第1話 ラーメンが消える日
※本作はフィクションです。作中に登場する事件、秘密組織、儀式および超常現象はすべて創作であり、実在の人物・宗教団体等の活動や見解を示すものではありません。
「阿闍梨……これはいったい……?」
「なんてことだ……弘法大師の封印に、ほころびが……」
高野山。千年以上も前に空海が開いた仏教の聖地である。その地下深く、一般の僧すら立ち入れぬ聖域に、弘法大師が封じたと伝わる存在があった。岩戸は幾千もの札で塞がれている。しかし、ところどころ札がめくれ、わずかに瘴気が漏れ出していた。
この地下を守るのは、高野山の僧の中でも、ごく一握り。宗派を越えて封印を受け継いできた、封印守護の血脈だけであった。
「いったい何故……」
守護の僧たちは困惑した。千年以上もの間、このような事件は一度も起きていない。それが今になって、なぜ封印が綻び始めているのか。
「おい、変な匂いがしないか?」
「くっ! 瘴気を吸うな!」
瘴気の匂いはどこか獣臭く、そこに独特の匂いが混じっていた。僧たちはそれが身近な匂いだと気づく。
そう。ラーメンと同じ匂いだ。
封印を守る一族にとって、豚骨や獣肉を使うラーメンは禁忌である。獣を煮溶かした汁も、心を乱すかん水の香りも、仏の道に背くものとして遠ざけてきた。
僧たちは原因を探るべく、山を下り、さまざまな食べ物を持ち帰って封印を試した。
うどんの湯気には、札は何も応じない。蕎麦でも、飯でも同じだ。だが、かん水で打った中華麺を近づけた途端、札がぶるりと震えた。さらに熱々の豚骨ラーメンを寄せると、その一枚が、するりと剥がれ落ちた。
「やはり……ラーメンか」
僧たちはひとつの結論に達した。今の世の中、ラーメン屋は日本中の至るところにある。その湯気が、匂いが、瘴気となって集まり、徐々に封印を蝕んでいるのだと。
「この封印が解かれると大変なことになるぞ」
「ラーメンを禁じねば、世界が終わる」
「だが、どうやって禁じる。ラーメンは国民食だ。一大産業であり、食文化なのだ。我らが叫んだところで、国民が従うものか」
僧たちは思案に暮れた。そのとき、奥から低い声が響いた。
「ひとつ、手がある」
一同の視線が、阿闍梨に集まる。守護の血脈を束ねる、老僧であった。
「かつて弘法大師が残した秘法を使う。この日ノ本の人々の記憶から、ラーメンという存在そのものを消し去るのだ。根こそぎな」
「なんと! そのようなことができるのですか」
「高野山に伝わる秘法中の秘法よ。我ら守護の者が一丸となり、一年をかけて儀式を為さねばならぬ」
若い僧が、思わず口を開いた。
「阿闍梨さま。民から、楽しみを奪うのですか。ラーメンを愛する者も、それで暮らす者も、大勢おります」
阿闍梨は、しばし目を閉じた。その顔に浮かんだのは、勝ち誇りではなく、深い苦渋だった。
「分かっておる。わしとて、好きで民の記憶を奪うのではない。だが、封が解ければ、失うのは一杯の楽しみどころではない。この国そのものが滅ぶ。……背負うのは、我らの業だ」
阿闍梨は目を開き、一同を見渡した。
「心せよ。この秘法、一度唱えて終わりではない。日ノ本は広い。都の記憶を消しても、地方の土地に染みついた味の記憶までは、容易には拭えぬ。ゆえに、各地へ楔を打つ」
「楔、でございますか」
「土地ごとに術式を仕込み、腹心を遣わして、その楔を維持させる。楔が立つかぎり、その地の者は、ラーメンを思い出さぬ。たとえ看板や品書きが残っていようと、そこに書かれた文字を読めても、もはや何を意味するのか理解できなくなる」
阿闍梨の言葉に従い、幾人もの腹心が、全国へと散っていった。北は北海道から、南は九州まで。古いラーメンの根づいた土地には、ことごとく、高野山の楔が打ち込まれていく。
そして一年後。
守護の僧たちが次々と法力を使い果たして倒れる中、ついに秘法は成った。
この国の人々の記憶から、ラーメンが消えたのだ。
だが、その秘法から逃れた男が、東京にいた。
◆
「よし。スープは仕上がった。今日の昼営業から、この醤油豚骨ラーメン極スペシャルを出すぞ。ミキ。朝まで付き合わせて悪かったな」
「はいはい。私が手伝わないと大将一人じゃ無理でしょ。その分、バイト代をはずんでよ」
