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10、HYDRA CHRYSALIS ―ASCENSION― ―境界を越えた時、世界は神話になる―第5章 原初帰還   作者: Nao9999


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第91話 深淵のまばたき

目を開く。


それは世界を認識するということ。


だが——


深淵がこちらを認識した瞬間、人は初めて「見られる」という恐怖を知る。

地下海が、瞬きをした。


最初は錯覚だと思った。


水面がわずかに暗くなり、また元へ戻る。


その間隔が、玲司の鼓動と重なっていた。


一拍。


暗転。


一拍。


光。


「……今、見えたか?」


玲司の問いに、アヤは答えなかった。


彼女は海ではなく、天井を見上げていた。


「上。」


玲司も視線を向ける。


岩盤の裂け目から、一滴の水が落ちる。


音はしない。


水滴は途中で止まった。


空中に浮かんでいる。


二滴。


三滴。


やがて数百の水滴が、地下海の上空に静止した。


時間そのものが息を止めたようだった。



次の瞬間。


すべての水滴が一斉に落ちる。


波紋。


無数の波紋。


しかし広がらない。


すべて中央へ吸い込まれる。


「まただ。」


玲司は胸を押さえる。


空白の鼓動。


内側へ沈む波紋。


同じ現象だった。


地下海は呼吸している。


いや。


目を開いた何かが、呼吸を始めた。



AQUA-7。


施設全域で警報が鳴る。


《生命反応増大》


《深度同期率上昇》


《ROOT NETWORK 自律拡張》


管理体は端末を閉じた。


「止められない。」


誰へともなく呟く。


EVEのカプセルへ視線を向ける。


眠る少女。


その指先が、一ミリだけ動いた。


「……まだ起きるな。」


返事はない。


だがカプセルの表面に、小さな水滴が浮かんだ。


施設内に海水が入り込んだわけではない。


内側から滲んでいた。



地下海の岸辺。


霧の中の人影が揺れる。


一人が前へ出る。


足音はない。


それでも砂だけが沈む。


玲司は息を呑む。


胸の中央。


穴。


鼓動のない空洞。


その姿を見た瞬間、頭の奥で誰かの記憶が流れ込んだ。


白い研究室。


赤い警告灯。


榊悠真が誰かを抱き起こしている。


「急げ!」


その腕の中にいる人物は見えない。


ノイズが走る。


映像は途切れた。


玲司は膝をつく。


「悠真……。」


名前が自然に口をついた。



アヤが玲司を支える。


「戻るよ。」


その言葉で我に返る。


だが帰ろうとした瞬間。


岸辺に新しい足跡が現れた。


誰も歩いていない。


砂だけがへこんでいく。


一歩。


また一歩。


こちらへ向かってくる。


見えない誰か。


玲司は動けない。


足跡は目の前で止まった。


そして。


砂の上に、小さな文字が刻まれる。


《遅くなって、ごめん。》


アヤが震える声で言う。


「誰が書いたの……。」


玲司には分かってしまった。


この言葉を、自分は知っている。


いつ。


どこで。


誰から。


思い出せない。


それが一番恐ろしかった。



地下海の底。


巨大な影は完全には姿を現さない。


ただ。


閉じていた瞳が、もう一度ゆっくりと瞬く。


その視線は。


玲司ではなく。


眠るEVEへ向いていた。

第91話「深淵のまばたき」を読んでいただき、ありがとうございます。


今回は「見られる恐怖」と「思い出せない記憶」を静かに積み重ねました。


見えない足跡が残した「遅くなって、ごめん。」という言葉は、玲司の過去だけでなく、シリーズ全体の“約束”にも繋がる重要な伏線です。


そして最後に、深淵の存在が見つめていたのは玲司ではなくEVEでした。


次話から、EVEを巡る物語が大きく動き始めます。


引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。

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