第7話 水戸、関東の楔
第七話 水戸、関東の楔
水戸の街に戻った俺たちは、まず薬局で傷の手当てを済ませ、それから食材を探しに歩き回った。
ラーメンの記憶が消えたところで、豚や鶏まで消滅したわけじゃない。精肉店で豚骨と鶏ガラを分けてもらい、スーパーと八百屋を回って醤油、小麦粉、葱、韮、生姜、大蒜、らっきょうを買い揃えた。最後に蓮根をかごへ入れると、ミキが不思議そうに覗き込んできた。
「大将、蓮根も使うんですか?」
「麺に練り込む。朱舜水の爺さんが見せてくれただろ」
「でも、あれは蓮根の粉でしたよ。これ、普通の蓮根ですけど」
「すりおろして、水で澱粉を取り出すんだよ。手間はかかるが、やれねえことはない」
「……なんか、楽しそうですね」
「馬鹿。こっちは命が懸かってんだぞ」
そう答えながらも、俺は口元が緩むのを止められなかった。
三十年もラーメンを作ってきたというのに、まだ知らない麺がある。しかも、三百年以上も前の料理を手掛かりに、新しい一杯を作ろうというのだ。命を狙われている身で浮かれている場合じゃないが、料理人としては腕が鳴る。
問題は、どこで作るかだった。
俺の店は東京の上野だし、ホテルの部屋で豚骨を炊くわけにもいかない。かといって、ラーメンの存在を忘れた街で厨房を借りられるものかと歩き回っていたところ、商店街の一角に、暖簾を外した小さな店を見つけた。
ガラス戸の向こうにはカウンターと使い込まれた寸胴が見える。どう見たってラーメン屋だが、入口には「当面休業」と書いた紙が貼ってあった。
店の奥にいた初老の主人に声をかけると、妙な話になった。
「厨房だけは立派なんだけどねえ。何を作って商売してたのか、さっぱり思い出せないんだよ」
壁には「醤油」「味噌」「チャーシュー麺」と手書きの品書きが並んでいた。主人は文字を読むことはできるが、そこに書かれた料理が何なのか分からないという。
「……あんた、ラーメン屋だったんだよ」
「その、らーめんってのは、そんなに旨いものなのかい?」
「ああ。旨いとも。少なくとも俺は、三十年そいつで飯を食ってきた」
主人はしばらく俺の顔を眺めていたが、やがて鍵を取り出した。
「厨房を使いたいんだろう? 道具を壊さないなら貸してやるよ。店を畳むにしても、何を売ってたのか分からないままじゃ気持ちが悪くてね」
使用料を払って中へ入ると、麺茹で機も冷蔵庫も、まだ使える状態だった。コンロの五徳には長年の火の跡が残り、まな板も包丁も、何度となく研ぎ直した形跡がある。
どこの誰とも知らない店主だが、同業者の仕事場に立つと、なんとなく人柄が分かるものだ。
この人にも、必ず思い出させてやろう。
◆
まずは寸胴に火を入れた。
豚骨と鶏ガラを下処理し、浮いてくる灰汁を丁寧に引きながら、澄んだ出汁を取っていく。普段の俺なら白く濁るまで炊き込むところだが、今回は朱舜水の見せた清湯が手本だ。火加減を見ながら、骨から出る旨味だけをじっくり引き出す。
その間に蓮根をすりおろし、水を加えて揉み出した汁を容器へ移した。しばらく置けば、底に澱粉が沈む。上澄みを捨て、残った湿った澱粉の水分量を見ながら小麦粉に合わせるのだ。
「大将、さっきから何回粉を合わせ直してるんですか」
「納得いくまでだよ。水分がちょっと違うだけで、麺の腰が変わっちまう」
「朱舜水さんの麺、そんなに難しいんですか?」
「正確な配合なんか分からねえからな。あのとき食った感触だけが頼りだ」
ミキは感心したように頷いていたが、三度目の試作を始めたあたりから、露骨に腹を鳴らし始めた。
「……大将、いつ食べられます?」
「まだだ」
「さっきからずっと、まだって言ってますよ」
「なら、もう少し待ってろ」
文句を言いながらも、ミキは真剣に味見をしてくれた。蓮根の澱粉を加えた麺は、配合を間違えると妙にべたつく。ようやく納得できる歯応えになったところで、今度はスープと薬味の釣り合いを取らなければならなかった。
