第2話 悪臭と呼ばれた一杯
週が明けた月曜日、テレビをつけた俺は、また別の異変を突きつけられた。
『週明けの東京市場は、歴史的な下落となっています。一部の外食企業では株価が急落し、ストップ安となる銘柄が相次いでいます。奇妙なことに、これらの企業では、先週まで主力としていた商品が何だったのか、社員すら説明できないという状態が続いており……』
画面の中で、アナリストが青い顔をして数字を読み上げている。急落を示すチャートが並び、共通点の見えない企業の株が、そろって値を崩していた。
「原因が……分からない?」
スタジオの解説者は言葉を濁すばかりだった。業績の悪化でも、不祥事でも、災害でもない。先週末を境に、それらの会社の売上がまるごと消え失せた。看板商品の名前すら、社員の口から出てこない。
当然だ。世界からラーメンが消えたなどと、この男たちの頭には一片も残っていないのだから。経済にぽっかりと空いた巨大な穴を、誰一人その名で呼べずにいる。
「大将、これって……」
「ああ。ラーメンが消えたせいだ」
俺とミキだけが、この暴落の本当の理由を知っていた。何千という店が、何万という従業員が、理由も分からぬまま職を失いかけている。世界はまだ、自分が何を失ったのかにすら気づいていない。
「けど、逆に言えばチャンスかもしれねえ」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。ライバルが軒並み消えたのだ。ここでラーメンの旨さを思い出させれば、客は戻る。俺は寸胴に火を入れ、ミキと二人、店先に試食の台を出した。
◆
「いらっしゃい! 熱々のラーメン、一口どうぞ! 旨いよ!」
小さな紙カップに麺をひとつまみ入れ、熱々のスープを注いで差し出す。行き交う人に片っ端から声をかけた。昼時の上野は人通りが多い。百人に声をかければ、一人くらいは足を止めるはずだった。
だが、誰も止まらない。
「うっ、なんだこの匂い」
「臭いわね。腐ってるんじゃないの」
スーツの男が顔をしかめて通り過ぎる。主婦らしき二人連れが鼻をつまんで足を早める。差し出した紙カップを、汚物でも見るような目で見られた。あの湯気を、旨そうだと思う人間は一人もいない。
「ちょっと! 試食なんていいから、その臭い鍋を早くしまってよ!」
通報するぞと凄まれ、俺は台を引っ込めようとした。だが、その言葉は脅しでは終わらなかった。
◆
十分もしないうちに、パトカーが一台、店の前に停まった。
「通報がありましてね。この辺りで、ひどい異臭がすると」
降りてきた若い警官が、寸胴を一瞥して露骨に眉をひそめた。ベテランらしきもう一人が、鼻を袖で覆いながら近づいてくる。
「これは……何の匂いですか。何か、腐らせてます?」
「いえ、これはラーメンで……」
「らーめん? 聞かない料理ですね。とにかく、近隣から苦情が出てるんですよ。営業ならせめて、この匂いを何とかしてもらわないと」
俺の喉から、言葉が出てこなかった。
三十年、この匂いで飯を食ってきた。旨い匂いだと、通りすがりに褒められることもあった。それが今、公権力に腐ったもののように扱われている。
「……すみません」
気づけば、俺は頭を下げていた。自分が命を懸けてきた一杯を、悪臭として詫びていた。
「大将は悪くないです! これは、すごくいい匂いなんです!」
ミキが警官の前に飛び出す。だが、若い警官はミキの剣幕にたじろぎ、かえって警戒を強めた。
「お嬢さん、あなたも大丈夫ですか。こんな匂いをいい匂いだなんて……気分でも悪いんじゃ」
庇おうとしたミキまで、頭のおかしい人間を見る目で見られた。俺はミキの腕を引き、もう一度、深く頭を下げた。
「すみません。すぐ、片付けます」
パトカーが去ったあと、俺は震える手でどんぶりを一つ取り出した。
「大将……?」
