わずかに曇った。
「すべてを知るわけではない。だが、あの封印がこの国の食に深く関わっていることは、わしも承知しておる」
「封印?」
「高野の奥深くに、千年の昔より封じられたものがある。その封を、麺の湯気が蝕んでおるのじゃ」
「……ラーメンが、何かの封印を壊してるってことか」
「そういうことよ」
俺は言葉を失った。
ただの食い物だと思っていた。
三十年、旨いラーメンを作ることだけを考えてきた。
それが、千年も昔の封印に関わっているだと?
「じゃあ、あいつらがラーメンを消したのは……」
「封を守るためであろう。だが、封じられたものが何であるか、わしにも定かではない」
朱舜水は、静かに俺を見据えた。
「ただ、一つ言えることがある。この国からラーメンの記憶が消えても、味そのものが消えたわけではない。味を覚えた舌が、一つでも残っておれば、蘇らせる道はある」
「その舌が、俺たちだってのか」
「骨の髄まで豚骨の香りに染まった、稀な者たちよ。お前たちならば、消えた一杯を再びこの世に呼び戻せるやもしれぬ」
俺は、目の前の椀を見つめた。
豚骨一筋で三十年やってきた俺に、この澄んだ古い一杯が作れるのか。
畑違いにもほどがある。
だが、朱舜水は俺の迷いを見透かすように言った。
「案ずるな。お前が呼び戻すのは、わしの一杯そのものではない。お前の一杯だ。豚骨であろうと、醤油であろうと構わぬ。一杯に懸けたお前の三十年が、そのまま力になる」
その言葉が、胸の奥の熱を煽った。
三十年。
悪臭と罵られ、警察に詫び、それでも旨いと信じてきた、俺の一杯。
あれは無駄ではなかった。
「三十年、火を見、骨を炊き、刃を振るったのであろう。その手に染みついた厨房の技のすべてを、力へ変える法を授けよう」
朱舜水が、俺の右手へ視線を落とした。
「受け取る覚悟はあるか」
「……ああ」
迷いはなかった。
ラーメンを取り戻す。
そのために、俺にできることが一つでもあるなら。
◆
朱舜水の姿が、光の粒となって俺の掌に吸い込まれた。
熱が、右手に集まる。
指の先まで、得体の知れない力が満ちていく。
俺が握りしめると、掌の中で光が形を成した。
一振りの、包丁。
だが、俺の知る出刃でも柳刃でもない。
刃渡りは俺の腕ほどもあり、峰から柄まで白く輝いている。三十年振るってきた包丁が、そのまま剣の丈に伸びたようだった。
「これが……俺の」
握った瞬間、ずしりとした重みが伝わった。
重い。
だが、不思議と手に馴染む。
長年使い続けた包丁を、久しぶりに握ったときのような感覚だった。
「……すげえな」
俺は思わず、刃を持ち上げた。
その瞬間だった。
ぐいっ、と右腕が引っ張られた。
「うおっ!?」
包丁が、勝手に動いた。
斬れ。
そんな声が、頭の奥に響いた気がした。
白い刃が、低く唸る。
斬れ。斬れ。斬れ。
三十年、旨い一杯だけを目指してきた執念が、行き場を失って刃に流れ込んでいた。
俺の意志とは関係なく、右腕が振り上がる。
「くっ……止まれ! 止まってくれ!」
だが、止まらない。
白刃が唸りを上げ、目の前にある朱舜水の墓へ向かって落ちていく。
「大将っ!」
ミキが、俺と墓石の間に飛び込んできた。
「馬鹿! どけ、ミキ!」
止まらない。
刃が、ミキの頭上へ迫る。
「大将! その包丁で、三十年間何を切ってきたんですか!」
俺の腕が、びくりと震えた。
「人を斬るためじゃないでしょ! お客さんに旨いラーメン食べさせるためでしょ!」
そうだ。
三十年、何万回と握ってきた包丁。
俺は一度だって、人を斬るために握ったことなんかなかった。
チャーシューを切った。
葱を刻んだ。
具材を仕込み、何万杯ものラーメンを作ってきた。
そのすべては、客に旨いと言わせるためだった。
「大将の包丁は、人を笑顔にするためのもんです!」
「……そうだ!」
俺は、右腕にありったけの力を込めた。
止まれ。
俺の包丁だ。
俺の言うことを聞け!