葱、韮、生姜、大蒜、らっきょう。朱舜水が教えてくれた五つの香りは、それぞれが強い。何も考えずに入れれば、ただの薬味の喧嘩になる。
「大将、まだ生姜が勝ってますね」
「分かってる。少し減らすか」
「あと、スープがちょっと軽いかも」
「そっちは骨の旨味をもう少し引っ張る」
「なんだ、ちゃんと分かってるじゃないですか」
「お前なあ……」
ミキはにやにやしながらレンゲを置いた。こいつ、人が苦労しているのを楽しんでやがる。
肩の傷はまだ痛むし、包丁を握り続けていると腕も重くなる。それでも鍋の前に立っていると、妙に落ち着いた。昨日まで命懸けで坊主と戦っていたことが、まるで別の世界の出来事のようだ。
何度も出汁を合わせ直し、麺の配合を変え、五辛の量を調整する。朱舜水の一杯をそのまま再現できるとは思っていない。三百年以上も昔の材料や製法を、俺たちが完全に知ることなどできないからだ。
だが、あの爺さんが光圀公に伝えたという一杯の面影を、今の俺の腕で蘇らせることはできるはずだった。
夜を徹して作業を続け、朝方になってようやく狙った味が出た。
ミキはまずスープをひと口飲み、それから麺を啜った。何度か噛みしめ、もう一度スープを味わってから、ようやく顔を上げる。
「……大将、これです」
「どうだ」
「おいしい。すごくおいしいです。澄んでるのに出汁が深いし、麺もちゃんと弾力がある。五辛も今度はまとまってます」
俺も椀を受け取り、麺を啜った。
確かに旨い。普段の醤油豚骨とはずいぶん違うが、出汁の厚みと麺の歯応えがちょうどいいところへ収まっている。薬味も、ひと口ごとに違った香りが立つ。
「……よし、これでいこう」
味は決まった。だが、俺とミキが何杯食ったところで、忘れられたラーメンが街へ戻るわけじゃない。
今度は、この一杯を水戸の人間に届ける番だ。
◆
店主に頼み、店の入口を開け放って、小さな試食台を置かせてもらった。厨房から湯気が通りへ流れると、道行く人々が次々と顔をしかめる。
「何だ、この匂い」
「獣臭いわねえ」
「そんな妙なもの、ここで売るなよ」
上野で散々浴びせられた言葉だ。胸の奥がちくりとしたが、今さら腹を立てても仕方がない。
こいつらはラーメンを嫌っているんじゃない。何を食べていたのか、忘れさせられているだけなのだ。
「いらっしゃい! 水戸のラーメン、一杯どうだ! 旨いぞ!」
何度声を張っても客は来ない。店主もカウンターの奥で困ったように見ている。
そんな中、ひとりの若い男が足を止めた。学生らしい格好で、さっきから腹を押さえながらこちらを見ている。
「おい、兄ちゃん。腹、減ってねえか?」
「減ってますけど……それ、何なんですか?」
「ラーメンだよ。水戸に昔から縁のある料理だ」
「らーめん……?」
「水戸に住んでるんだろ? せっかくだ、ひと口食ってみろ」
男は怪訝そうな顔をしたものの、帰ろうとはしなかった。どうやら食欲の方が警戒心に勝ちかけているらしい。
そのとき、商店街の向こうから人が慌ただしく逃げてきた。
何事かと思って顔を上げると、通りの真ん中を墨色の袈裟をまとった僧が歩いてくる。背の高い痩せた男で、網代笠もかぶっていない。細い目をこちらへ向けたまま、店の前で足を止めた。
「よくも、ここまで漕ぎ着けたものだ」
声は静かだったが、ぞっとするような圧があった。瑞龍山で戦った物見の僧とは明らかに違う。
「拙僧は玄達。この水戸の楔を預かる者。関東一円の忘却は、拙僧の守る楔が支えておる」
「あんたが番人か」
「いかにも。物見どもを退けた腕は認めよう。だが、ここまでだ」
玄達はカウンターに用意した丼を見て、眉をひそめた。
「その一杯を、土地の者に食わせるわけにはいかぬ」
「悪いな。もう味は決まってるんだ。食ってもらわなきゃ、作った甲斐がねえ」
「ならば、その味ごと消してくれよう」
玄達が片腕を振るった途端、袈裟の内側から無数の札が舞い上がった。
「ミキ、鍋を守れ!」
俺は白い包丁を呼び出し、店の入口に立った。飛来する札を手首の返しで断ち落としていくが、昨日の物見とは数が違う。斬っても次が来る。切り損ねた一枚に頬を裂かれ、別の札が腿をかすめた。