「一杯だけだ。自分で、確かめる」
麺を茹で、スープを張り、チャーシューを乗せる。三十年、何万回と繰り返してきた手順だ。湯気の立つ一杯を、俺は自分でカウンターに置き、箸を取った。
啜る。
旨い。
醤油の香りに豚骨のコクが溶け、麺が喉を滑り落ちていく。どこにも狂いはない。世界がなんと言おうと、この一杯はまぎれもなく旨いのだ。
だが、この旨さを分かってくれるのは、俺とミキだけだった。
何万人もの客に食べさせてきた一杯が、今はたった二人の世界に閉じ込められている。
これほど旨いものが、客の誰にも届かない。旨さを知っているからこそ、届かないことが骨身に応えた。
俺はどんぶりを置き、寸胴の火を落とした。
「……もう、いいや」
◆
「大将、まだ諦めるのは早いですって」
「早くねえよ。自分で食って、確かめちまった」
俺は椅子に沈み込んだ。腕には自信があった。この醤油豚骨は、三十年ラーメンに人生を注いできた俺の集大成だ。今なお旨いことを、俺自身がいちばんよく知っている。
それでも誰にも届かない。悪臭として拒まれ、公権力に詫び、自分だけが旨さを噛みしめる。職人にとって、これ以上の地獄はない。
「店をたたもうと思う」
ミキが息を呑むのが分かった。それでも俺の口は止まらなかった。客が来ない店に、明日はない。家賃も、お前のバイト代も、もう払えない。
「見てこいよ、外を。みんな、とっくにこうなってる」
俺は重い体を引きずって、もう一度街へ出た。
数日前まで湯気を上げていたラーメン屋が、どこも様変わりしている。一軒はシャッターが下り、貼り紙に「閉店」とだけあった。
鎬を削ったあのライバル店は、入口に「コーヒー始めました」と手書きの紙を貼っていた。店主は自分がラーメンを作っていたことすら忘れ、慣れない手つきでインスタントコーヒーを淹れている。
ラーメンという文化が、根こそぎ地面から引き抜かれていた。俺一人が、抜かれた穴の前に立ち尽くしている。
「大将……」
追いかけてきたミキが、俺の背に声をかける。かける言葉が見つからないのだろう。俺だって同じだった。
◆
「なあ、ミキ。ひとつ、分からねえことがある」
俺は、ふと足を止めた。
「なんで、俺たちだけなんだ。この街の連中は、揃ってラーメンを忘れた。なのに、俺とお前だけが覚えてる。何が違う」
ミキが、考え込むように首をかしげた。
「……あの晩、ですかね。私たち、朝まで寸胴に張りついて、豚骨の湯気、浴びっぱなしでした」
「ああ。髪にも服にも、匂いが染みついてた」
「あれで、何かが……効かなかった、とか」
確証はなかった。だが、ほかに思い当たることもない。豚骨の匂いに骨の髄まで浸かっていた俺たちだけが、世界を覆った何かから、たまたま漏れた。
そう考えると、妙に腑に落ちた。
俺たちは、ラーメンの匂いに守られている。
◆
その会話を、路地の陰から聞いている影があった。
墨染めの衣に網代笠。行き交う人の目には、托鉢の僧としか映らない。だが笠の下の双眸は、肩を落とす男と、その傍らの娘だけを、静かに射抜いていた。
「……気づきおったか。勘のいい鼠よ」
僧は懐から小さな札を取り出した。二人へ向けると、白かった札がじわりと黒く滲んでいく。男に近づけた端が、ちりと焦げた。
「都の記憶は、本山の秘法でじかに拭った。だが、その忘却を維持しているのは、関東に打たれた楔だ。楔が健在であるかぎり、誰一人、ラーメンを思い出せぬはずだった。……この二人を除いてはな」
僧は目を細めた。
秘法を逃れ、しかも己がなぜ逃れたかにまで勘づいた者。
この二人の記憶が、いずれ各地の楔を脅かすやもしれぬ。
「芽のうちに、摘み取らねばならぬ」
僧は網代笠を目深に下ろし、雑踏に溶けていった。
自分たちに向けられた、その冷たい視線に、ナオキはまだ気づいてすらいなかった。