白刃が、びたりと止まった。
切っ先は、ミキの肩先から、わずかに離れたところで震えていた。
あと少し遅ければ。
俺は、ぞっとした。
「……ミキ。お前、馬鹿か。死ぬところだったぞ」
「大将こそ! いきなり包丁振り回して、何やってるんですか!」
ミキの目には、涙が浮かんでいた。
それでも、俺の前から退こうとはしなかった。
「……悪かった」
俺は、ゆっくりと包丁を下ろした。
白い輝きが、静かに収まる。
だが、刃の奥には、まだ微かな震えが残っていた。
こいつを使いこなすには、もう少し修業が要りそうだ。
◆
「なるほどのう」
からりとした声が響いた。
俺たちが顔を上げると、西の峰から一筋の光が差し込んでいた。
さっき訪ねた、徳川光圀の墓がある方角だ。
光は谷筋へと降り、俺たちの目の前で人の形を結んだ。
現れたのは、恰幅のいい老人だった。
柔和な目をして、口元には笑みが浮かんでいる。
時代劇で見たご老公そのものの姿に、ミキが息を呑んだ。
「黄門様……?」
老人は、にこりと笑った。
「いかにも。徳川光圀じゃ」
そして朱舜水の墓へ向かって、楽しげに声をかけた。
「舜水よ。作る者だけを選んでは、一杯は成らぬぞ」
返事はなかったが、墓の周囲に漂う光が、微かに揺れた。
光圀は満足げに頷き、その目をミキへ移した。
「わしは舜水の麺を啜った男。作る者ではない、食うた者よ。後の世には、日ノ本で初めてラーメンを口にした男などと、呼ばれておるらしいがな」
光圀はそこで言葉を切り、含み笑いを漏らした。
「最初、か。さて、それはどうかのう」
俺は首をかしげた。
「違うのか?」
「さあのう。長い歴史の中、誰が最初に麺を啜ったかなど、そう簡単に決められるものでもあるまい」
光圀は、からからと笑った。
「それより大事なのは、食うた後の顔じゃ」
その目が、ミキに向いた。
「娘。お前は先ほど、舜水の一椀を食うたな」
「はい」
「どうじゃった?」
「おいしかったです。大将のラーメンとは全然違ったけど、ちゃんとラーメンでした」
光圀は頷いた。
「初めて口にする味を恐れず、違いを楽しみ、心底うまいと思える。その舌は、なかなか得難いものじゃ」
ミキが、照れくさそうに頬を掻いた。
「そんな大げさな……私、ただ食べるのが好きなだけです」
「それがよいのじゃ」
光圀は、俺の包丁に目を向けた。
「作る者は、ともすれば己の技に囚われる。旨さを追い求めるあまり、食う者の顔を忘れることもある。お前が先ほど刃を止められたのも、この娘がおったからであろう」
「……ああ」
認めるしかなかった。
ミキがいなければ、俺はあの包丁を止められなかった。
光圀は、満足げに笑った。
「うまいものは、作る者だけでは完成せぬ。それを心底うまいと知る舌があって、初めて一杯となる」
そしてミキを見据えた。
「舜水が作る者を選んだなら、わしは食う者を選ぼう」
光圀が手を掲げた。
ミキの掌に、光が集まる。
やがてそれは、柄の長い一本の杓子、オタマの形を結んだ。
「味を掬い、受け止め、次の者へ渡す器じゃ。作る者を守る盾となり、力となろう。娘、その舌で、この男の一杯を守り抜け」
ミキが、おそるおそるオタマを握った。
「……これが、私の?」
そっと振る。
ぶんっ、と風を切る音がした。
「うわっ!」
ミキが驚いて、オタマを取り落としそうになる。