ミキもオタマで必死に防いでいるが、二人がかりでも押し返すのがやっとだった。通行人たちは悲鳴を上げて逃げ出し、中には離れた場所からスマホを向けている奴までいる。
玄達はそんな騒ぎを気にも留めず、両手を胸の前で合わせた。
「封湯」
低い声が響いた瞬間、厨房のコンロから火が消えた。
「……何だ?」
振り返ると、寸胴から立ちのぼっていた湯気まで止まっている。ミキが慌てて鍋を覗き込むと、さっきまで熱々だったスープが、嘘のようにぬるくなっていた。
「大将、スープが冷めてます!」
ミキがオタマを差し入れ、力を込める。しかし、前の戦いで見せた黄金色の光は弱々しく瞬くだけで、すぐに消えてしまった。
「無駄なことよ。拙僧の法がある限り、あの鍋に熱は戻らぬ。湯気の立たぬ麺料理を、誰が好んで食うものか」
玄達の口元が、わずかに歪んだ。
なるほど、ただ札を飛ばしてくるだけの相手じゃない。こいつは俺たちが何をしようとしているか、よく分かっている。
料理を完成させる前に、火を奪うつもりなのだ。
◆
俺は玄達の手元に目を凝らした。
合わせた掌の間に、一枚の黒い札が浮かんでいる。そこから煙を引いたような細い筋が伸び、厨房の寸胴やコンロに絡みついていた。
「……あの札が術の要か」
玄達が鼻で笑った。
「見抜いたところで、どうにもできまい」
「そいつは、切ってみなきゃ分からねえな」
俺が一歩踏み込むと、玄達は再び札を放った。真正面から受ければ、数に押し切られる。俺は無理に全部を斬ろうとはせず、手首だけで刃を返し、進むのに邪魔な札から払い落とした。
三十年、チャーシューを切ってきた。肉の繊維を見て、余計な力を入れず、刃を引く。相手が札だろうと、切るべきところを見極めるのは同じだ。
札の隙間を抜け、黒い筋へ包丁を滑らせた。
ぷつん、と妙な手応えがあった。
「なにっ!」
玄達の表情が変わる。同時に、厨房から白い湯気が噴き出した。
「ミキ、今だ!」
「はいっ!」
ミキがオタマを振るうと、立ちのぼる湯気が渦を巻いて集まり始めた。黄金色の光が寸胴へ流れ込み、スープの表面に細かな泡が浮かぶ。封じられていた熱が、ようやく戻ってきたのだ。
俺は厨房へ駆け戻り、消えていたコンロに火を入れ直した。麺茹で用の鍋を沸かす間も、玄達は残った札を次々に飛ばしてくる。
その前にミキが立ちはだかった。
「大将、こっちは任せてください!」
「頼んだぞ!」
さっきの術が再び使われれば終わりだ。俺は玄達の手元を警戒しながら、麺茹で用の湯が沸くのを待った。ミキはオタマで札を弾き、時には鍋からあふれかけた熱まで掬い取って、厨房を守っている。
「大将、まだですか!」
「もう少しだ! 生茹での麺を出せるか!」
「命懸けなのに、そこは譲らないんですね!」
「当たり前だろ!」
ようやく湯が沸き、麺を投入した。茹で具合を確かめて引き上げ、しっかり湯を切る。温めておいた丼に醤油の返しと清湯を合わせ、麺を収めてから五辛の薬味を添えた。
葱と生姜の香りが、湯気に乗って立ちのぼる。
仕上がりは上々だ。こんな騒ぎの中で作った割には、我ながらよくできた。
俺は丼を手に、店の入口へ向かった。
「おい、そこの兄ちゃん!」
さっきの若い男は逃げ遅れたらしく、カウンターの陰で小さくなっていた。
「腹、減ってるんだろ。食ってみろ!」
「そ、それどころじゃないでしょう!」
「そう言うなって。せっかく作ったんだ」
丼を差し出すと、男は怯えながらも湯気を見つめた。うまそうだとは思えないらしく、眉を寄せている。それでも、さっきから腹の虫は正直だった。
「……これ、変なもの入ってませんよね?」
「豚と鶏の出汁に麺と野菜だ。変なものなんか入れちゃいねえよ」
男がおそるおそる箸に手を伸ばした瞬間、玄達が叫んだ。
「食うな! その麺を口にするでない!」
黒い札が男めがけて飛んでくる。俺が包丁で払い落とすと、続く札はミキが弾き返した。
「食事の邪魔をするなってんだ!」
