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10、HYDRA CHRYSALIS ―ASCENSION― ―境界を越えた時、世界は神話になる―第5章 原初帰還   作者: Nao9999


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第92話 目覚めを待つ海

眠っている者は、何も知らない。


そう思っていた。


だが、本当に眠っていたのは——


世界のほうだったのかもしれない。

AQUA-7。


施設全域の照明が、一斉に半減した。


停電ではない。


電力は十分に供給されている。


それでも光だけが、自ら明るさを落としていた。


「また始まった。」


管理体は静かに立ち上がる。


誰も命令していない。


それでも施設は“夜”を作ろうとしていた。



EVEのカプセル。


透明だったはずの表面に、細かな水滴が並んでいる。


内側から。


まるで呼吸のたびに結露しているようだった。


管理体は手を当てる。


冷たい。


いや。


一瞬だけ温かかった。


「……聞こえるか。」


返事はない。


だが、その瞬間。


カプセルの向こうで、EVEの睫毛が震えた。


ほんのわずか。


夢を見る者の動きだった。



地下海。


玲司は砂に刻まれた文字を見つめ続けていた。


《遅くなって、ごめん。》


波が寄せても消えない。


砂ではない。


記憶そのものに刻まれているようだった。


「玲司。」


アヤが隣にしゃがむ。


「思い出せそう?」


玲司は目を閉じる。


胸の奥で、空白の鼓動が鳴る。


一拍。


沈黙。


その沈黙の中だけ、誰かの笑い声が聞こえた。


優しい声だった。


懐かしい。


それなのに顔が浮かばない。


「分からない。」


玲司は首を振る。


「でも、この言葉は約束だ。」


誰との約束なのか。


それだけが、世界から切り取られていた。



地下海の水面に、小さな輪が生まれる。


一つ。


また一つ。


今度は内側へ沈まない。


逆だった。


水中から外へ押し広げている。


「下から……。」


アヤが息を呑む。


水の底が光った。


青い。


世界樹と同じ色。


その光は一本の線になり、岸辺へ伸びてくる。


根ではない。


道だった。


玲司の足元で止まる。


誘うように。



管理体の端末に、新しい記録が生成される。


誰も入力していない。


画面には短い一文だけ。


<escape>SUBJECT: EVE</escape>


<escape>STATUS: WAITING ENDED</escape>


管理体は目を見開く。


「終わった……?」


その直後。


施設中のスピーカーから、小さなノイズが流れる。


ザーッ——


途切れる。


そして、少女の息を吸う音だけが響いた。



玲司は青い道へ一歩近づく。


その瞬間。


世界が止まった。


波が止まる。


霧が止まる。


アヤの瞬きも止まる。


動いているのは玲司だけ。


静止した世界の中で、誰かが歩いてくる。


裸足。


白い服。


第89話で夢に現れた子どもだった。


今度は顔が見える。


だが。


見えた瞬間に忘れる。


目を逸らしたわけではない。


脳が、その顔を持ち帰れなかった。


子どもは玲司の前で立ち止まる。


小さく微笑む。


「もう待たせない。」


そう言って、玲司の胸へ手を伸ばした。


触れる寸前。


世界が動き出す。


霧が揺れる。


波が砕ける。


子どもの姿は消えた。


玲司は胸を押さえる。


そこには、小さな青い紋様が浮かんでいた。


世界樹の葉脈に似た印。


アヤがそれを見つめ、静かに呟く。


「それ……前には無かった。」


玲司も頷く。


分かっていた。


何かが始まった。


それは目覚めではない。


もっと古い。


“帰還”の始まりだった。

第92話「目覚めを待つ海」を読んでいただき、ありがとうございます。


今回はEVEを巡る空気が大きく変わり、「待機が終わった」という初めての明確な変化が現れました。


一方で、玲司には世界樹と繋がるような青い紋様が刻まれ、夢の子どもは「もう待たせない」と告げます。


まだ誰の正体も語り切らないまま、世界だけが先に動き始めました。


次話では、玲司の胸の紋様がAQUA-7そのものへ影響を及ぼし始め、榊悠真が遺した最後の“扉”へ物語が近づいていきます。


引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。

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