俺は思わず笑った。
「お前、オタマ一本で何を驚いてんだ」
「だって大将! これ、すごく重いんですよ!」
「そりゃ、お前の食い意地が詰まってんだろ」
「失礼な!」
光圀が、腹を抱えて笑った。
「はっはっは! よい、よい。その食い意地こそ、この男の腕と同じだけの値打ちがある!」
ミキは、むっとした顔でオタマを握り直した。
「……私も、戦えるんですね」
「戦えるとも。ただし、忘れるでないぞ」
光圀の声が、少しだけ厳しくなった。
「その器は、人を傷つけるためのものではない。うまい一杯を守り、人へ届けるためのものじゃ」
「はい!」
ミキが、大きく頷いた。
光圀は満足げに笑い、からからと笑い声を残して、光に還っていった。
◆
静けさが戻った谷筋で、朱舜水の声が、最後にもう一度、頭の中に響いた。
「お前たちが取り戻すのは、一杯の味だけではない」
俺は顔を上げた。
「この国の各地には、ラーメンの記憶を封じる楔が打たれておる。その土地に根づいた一杯を蘇らせよ。さすれば、忘却を維持する法は破れ、楔は砕けよう」
「楔を、砕く……」
俺は、上野東照宮の宮司が言っていた杭のことを思い出した。
あれが、楔なのか。
「だが、容易ではない。楔には、それを守る番人がおる。奴らは土地の味が蘇ることを、決して許さぬ」
「つまり、そいつらを倒して、ラーメンを作れってことか」
「作ることと、戦うこと。その二つを、切り離してはならぬ。お前の包丁は、道を切り開くためのもの。娘のオタマは、その一杯を守り、完成へ導くためのものじゃ」
俺は、手の中の包丁を見つめた。
単に敵を斬ればいいわけじゃない。
ラーメンを作る。
それが、あいつらへの反撃になる。
「この水戸の地には、関東を縛る大きな楔がある。黄門公ゆかりのこの地で、まずは土地の一杯を蘇らせてみよ。さすれば、関東の人々の記憶を取り戻す道が開けよう」
「関東の……?」
俺は、思わず聞き返した。
「東京も、か?」
「関東を縛る楔が砕ければ、その法に囚われた土地は解き放たれよう」
東京。
俺の店がある上野。
あの常連客たちも、ライバル店の主人も、ラーメンを思い出すかもしれない。
もう一度、俺の店に客が並ぶかもしれない。
胸の奥が、熱くなった。
「……やってやる」
俺は、包丁を強く握りしめた。
「その楔ってやつを砕いて、ラーメンを取り戻してやる」
朱舜水の声が、かすかに笑った。
「その意気よ。だが、忘れるでない。お前たちが蘇らせる味は、決して一つではない。この国には、土地ごとに異なる一杯がある」
「ああ。知ってるさ」
喜多方、白河、佐野。
札幌、京都、博多。
日本中のラーメンを、俺は食い歩いてきた。
どの土地にも、そこでしか食えない一杯がある。
「そいつを、全部取り戻せばいいんだろ」
返事はなかった。
ただ、山の木々がさわりと鳴った。
俺は包丁を、ミキはオタマを握りしめ、谷筋から山道へと歩き始めた。
「ミキ。山を下りるぞ」
「はい。今度は、逃げるだけじゃありません」
山道を下るにつれ、木々の向こうに山門が見えてきた。
その外側に、網代笠が二つ、静かに揺れている。
待ち構えていやがった。
さっきまでは、恐ろしいだけの追手だった。
だが、今は違う。
俺は右手に力を込めた。
掌の包丁が、白く輝く。
「待たせたな、坊主ども」
今度は、こっちの番だ。