俺は井伊ナオキ。東京は上野でラーメン店を営む店主だ。ミキはそこで働く女子大生のバイトで、俺と同じくラーメンに目がない。チャーシューのような、もといムチムチとした体型がとても可愛い。
昨夜から俺たちは寸胴に張りついていた。豚骨を炊き、湯気を浴び、味を確かめては火加減を調整する。厨房に籠もった獣の匂いは、もう二人の髪にも服にも染みついている。それでも嫌になるどころか、この匂いを嗅ぐと腹の底が疼いた。
ミキが味見のレンゲを置いて、唸った。
「大将。これ、昨日より旨くなってる」
「分かるのか」
「醤油の角が取れた。あと、豚骨の甘みが、ぐっと強くなった」
「……お前、ほんとに恐ろしい舌してるな」
「その舌を朝まで働かせたんだから、バイト代はずんでってば」
俺たちは眠い目をこすり、午前11時に店を開けた。だが、外の様子はどうもおかしい。
「今日はお客さん並んでないね」
「ん? そんなはずないだろ」
ミキに言われ、俺は表に出た。いつもなら開店前から30人近い客が待っているのに、今日は誰ひとりいなかった。
「今日は定休日じゃないよな?」
カレンダーを確かめると金曜日だ。定休日ではない。不審に思いながら街を歩く。俺の知らないうちに競合の新店でも開いたのかと疑ったが、そのような店はどこにもない。
それどころか、ラーメン屋だけがどこも閑古鳥の鳴く有様だった。うどん屋にも蕎麦屋にも客がいる。ラーメン屋だけに、客がいないのだ。俺は蕎麦屋に店の常連を見つけ、慌てて駆け寄った。
「やあ、佐伯さん。今日は蕎麦かい?」
「ああ、井伊さん。蕎麦の気分だったからね」
「そうなのか。今日から新商品の醤油豚骨ラーメン極スペシャルを始めたんだ。食べに来てくれよ」
佐伯は不思議そうな顔を俺に向けた。
「は? ラーメンって何ですか? そういえば井伊さんの店って何屋だっけ。イタリアン?」
「え? ラーメン屋だよ。何、冗談いってるのさ」
「だからラーメンって何だよ。そんなもの、食べたことも見たこともないよ」
俺は愕然とした。佐伯が嘘を言っているようには、とても思えなかったからだ。狐につままれたような心地で、俺はさらに街を歩いた。
「ああ、井伊さん。変なこと聞いていいかい?」
声をかけてきたのは、俺の店と鎬を削るライバル店の主人だった。
「変なこと? 客がいないことか?」
「いや、それもそうなんだけど。俺の店って、何屋だっけ?」
そんな馬鹿な、と思った。ラーメン屋が、自分の店をラーメン屋だと忘れたとでも言うのか。
呆然とする俺の携帯が鳴った。ミキからだ。
「大将! 大変です! すぐ来てください!」
走って店に戻ると、店の前には人だかりができていた。
「よかった。客が来た」
だが、そう思ったのも束の間、それは客ではなかった。
「ちょっと! さっきから獣臭い匂い出さないでよ! 近所迷惑だぞ!」
「は!? 近所迷惑って! いつもの匂いでしょ。こっちはラーメン作ってるんだよ」
「ラーメン? なんだそれ。こんな悪臭を撒き散らすなら警察呼ぶぞ!」
そう言い捨てて、人だかりは散っていった。あとには俺とミキだけが残される。
俺は厨房に戻り、寸胴の蓋を開けた。白く濁ったスープが湯気を立てている。顔を近づけ、深く吸い込んだ。豚骨と醤油の、あの匂い。腹の底が疼く、俺の人生そのものの匂いだ。
これのどこが悪臭だというのか。
「大将……やっぱり、いい匂いですよね。私たち、おかしくないですよね?」
いつのまにか隣に立ったミキが、同じように湯気を吸い込んでいた。湯気を挟んで、ミキと目が合う。
「ミキ。お前、ラーメンを覚えてるな」
「覚えてるも何も……昨日一緒に作ったじゃないですか。醤油豚骨ラーメン極スペシャル」
「そうだ。俺たちは覚えてる。なのに、外の連中は誰も覚えてない」
ミキの顔から血の気が引いた。彼女もようやく気づいたのだ。おかしいのは、俺たちじゃない。周りの人間が、揃いも揃って、ラーメンを忘れているのだと。
「なんで……なんで私たちだけ」
その問いに答えはない。
ただ一つ確かなのは、昨夜、俺たちだけが夜通し、この豚骨の湯気を浴び続けていたという事実だけだった。
世界からラーメンが消えたのだ。
――ただ二人、この匂いを覚えている俺たちを残して。




