第4話 瑞龍山の亀と竜
常磐線に揺られ、俺たちは水戸に着いた。
昨夜、上野東照宮の宮司が貸してくれた保温水筒には、あの醤油豚骨のスープが入っている。一杯分にも満たない、俺たちの唯一の武器だ。片手鍋は宮司に預け、水筒だけを鞄に忍ばせてきた。
だが、駅前で観光案内図を見たミキが、首をかしげる。
「あれ……黄門様のお墓、水戸市内じゃないみたいです」
「なに?」
「常陸太田っていう、もっと北の方。瑞龍山って山に、水戸徳川家のお墓があるって」
水戸黄門なら水戸に眠っていると思い込んでいた。だが墓所は隣の市の、それも山の中だという。俺たちは水郡線に乗り換え、常陸太田駅で降りると、タクシーを拾って十五分ほど走った。
ミキの知識も、ここまでだった。黄門様が日本で初めてラーメンを食べたらしい、という一点だけを頼りに、俺たちは動いている。その墓がどんな場所で、そこに何があるのか。ミキも俺も、何も知らない。
ただ、俺には一つ、確かめたいことがあった。
宮司の言った、関東に打たれた見えぬ杭。
ラーメンに関わるものなら、三十年鍛えたこの鼻で、何かを感じ取れるかもしれない。
根拠などなかった。ただの職人の勘だ。
◆
瑞龍山は、深い木々に覆われた静かな山だった。
麓の案内板には、見学には事前予約が要ると記されている。門は固く閉ざされ、普段は人を寄せつけない聖域らしかった。
俺たちに予約などない。
「大将、どうします」
「……ここまで来て、帰れるかよ」
そう言ったものの、勝手に入るわけにもいかない。管理者に連絡するしかないか。そう思って案内板を見直した、そのときだった。
閉ざされていた門が、風もないのに、きしりと開いた。
「……え?」
「大将、今、誰か開けました?」
「いや……」
門の向こうに人影はない。
まるで、俺たちを招いているようだった。
「どうする、大将」
「……入っていいってことなのか?」
まともに考えれば、そんなはずはない。だが、昨夜から坊主に殺されかけ、スープで法力の札を焼くという、まともじゃないことばかり起きている。
今さら、ひとつ増えたところで驚くものか。
「行くぞ」
「大丈夫かなあ……」
ミキと顔を見合わせ、俺は薄暗い参道へ足を踏み入れた。
山の空気は、妙に張りつめていた。湿った土と木々の匂いが鼻をくすぐる。だが、ラーメンにつながる手掛かりらしいものは、何ひとつ感じられない。
やがて、木立の奥に奇妙な墓が見えてきた。
亀の胴体に、竜の首。
巨大な石の亀が墓碑を背負い、その竜に似た頭を参道へ向けている。まるで、この山へ立ち入る者を見定める番人のようだった。
「なんだ、この亀と竜は」
「螭首亀趺っていうらしいですよ。案内に書いてあります」
「ちしゅ……なんだって?」
「ちしゅきふ。儒教に由来するお墓の形なんですって。黄門様が、儒学の礼をもとにした独自のお墓を作らせたそうです」
「へえ……水戸黄門って、ずいぶん変わった爺さんだったんだな」
俺は石の亀を見上げた。
何百年もの間、黙って墓碑を背負い続けてきたのだろう。苔むした甲羅に、木漏れ日が揺れている。
その竜の首が、一瞬、こちらを向いた気がした。
「……ん?」
「どうしました?」
「いや。なんでもねえ」
見間違いだろう。
そう思うことにした。
◆
背後で、玉砂利を蹴る音がした。
振り返ると、はるか下、俺たちがくぐった門の向こうに、網代笠の影が二つ立っている。
上野で俺たちを襲った、あの墨染めの衣だ。
追ってきやがった。
「大将っ!」
「くそ、またかよ!」
僧の一人が、腕を振った。
白い札が、まっすぐ俺の喉を狙って飛んでくる。
俺は反射的に鞄の水筒へ手を伸ばした。
だが、その必要はなかった。
札は門の内側へ入った瞬間、ぼっと青白い炎を上げ、宙で灰になって散った。
「……は?」
もう一枚。
今度も同じだった。
境界を越えた札は、何かに触れたように燃え尽き、地に届かない。
「忌々しい……この墓所には、我らの法を退ける何かがある」
僧が吐き捨てた。
俺は目を見張った。
上野東照宮では、宮司の神札が高野の法力を防いだ。そして今度は、この墓所そのものが札を焼いている。
