第3話 徳川ゆかりの宮司
店を畳むと決めた、その夜だった。
捨てる踏ん切りがつかず、俺は寸胴に残ったスープを、片手鍋に小分けにして、もう一度火にかけていた。これが最後の一杯になるかもしれない。そう思うと、どうしても火を止められなかった。
店の明かりを落とそうとした俺の手が止まる。カウンターの奥、闇だまりの中に、墨染めの衣がぼうと浮かんでいた。網代笠の下から、二つの目が俺を見据えている。いつ入ってきたのか、物音ひとつしなかった。
「井伊ナオキだな。それに、そこの娘も」
何者だ、こいつ。僧の手が、すっと持ち上がる。指の間に、白い札が挟まれていた。
「恨みはない。だが、ラーメンを覚えておる者を、生かしてはおけぬ」
札が宙を裂いた。
俺は反射的にミキを突き飛ばした。白い札が二人の間を走り、背後にあった空の寸胴を真っ二つに断ち割る。
跳ねた寸胴の片割れがコンロにぶつかり、片手鍋が大きく揺れた。熱いスープが飛び散り、白い湯気が噴き上がる。
その湯気を浴びた僧が、ぐっと顔をしかめ、一歩下がった。
「ぐ……この、瘴気……!」
俺は見逃さなかった。あれほど涼しい顔で寸胴を斬った僧が、スープの湯気に、確かにひるんだのだ。
「ミキ! 裏口だ、開けろ! 鍋は俺が持つ!」
「は、はいっ!」
俺はコンロの火を消し、片手鍋の持ち手を鍋つかみで握った。中には、温め直した醤油豚骨が、まだ湯気を立てている。
何の考えもなかった。ただ、これだけは渡したくなかった。
◆
裏口から夜の街へ転がり出る。背後で、また空気が鳴った。街灯の柱が、紙を切るように断ち切られて倒れる。
殺す気だ。あの坊主は、本気で俺たちを殺しに来ている。なぜだ。ただラーメンを作っていただけの俺を、なぜ。
背後で、僧が誰かに合図するように、ぱちんと指を鳴らした。
その意味を悟る間もなかった。角を曲がったところで、路地の先に、もう一人。網代笠が、退路を塞いでいた。
「逃がさぬ」
札が放たれる。俺は咄嗟に、手にした鍋のスープを、思いきり振りまいた。
熱々の醤油豚骨が、宙で札と交わる。
ぼっ――。
札が、青白い炎を上げて燃え尽きた。灰が、はらはらと落ちる。僧が、信じられぬものを見る目で、後ずさった。
「馬鹿な……ただの汁が、法力の札を……」
俺にも、わけが分からなかった。
だが、ひとつだけ分かったことがある。
この匂いが、このスープが、あの坊主たちの術を焼く。ラーメンは、こいつらにとって、ただの悪臭ではない。
「大将、今のうちに!」
俺たちは、呆然とする僧の脇をすり抜け、夜の奥へ走った。
◆
参道の奥に、朱塗りの社が闇に沈んでいた。
上野東照宮。徳川家康を祀るこの社だ。
とうに閉門し、門は固く閉ざされている。俺たちは裏手に回り、通用門を半狂乱で叩いた。
「頼む! 誰か! 開けてくれ! 匿ってくれ!」
しばらくして、きい、と通用門が開いた。白い装束の老人が、顔をのぞかせる。この社の宮司らしい。
ただならぬ俺たちの様子に、老人は眉をひそめ、それから俺の胸元に目を止めた。
「その根付……橘の紋か」
「え……ああ、これ。じいさんの形見だよ。昔から家に伝わってるとかで」
俺が首から下げた古い根付には、彦根の祖父から受け継いだ橘の紋が刻まれている。宮司はそれを食い入るように見た。
「井伊の橘。まさか、井伊の血を引く御方か」
「井伊は俺の名字だけど、血筋なんて知らねえよ」
そのとき、閉じた門の向こうで、玉砂利を蹴る音がした。
門扉の隙間に、網代笠の影が二つ。
追ってきやがった。
「お下がりなされ」
宮司が俺たちを背にかばい、懐から一枚の神札を抜いた。
門の上を越えて、僧の放った白い札が飛来する。宮司の神札がそれを迎え撃ち、宙で激突した。
ぱん、と乾いた音が弾け、火花が散った。僧の札が、力を失って地に落ちる。
「高野の法よ。ここは東照大権現の御前ぞ。一歩たりとも踏み込ませはせぬ」
門の向こうから、小さく舌打ちが聞こえた。
二つの影は数歩あとずさり、やがて闇に溶けて消えた。
◆
社殿の裏、板張りの小部屋に通された。宮司が四方に神札を貼ると、外の気配がぷつりと途絶えた。
「……助かった。あんた、何者だ」
「この社を守る、ただの宮司にすぎませぬ。ただ、家康公にお仕えした者の末として、いささか神道の法を心得ておるまで」
宮司が湯呑みを二つ、静かに差し出した。俺もミキも、まだ息が整わない。
「あなた方を追っていたのは、高野山の手の者でしょう。表には出ぬ、封印を守る血脈。よほどの禁忌に触れた者だけを、密かに始末すると聞きます。あなた方、いったい何をなさった」