男は俺たちを交互に見比べたあと、意を決したように麺を啜った。
その手が、途中で止まった。
「……あれ?」
続けてスープを飲み、もう一口、今度は勢いよく麺を啜る。男の表情がみるみる変わっていった。
「これ……」
ぽろりと涙が落ちた。
「ラーメンだ。俺、これ知ってる。昔から食ってた……」
俺は思わず包丁を握る手を緩めた。
「なんで忘れてたんだろう。こんな旨いもの……」
男は涙を拭おうともせず、夢中で麺を啜っていた。
あの日、上野で悪臭と罵られ、警察に頭を下げ、誰にも食ってもらえずに店を閉めようとした。その俺のラーメンを、今、目の前の人間が旨いと言って食っている。
たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
◆
異変が起きたのは、その直後だった。
男の足元から淡い光が立ちのぼり、店先の地面へと広がっていく。石畳の奥に何かが浮かび上がり、やがて巨大な黒い杭のような影が姿を現した。
玄達が胸元を押さえる。そこに下がっていた札にも、同じ光が走っていた。
「馬鹿な……関東の楔が……!」
黒い杭に、びしりと亀裂が入った。玄達は慌てて両手を広げ、周囲に散っていた札をかき集める。何十枚もの札が杭に貼りつくと、広がりかけたひびが少しずつ塞がっていった。
「させぬ! この楔だけは、何としても守らねばならぬ!」
その声には、さっきまでの余裕がなかった。
男の足元から立ちのぼる光が弱まり、丼を持つ手が震え始める。
「……あれ? 俺、何を……」
まずい。せっかく戻った記憶が、また封じられようとしている。
俺はミキに男を任せ、玄達へ駆け出した。狙うのは坊主の体じゃない。楔のひびを塞ぎ、術を立て直している札の束だ。
玄達もそれに気づいたらしい。飛んでくる札の数が増え、傷ついた肩が悲鳴を上げ始めた。だが、ここで退くわけにはいかない。
「お前が何を守ってるか知らねえが、こっちにだって守りたいもんがあるんだよ!」
俺は札の流れを見極め、束の根元へ包丁を滑らせた。
一気に引く。
白い刃が術を断ち切り、杭に貼りついていた札が宙へ舞い上がった。
「ぐっ……!」
玄達がよろめく。その隙にミキが男の傍へ駆け寄り、オタマを丼の上にかざした。
男の記憶を押し潰そうとしていた黒い靄が、黄金色の湯気に押し返されていく。ミキは歯を食いしばり、丼を守るようにオタマを握り続けた。
「思い出して! 今、食べてるのはラーメンですよ!」
男は何度か瞬きをしていたが、やがて丼をしっかり持ち直した。
「……そうだよ。ラーメンだ!」
その声は、さっきよりずっとはっきりしていた。
「俺、ラーメンが好きだったんだ!」
男が最後のひと口を啜ると、黒い杭に無数の亀裂が走った。
玄達が叫び、両手を伸ばしたが、もう間に合わない。
乾いた音を立てて、関東を縛る楔が砕け散った。
◆
砕けた楔から放たれた光は、店先の石畳を伝い、商店街の向こうへと広がっていった。
道の真ん中で立ち尽くしていた女が、ふいに顔を上げる。さっきまで匂いを嫌がっていたはずなのに、今は厨房から流れる湯気を見つめている。
「……ラーメン?」
その隣の老人も、店の看板を指差した。
「そうだよ。ここ、ラーメン屋だったじゃねえか」
「私、この店によく来てたのに……どうして忘れてたんだろう」
次々と声が上がり、人々が店へ戻ってきた。泣いている者もいれば、急に腹が減ったと騒ぎ出す者もいる。
「おい、兄ちゃん! 俺にも食わせてくれ!」
「チャーシュー麺はあるのか!」
「並ぶから作ってくれ!」
俺は思わず笑ってしまった。
「馬鹿野郎! 一度にそんなに作れるか! 順番に並べ!」
久しぶりに聞く、ラーメン屋の客の声だった。
厨房を振り返ると、店主が寸胴の前で立ち尽くしていた。震える手で鍋の縁を撫で、壁の品書きを見上げている。
「……そうだ。俺、ラーメンを作ってたんだ」
その顔を見た途端、何を言えばいいのか分からなくなった。
店主は目元を拭い、俺の方を向いた。