ここにも、何らかの守りが働いているらしい。
だが、その正体までは分からない。
「井伊ナオキ! 逃げ隠れしても無駄だ! この山を出れば、貴様の首は我らのものよ!」
捨て台詞を残し、僧たちは門の外から立ち去った。
俺とミキは、その場に座り込んだ。
「……助かった、のか?」
「みたいですね」
「ったく。坊主に追われて、今度は墓に助けられるとはな」
「大将、バチ当たりなこと言わないでくださいよ」
「助けてもらったんだから、ありがたがってるだろ」
ミキが、呆れたようにため息をついた。
この山にいる限りは、安全らしい。
だが、一歩出れば、また命を狙われる。
俺は鞄の中の水筒を確かめた。まだスープは残っている。
とはいえ、いつまでも逃げてばかりはいられない。
◆
さらに山道を進み、西側の峰へ登ったところに、ひときわ大きな墓があった。
螭首亀趺の台座の上に、堂々たる墓碑が立っている。
傍らの案内に、俺は目を落とした。
水戸藩第二代藩主、徳川光圀の墓。
水戸黄門、その人の眠る場所だった。
「大将、ここが……黄門様の」
「ああ。やっと着いたな」
俺は墓前に立った。
日本で初めてラーメンを啜ったとも言われる男。
あんたが食った一杯は、どんな味だったんだ。
どんな麺で、どんな出汁で、何を具に乗せた?
三百年以上も昔の料理だ。今のラーメンとは、似ても似つかないものだったのかもしれない。
それでも、確かにあんたは食ったんだろう。
俺たちが取り戻そうとしている、あの一杯を。
「あんたが食ったラーメンを、俺にも教えてくれよ」
答えなど返るはずもない。
そう思った、そのときだった。
鼻の奥が、微かに疼いた。
「……ん?」
匂いだ。
今まで嗅いだことのない、古い料理の匂い。
いや、違う。
俺は、この匂いを知っている。
三十年間、毎日嗅ぎ続けてきた、あの匂いの奥底にあるものだ。
「大将?」
「……匂う」
「え?」
「ラーメンだ」
ミキが目を丸くした。
「こんなお墓の山で?」
「ああ。間違いねえ」
俺は鼻を鳴らした。
だが、匂いは光圀の墓からではない。
もっと奥だ。
木立の向こう、二つの峰に挟まれた谷筋。
そこから、微かに漂ってくる。
「ミキ、こっちだ」
「ちょ、大将! どこ行くんですか!」
俺は匂いに引かれるように、山道を下った。
◆
木立の向こう、東西の峰に挟まれた窪地に、もう一つの墓があった。
徳川家の歴代藩主が眠るこの山にあって、その墓だけは、どこか異なる気配をまとっていた。
粗末な墓ではない。
むしろ、特別な場所に、大切に守られているように見えた。
「……ここか」
俺は墓の前に立った。
不思議な匂いは、確かにここから漂っている。
傍らの案内には、こう記されていた。
朱舜水。
明の遺臣にして、徳川光圀公の学問の師。
「ミキ。……もしかして、この人じゃねえか」
「え?」
「中国から来た、黄門様の師匠だ。もし黄門様にラーメンを教えた奴がいるなら……」
俺は墓碑を見上げた。
異国から日本へ渡り、水戸黄門に学問を教えた男。
その教え子が、後に日本で初めてラーメンを食べたとも言われている。
偶然だろうか。
いや、偶然にしては、出来すぎている。
「……この人が、黄門様に教えたってことですか?」
「分からねえ。だが、可能性はある」
墓から漂う匂いは、豚骨でも醤油でもなかった。
もっと素朴で、もっと古い。
小麦の香り。熱い汁の気配。
何百年も昔の厨房で、誰かが麺を茹でている。そんな光景が、なぜか頭に浮かんだ。
俺は思わず、息を呑んだ。
この匂いだ。
今のラーメンとは違う。だが、確かに、同じ根を持つ匂いだ。
ここに何かがある。
関東に打たれた杭。その糸口も、もしかしたら、この墓にあるのかもしれない。
「大将……?」
ミキが、不安そうに俺を見上げた。
俺は答えなかった。
代わりに、墓へ向かって手を伸ばした。
石には触れず、掌をそっとかざす。
「……あんたが、黄門様に教えたのか?」
答えはない。
「ラーメンってのは、いったい何なんだ?」
山の木々が、さわりと鳴った。
俺は半信半疑のまま、さらに掌を近づけた。
次の瞬間。
掌に、じわりと熱が灯った。