「何もしてねえよ。ただ、ラーメンを作ってただけだ」
「らーめん、とは」
宮司もまた、その言葉を知らなかった。
俺は力なく笑う。もう驚きもしない。この街で、ラーメンを覚えているのは俺とミキだけなのだ。
「料理だよ。豚の骨を炊いたスープに、麺を入れた食い物だ。つい先週までは、日本中の誰もが知ってたんだがな」
「……それが、どうなさった」
「金曜日から、誰も覚えてねえんだ。常連客も、同業者も、自分が何を作ってたかすら忘れてる。俺とミキだけが覚えてるんだよ」
宮司の表情が険しくなった。
「……食べ物の記憶を、人々から奪ったと?」
「そうとしか思えねえ」
俺は、さっきの光景を思い返した。
「それだけじゃねえ。そのラーメンのスープを、あいつらの札にぶちまけたら、札が燃えた。青い炎でな。ただの汁が、坊主の術を焼いたんだ」
宮司の目が、鋭く見開かれた。
「なんと……食べ物が、高野の法力を焼いたと?」
宮司は、しばし黙り込んだ。
「もしや、高野の秘法が関わっているのかもしれませぬな」
「秘法?」
「この東照宮には、徳川の霊力が根を張っております。外から仕掛けられる高野の法ならば、ある程度は防げる。ですが、関東全体を覆うような大きな術までは、防ぎきれませぬ」
宮司は声を落とした。
「近ごろ、関東一円に、見えぬ杭のようなものが打ち込まれた気配があるのです。土地の記憶を、ぎゅうと押さえつけるような……」
杭。
俺の頭に、ここ数日の異変がよぎった。この街の連中が、揃ってラーメンを忘れた、あの不自然さ。
「じゃあ、誰かがわざとラーメンを忘れさせてるってのか」
「断言はできませぬ。ですが、あなたの話を聞くかぎり、その可能性はありましょう」
宮司は、腕を組んで考え込んだ。
「その料理が高野の札を焼くというのも、偶然ではありますまい。仮に高野がその記憶を消したのならば、よほど彼らにとって都合の悪いものなのでしょう」
「ラーメンが、あいつらの弱点だってことか」
「あるいは、それ以上の何かかもしれませぬ」
宮司にも、すべては分からないらしい。
だが、俺にはひとつの希望が見えてきた。
ラーメンのスープが、あいつらの術を焼く。
そして、そのラーメンを、俺たちはまだ作れる。
「その杭を抜けば、どうなる」
「さて。土地が、元に戻るのではありませぬかな。押さえつけられていたものが、解き放たれて」
宮司の言葉は推測にすぎない。
それでも、何もかも失った俺には、十分すぎる話だった。
◆
湯呑みの茶で人心地ついたころ、ミキがふいに顔を上げた。
「大将。私たち、これからどうします」
「どうもこうも……あの坊主に狙われて、店にも戻れねえ。行く当てなんかねえよ」
「行く当て、ひとつだけ思いつきました」
ミキが記憶を手繰るように、天井を見上げた。
「日本で初めてラーメンを食べたのって、水戸黄門じゃなかったでしたっけ。前に、そんな話を本で読んだ気がして」
「水戸黄門が、ラーメンをねえ」
「確証はないですよ。でも、他に当てもないでしょ。ラーメンのことで何か分かる土地があるとしたら、そこかなって」
他に当てもない。それは確かだった。
ラーメンが消えたこの世界で、俺たちが知っている唯一のラーメンの手掛かりが、水戸黄門だ。しかも水戸は、関東。宮司の言う、見えぬ杭の打たれた一円の内だ。
「宮司さん。水戸にも、その杭ってのは打たれてるのか」
「おそらくは。関東に根づいた、その料理の記憶を押さえる要が、どこかにあるはず。水戸は、徳川ゆかりの古き地。何か、鍵があるやもしれませぬ」
宮司が、静かに頷いた。
「井伊の名を継ぐ御方。徳川に連なる地が、あなたを導くやもしれませぬ。ここは私が抑えておきましょう。夜のうちに、お発ちなされ」
逃げるだけだった俺たちに、初めて行く先が出来た。
目指すは水戸。
かつて日本で初めてラーメンを啜ったとも言われる、あのご老公ゆかりの土地だ。
そこに行けば、何かが分かるかもしれない。
ラーメンの記憶を奪った奴らのことも、俺たちだけが覚えている理由も。
俺は、手元の片手鍋に目を落とした。
路地でスープを振りまいたせいで、中身は半分ほどに減っている。
だが、こいつだけで、あの坊主の札を燃やせた。
だったら、麺を茹で、具を乗せ、俺のラーメンを完成させたら、どうなる?
まだ、分からねえ。
だが、戦う手段はある。
俺はミキを見た。
「行くぞ。水戸だ」
「はい、大将!」
この一杯を取り戻す旅が、今、始まる。




