第91話 深淵のまばたき
目を開く。
それは世界を認識するということ。
だが——
深淵がこちらを認識した瞬間、人は初めて「見られる」という恐怖を知る。
地下海が、瞬きをした。
最初は錯覚だと思った。
水面がわずかに暗くなり、また元へ戻る。
その間隔が、玲司の鼓動と重なっていた。
一拍。
暗転。
一拍。
光。
「……今、見えたか?」
玲司の問いに、アヤは答えなかった。
彼女は海ではなく、天井を見上げていた。
「上。」
玲司も視線を向ける。
岩盤の裂け目から、一滴の水が落ちる。
音はしない。
水滴は途中で止まった。
空中に浮かんでいる。
二滴。
三滴。
やがて数百の水滴が、地下海の上空に静止した。
時間そのものが息を止めたようだった。
◇
次の瞬間。
すべての水滴が一斉に落ちる。
波紋。
無数の波紋。
しかし広がらない。
すべて中央へ吸い込まれる。
「まただ。」
玲司は胸を押さえる。
空白の鼓動。
内側へ沈む波紋。
同じ現象だった。
地下海は呼吸している。
いや。
目を開いた何かが、呼吸を始めた。
◇
AQUA-7。
施設全域で警報が鳴る。
《生命反応増大》
《深度同期率上昇》
《ROOT NETWORK 自律拡張》
管理体は端末を閉じた。
「止められない。」
誰へともなく呟く。
EVEのカプセルへ視線を向ける。
眠る少女。
その指先が、一ミリだけ動いた。
「……まだ起きるな。」
返事はない。
だがカプセルの表面に、小さな水滴が浮かんだ。
施設内に海水が入り込んだわけではない。
内側から滲んでいた。
◇
地下海の岸辺。
霧の中の人影が揺れる。
一人が前へ出る。
足音はない。
それでも砂だけが沈む。
玲司は息を呑む。
胸の中央。
穴。
鼓動のない空洞。
その姿を見た瞬間、頭の奥で誰かの記憶が流れ込んだ。
白い研究室。
赤い警告灯。
榊悠真が誰かを抱き起こしている。
「急げ!」
その腕の中にいる人物は見えない。
ノイズが走る。
映像は途切れた。
玲司は膝をつく。
「悠真……。」
名前が自然に口をついた。
◇
アヤが玲司を支える。
「戻るよ。」
その言葉で我に返る。
だが帰ろうとした瞬間。
岸辺に新しい足跡が現れた。
誰も歩いていない。
砂だけがへこんでいく。
一歩。
また一歩。
こちらへ向かってくる。
見えない誰か。
玲司は動けない。
足跡は目の前で止まった。
そして。
砂の上に、小さな文字が刻まれる。
《遅くなって、ごめん。》
アヤが震える声で言う。
「誰が書いたの……。」
玲司には分かってしまった。
この言葉を、自分は知っている。
いつ。
どこで。
誰から。
思い出せない。
それが一番恐ろしかった。
◇
地下海の底。
巨大な影は完全には姿を現さない。
ただ。
閉じていた瞳が、もう一度ゆっくりと瞬く。
その視線は。
玲司ではなく。
眠るEVEへ向いていた。
第91話「深淵のまばたき」を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は「見られる恐怖」と「思い出せない記憶」を静かに積み重ねました。
見えない足跡が残した「遅くなって、ごめん。」という言葉は、玲司の過去だけでなく、シリーズ全体の“約束”にも繋がる重要な伏線です。
そして最後に、深淵の存在が見つめていたのは玲司ではなくEVEでした。
次話から、EVEを巡る物語が大きく動き始めます。
引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。