「兄ちゃん、ありがとな。忘れてたよ、自分の仕事まで」
「礼なんかいいよ。それより、客が待ってるぜ」
店主は泣き笑いの顔になった。
「そうだな。久しぶりに腕を振るうか」
俺は頷き、店主へ場所を譲ろうとした。
そのとき、背後から低い声が聞こえた。
「……愚かなことを」
玄達は砕けた楔の前に膝をついていた。胸元の札は灰になり、墨色の袈裟もところどころ焦げている。
「お前たちは、自分が何をしたのか分かっておらぬ」
「関東のラーメンを取り戻した。それだけだ」
「それだけ、だと……?」
玄達は信じられないものを見るように俺を睨んだ。
「忘却は、千年の封を守るために施されたもの。ラーメンが蘇れば、封を蝕む瘴気もまた満ちる。お前が一つの土地を解き放つたび、あの封印は弱まっていくのだ」
瑞龍山で朱舜水から聞いた話と同じだった。
「そこまで言うなら教えろよ。いったい何を封じてるんだ」
玄達は答えなかった。代わりに、懐から別の札を取り出して地面へ押しつける。
足元に墨色の円が広がった。
「我らは、世界を守らねばならぬ。お前もいずれ、己の愚かさを知ることになろう」
「おい、待て!」
俺が駆け寄るより早く、札から噴き出した黒い煙が玄達を包んだ。煙が晴れると、そこには焦げた紙片だけが残っていた。
逃げられたらしい。
追いかける手掛かりもなく、俺は包丁を収めた。
玄達の話が本当なら、ラーメンを取り戻すことは、高野山の封印を壊すことにつながる。そいつが何なのかも、壊れたらどうなるのかも、今の俺には分からない。
だが、背後の店には行列ができていた。店主はさっそく昔の手つきで麺茹で機を動かし、客たちは思い出したばかりのラーメンの話で盛り上がっている。
この人たちの記憶を奪ってまで守るべきものがあるというなら、そいつの正体くらい確かめてやろうじゃないか。
そう思ったところで、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「……参ったな。また警察かよ」
ミキが、妙に楽しそうに笑った。
「今度はちゃんと説明しましょうね、大将」
「空飛ぶ札と光る包丁をか? 俺だって信じねえよ、そんな話」
◆
その日の夜、ようやく騒ぎが落ち着いた頃、ミキがスマホを握りしめて駆け寄ってきた。
「大将、見てください。関東中でラーメンが復活してます!」
画面には、湯気の立つラーメンの写真が溢れていた。東京の店が営業再開を知らせ、横浜では家系ラーメンを求める行列ができている。埼玉や千葉、群馬や栃木からも、忘れていた味を思い出したという投稿が次々に流れてきた。
『東京のラーメン屋が続々と営業再開してる!』
『横浜の家系ラーメン復活! 久々に食ったら涙出た』
『栃木でもラーメンの記憶が戻ったぞ。何だったんだ、あの数日間』
『水戸で妙な騒ぎがあったらしいけど、関係あるのか?』
どうやら本当に、関東全域の楔が砕けたらしい。
俺は我慢できず、上野のライバル店へ電話をかけた。
『おう、井伊か!』
聞き慣れた声に、思わず喉が詰まった。
「……お前、自分の店が何屋だったか、思い出したか?」
『当たり前だろ、ラーメン屋だよ! お前、何言ってんだ?』
「そうか。そうだよな」
『それより聞いてくれよ。俺、何日か前に「コーヒー始めました」なんて紙を貼ってたらしいんだよ。ラーメン屋でインスタントコーヒー売ってどうすんだって話だろ!』
思わず吹き出した。電話の向こうでも、景気のいい笑い声が上がる。
『で、お前は今どこにいるんだ?』
「水戸だよ」
『水戸? 何やってんだ、そんなとこで』
「ちょっと、ラーメンの勉強にな」
『相変わらず馬鹿だな、お前は。帰ってきたら、また勝負しようぜ』
俺はしばらく返事ができなかった。
「……ああ。絶対にな」
電話を切ると、胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどけた気がした。
東京も戻ったのだ。
俺の店だって、また暖簾を掛ければ客が来るだろう。いつもの常連がいつもの席に座り、好き勝手な注文をつける。そんな当たり前の日常が、ようやく戻ってきた。
「大将、泣いてます?」
「馬鹿。煙が目に染みただけだ」
「ここ、煙なんか出てませんけど」
「うるせえな!」
ミキがくすくす笑った。
だが、SNSの騒ぎはそれで終わらなかった。
関東以外の地域では、相変わらずラーメンの記憶が消えたままだ。そのため、関東で突然復活した麺料理をめぐって、あちこちで言い争いが始まっていた。
『関東の人間、全員おかしくなったのか?』
『ラーメンって何? 豚の骨の煮汁に麺を入れるの?』
『関東で謎の麺料理が大流行。集団洗脳じゃないかって噂まで出てる』
『家系ラーメンって何だよ。家族で骨を煮込むのか?』
当然、関東の人間も黙っていない。
『お前らこそラーメン忘れたのかよ!』
『日本人ならラーメン知らないわけないだろ!』
『こっちは本当に記憶が戻ったんだって!』
『とりあえず食え! 話はそれからだ!』
読んでいるだけで頭が痛くなってきた。少し前まで誰もが知っていたはずの料理が、今では関東だけで流行する怪しい汁物として扱われている。しかも、どちらも本気で話しているから始末が悪い。
「……大将。これ、すごいことになっちゃいましたね」
「ああ。ラーメン一杯で、日本中が喧嘩してやがる」
ミキが画面をスクロールしていたが、ふいに指を止めた。
「大将、これ見てください」
そこに写っていたのは、昼間、厨房を借りた店だった。店主が寸胴の前に立ち、涙を拭いながら笑っている。
『今日、突然全部思い出した。俺はラーメン屋だった。明日から、また営業します』
写真の奥には、掛け直された暖簾も見えた。
俺はしばらく、その一枚を眺めていた。
今頃あの店主は、明日の仕込みに追われているのかもしれない。営業を再開すれば忙しくなるし、面倒な客も来るだろう。寸胴の火加減に気を揉んで、麺の茹で時間に神経を使う毎日が始まるのだ。
だが、本人が望むなら、それが一番いい。
「……よかったな」
声に出すと、ミキが嬉しそうに頷いた。
俺と同じように、自分の仕事を忘れてしまった職人が全国に大勢いる。そいつらがまた厨房に立てるのなら、今日の苦労も無駄じゃなかった。
◆
「ミキ。次だ」
「次、どこ行くんですか?」
「北だ。喜多方って町に、とびきりのラーメンがある」
ミキの顔が、ぱっと明るくなった。
「喜多方! 太い縮れ麺の!」
「ああ。朝からラーメン食う連中がいる町だ」
「朝ラーですね! 行きましょう!」
「お前、また食い物のことしか考えてねえだろ」
「大将だって、麺のこと考えてるときが一番楽しそうですよ」
言い返せなかった。
俺は目の前の丼を引き寄せた。澄んだ醤油のスープに、蓮根の澱粉を練り込んだ麺。いつもの醤油豚骨とは違うが、苦労しただけあって、なかなか旨い。
玄達の言葉は、まだ耳に残っている。ラーメンを取り戻すほど、千年の封印が緩むという話だ。
いつか、その正体を突き止めなければならない。
だが、今はまだ分からないことだらけだし、目の前にはせっかく作った一杯がある。
俺は麺を持ち上げ、勢いよく啜った。
「……旨いな」
「大将、私にも一口ください!」
「お前、さっきあれだけ食っただろうが!」
「これは別腹です!」
結局、残りの半分をミキに取られた。
◆
その頃、高野山の地下深くでは、千年の封印を守る岩戸から、一枚の札が剥がれ落ちていた。
駆けつけた僧たちが青ざめる中、阿闍梨は黙って岩戸を見つめていた。封印の綻びを繕うために長い歳月を費やしてきたが、関東の楔が砕かれたことで、その苦労がまた一つ水泡に帰したのだ。
「……井伊ナオキ。お前は、自分が何を目覚めさせようとしているのか、分かっておらぬ」
老僧が剥がれ落ちた札を拾い上げると、岩戸の奥から低い音が響いた。
獣の唸り声にも、腹の虫の音にも似た、不思議な音だった。
阿闍梨はしばらく耳を澄ませていたが、やがて僧たちへ向き直った。
「次の楔を守る者たちに伝えよ。あの料理人を、これ以上進ませてはならぬ」




